第58話 奇襲

――紀元前218年 シチリア島

 フラミニウスは一時動揺した兵を迅速に立て直し、イベリア軍中央に攻勢をかけていた。左右から攻め立てる煩い騎兵に対しても、方陣を巧みに組み立てなおし押し返すことに成功していた。

 右翼に攻め立てたイベリア騎兵こそスキピオ・マイヨルが警戒していた「強力な騎兵」だろうと彼は判断する。こちらは敵に比べ半分の騎兵で当たったため、押し込まれることは想定していたが、「強力な騎兵」は噂以上の精強さだったとフラミニウスは舌を巻いた。

 とはいえ、彼は事前に「騎兵が強力である」と聞いていたから、敵の陣形を見た時に左右から攻め立てられることは想定していた。

 だからこそ、方陣を組み立て直す動きも最低限の被害で乗り切ることが出来たのだ。騎兵の突進力はもはやない。優勢だった兵力も同数まで落ち込んでしまったが、ここからは力比べだな……フラミニウスが前方を睨んだ時事態は急展開する。

 

「フラミニウス様! 後方より敵騎兵が!」


 伝令の男は息を切らしながら、フラミニウスに報告を行う。


「何! 伏兵か!」

 

 フラミニウスが耳をそばだてると確かに後方から悲鳴やどよめきが聞こえてくる。

 こ、これは完全にしてやられた。フラミニウスは空を仰ぐが、すぐに顔に笑みを浮かべ伝令へ各司令官へ伝達を命じる。

 

「仕方ない。ここは引かせてもらうとしよう。左翼の敵騎兵を突破し撤退するぞ。殿は私が勤める!」


 フラミニウスの命を受けた伝令は馬に乗ると各地へ彼の意思を伝えに向かっていった。

 フラミニウスの伝令を受けた各指揮官は撤退すべく、自軍の左翼を塞ぐイベリア騎兵へ激しい攻撃を加えだすと元より苦戦していたイベリア騎兵は耐え切れず道を開ける。

 

 そこへローマ軍が殺到すると、イベリア軍の包囲にほころびが更に広がり突破を許す。

 

「撤退だ! 殿しんがりは私が勤めよう!」


 フラミニウスは撤退していく中であっても、声を張りあげ兵を勇気づける。この間にも前後左右のイベリア軍によって兵がどんどん削られていくが、逃げねば全て打ち倒されてしまうことが明らかな状況下において被害を考慮している余裕は無い。

 ローマ軍後方は特に被害が大きく、フラミニウスは彼らと共に最後の力を振り絞り開いた穴から脱出していく。

 

「よし、このまま脱出だ!」


 敵の包囲を抜けきり、味方を称賛するフラミニウスの元に風を切る鋭い音が迫る。


「フラミニウス様!」


 傍らの騎兵が彼の名を呼ぶが、彼に迫った凶刃……投げ槍は吸い込まれるようにフラミニウスに突き刺さる。

 投げ槍は彼の左肩の下……上腕部に後方から突き刺さると、彼の腕を刃が突き抜けたところでようやく停止した。

 

「グッ!」


 フラミニウスはくぐもった声を出すが、ここで馬上から落ちては命が助かる見込みがないことを理解していたため、必死で手綱を掴み落馬することを堪える。


「大丈夫だ! 急所は外れた。このまま撤退するぞ」


 駆け寄ろうとする騎兵を手で制し、フラミニウスは槍が刺さったまま、戦場から撤退していく。

 この後イベリア軍が追撃を行うが、攻囲さえ解いてしまえば元より精強なローマ兵は被害を最小限に抑えメッシーナ方面に逃げ切ることに成功した。

 

 撤退中の落伍者も合わせると、ローマ軍七万の内メッシーナ近郊の拠点まで帰り着いたのは六割弱に当たる四万に過ぎなかった。拠点に辿り着いたフラミニウスはその場で気絶してしまい、迅速な治療の結果一命をとりとめる。

 しかし、彼の左腕は使い物にならなくなっており、戦線に復帰できたとしても年単位の静養が必要だと彼が目を覚ました時、医師が彼に伝えた。

 執政官コンスルフラミニウスは重傷、約四割の兵を失ったローマの完敗でシチリア島の戦いは幕を閉じた。

 

 

◇◇◇◇◇



 一方、ハンニバル率いるイベリア軍は追撃から戻った兵を収容しシラクサ近郊の拠点に意気揚々と帰還し始めていた。この戦いで彼らが被った被害はおよそ三千名。打ち倒した数の割に被害は少ないと言えるが補給が難しい中で三千名は小さくない被害と言えた。

 しかし、戦死者のうち二千名は歩兵で残りの千名は騎兵だった。千名程度の騎兵であれば、ヒエロンの所有する騎兵を借り受ければ補うことができるとハンニバルは見ている。

 騎兵はハンニバルの戦術でなくてはならない兵科であり、「過去」に比べ多くの騎兵を集め戦いに挑んでいた。ローヌ川、シチリア島と二度の戦いにおいて騎兵を「過去」より増やした効果は如実に現れていると彼は感じていた。

 

「ハンニバル様、ただいま戻りました」


 帰還しながらも別動隊に抽出した兵をそれぞれの部隊へ送り返す作業を終えたマハルバルがハンニバルの元へ顔を出し、馬を彼の隣に寄せる。

 

「すまぬな、奮戦した後に雑事まで」


「いえ、大切な兵なのです。これくらいいかほどでもありません」


「マハルバル、此度はお前の活躍、比類なきものであったぞ」


 ハンニバルは別動隊の奇襲を見事成功させたマハルバルを褒めたたえる。

 

「いえ、ハンニバル様。あの地へ別動隊を置いた慧眼けいがんがあってこそです」


 マハルバルは主君の称賛へ恐縮し、逆に敬愛する主君を称賛する。


「最後にお前が投げたという槍……フラミニウス殿に命中しているとよいな」


 ハンニバルは伝令よりマハルバルが投擲した槍がローマの将官らしき人物に突き刺さったと報告を受けている。フラミニウスの性格なら、最後まで兵を鼓舞し撤退するのではないかとハンニバルは思う。

 ならば、将官らしき人物とはフラミニウスかもしれないと考えたわけだ。

 

「確実に司令官の地位にある人物だとは思いますが、後ろ姿な上、距離も遠く……申し訳ありません」


「いや、よい。誰に当たったのかはガビアの諜報がすぐに掴んで来るだろう。戻ったら祝勝会だ、マハルバル」


「はい。ハンニバル様!」


 マハルバルは美しい顔に満面の笑みを浮かべ、ハンニバルへ応じる。黒髪長髪で長身痩躯のマハルバルは、秀麗な顔も相まってギリシャの舞台にあがる人気俳優と言われても不思議ではない容貌を持つ。

 しかし、彼は見た目と裏腹に天性の剣のセンスを持ち、一騎打ちにかけてはイベリア随一とハンニバルから言われるほどであった。彼ほど見た目と実力が相反する者はイベリア内にいないだろう。

 多少、硬すぎるところが玉にきずなのだがな……ハンニバルは僅かに口元を綻ばせ、マハルバルに向けていた目線を前へと移す。

 

 ハンニバルらは拠点に戻ると、シラクサのヒエロンへ使者を送るつもりだったがなんと僭主ヒエロン自身が彼らの拠点にかけつけハンニバルらの勇戦を絶賛する。

 彼は既に伝令からハンニバルらの戦勝報告を知らされていたらしく、居ても立っても居られなくなりここまで急いで駆けつけたそうだ。


 ハンニバルはその場でヒエロンに騎兵と歩兵を借り受ける依頼を行うと、ヒエロンは二つ返事でそれを了承する。元よりヒエロンは自身の持つ兵一万を戦場に派遣するつもりだったのだ。

 ハンニバルから「いずれ……」と言われていたため、今回は兵を同行させなかったが、自身の兵を使ってくれるならむしろ歓迎すべきことだと述べる。

 

 その晩、ハンニバルらは盛大な祝勝会を開き、夜が更けるまで行われた。

 翌日より兵を休息させたハンニバルは、ガビアへ使者を送りこのたびの戦勝を報告する。次の手はガビアの掴んだ情報次第だな……ハンニバルはガビアの元へ向かう伝令を見つめながらギュっと拳を握りしめた。

 

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