第56話 シチリア島の戦闘前夜

――紀元前218年 シチリア島

 敵はフラミニウスとパウルス。ガビアの使者から敵司令官の情報を得たハンニバルは作戦を練り直すことにした。

 使者が来たのはシチリア島の拠点を攻めるべく、野営陣地を構築しローマ守備隊の様子を探っている最中の出来事であった。

 

 「過去」において、ハンニバルはこの二人と戦ったことがあり、どちらも戦場で仕留めている。ローマの将帥は油断できる者など一人もおらず、自軍に比べ口惜しい事に優秀だ。

 フラミニウスは自身が直接相手をするから、小細工をせずローマ軍にはシチリアに上陸してもらう。その後奴らを討ち果たす。だが、海軍を率いるのがパウルスとなるとイベリア海軍で立ち向かえるだろうか?

 彼が得た情報によると、ローマ海軍の数は八十隻に及ぶという、対するイベリア海軍は輸送や最低限の護衛に使う船舶を除けば八十五隻が限界だろう。コルシカやバレアレス諸島に戦力をわずかながらも割く必要があり、軍船の建造は行っているが今すぐとなるとこの数になる。

 

 このような思案に暮れるハンニバルだったが、それを打ち消すようにテントの外から彼を呼びかける声が響く。

 

「ハンニバル様、お休みのところ申し訳ありません」


「マハルバルか、入れ」


 ハンニバルを呼んだのは腹心のマハルバルだった。彼はハンニバルの許可を受けてテントに入ると敬礼し膝をつく。

 

「ハンニバル様、ローマ守備兵は街と拠点へ引き上げていきました」


「ほう。戦いもせず引きこもるとはローマらしくないな」


「はい。こちらは大軍ですし、フラミニウス率いるローマ軍が近く到着することもあるからかと思います」


「ふむ、この兵力で小さい街や拠点を落としていくのは容易いことだが、フラミニウスと決戦を行う際に蠢動しゅんどうされては面白くないな」


「一旦引きますか?」


「うむ。シラクサ近郊に野戦陣地を作ろうか。そこで暫く待機だな」


「了解しました」


 マバルバルは頭を下げ、了承の意を示す。

 

「この後シラクサへ伝令を送る予定だが、糧食と予備の武器を出来得る限り集めさせる」


「なるほど。ある程度既に集まっておりますが、備えが多すぎて困ることはありません」


「いや、テウタ殿へ使者を送るつもりだが、イベリア海軍にはテティスとローヌ川へ退いてもらおうと思っている」


「海軍は決戦を避けるということですね」


「弱気な策でがっかりしたか? マハルバル」


「いえ、ハンニバル様のお考えは深い思慮があってのものかと思います。私に思うところはありません」


 マハルバルは恐縮した様子だったが、ハンニバルは態度で彼へ気にするなと示す。

 

 ハンニバルとてシチリア島で全て決着をつけたいのが本音だ。だが、お互いの船舶数がほぼ同数で真正面から戦うとなると分が悪い。

 テウタの実力を信じないわけではないが、ローマとイベリアは兵の質に差があり海戦では如実にその差が現れる。しかも、敵将のパウルス……こいつも厄介なのだ。

 パウルスは「過去」において、ハンニバルがローマを恐慌状態に陥らせた「カンネーの戦い」でローマ軍を率いた将帥だった。当時かれはローマの執政官コンスルで、ローマ軍を統括する立場にあった。

 彼はハンニバルと決戦を行うことに乗り気では無かったが、同格のもう一人の執政官コンスルが積極的に決戦を望み、彼が軍を率いる日に決戦が成された。

 乗り気ではなかったものの、カルタゴ軍に完全包囲された状況下であってもパウルスは奮戦し戦死した。一方の決戦を望んだ執政官コンスルは早々に逃げ出し命を繋いだ。

 

 考えが逸れてしまった……パウルスは名誉や出世欲といったものに左右されず行動することができる人物で、先のイリュリアとの海戦を勝利に導いた優秀な将帥である。陸で戦うのならともかく、経験も実績もテウタでは及びもつかないだろう。

 百戦錬磨の海のプロへ劣る戦力で挑むのはリスクが高い。ハンニバルはそう判断した。

 

 そこでハンニバルはイベリア海軍をオケイオンが守るテティスに引き上げさせることに決めた。といってもテティスに八十五隻の船は入港できないので、テティスには三十隻、残りの船はローヌ川を遡上させ、敵に備えさせる。

 もし、ローマ海軍がどちらかを撃滅しに来れば挟撃できるだろう。

 

 次にローマ海軍が他の拠点に攻め込もうとした場合だが……敵船は八十隻となると、全兵力を陸に降ろしても一万程度に過ぎない。この兵力ならばどこへ侵攻されようが陸で討ち果たせるだろう。

 イベリア海軍がテティスに引きこもった場合、おそらくローマ海軍はシチリア島に残り輸送を担いながら、こちらの輸送を遮って来るだろう。ひょっとしたらローマ元老院と市民の指示の元、テティスに来てくれるかもしれないが……

 

「マハルバル、明日より軍を移動させる。カドモスにもそう伝えておいてくれぬか」


「了解しました!」


「カドモスには明日一番に会うと併せて伝えておいてくれ」


「ハッ」


 マハルバルは一礼し、テントから退出していく。彼が出ていくのを見つめた後、ハンニバルはその場で座り再び思案に暮れる。


 敵が上陸するとすればおそらくシチリア島北東のメッシーナ近郊だろう。我々は南東のシラクサ近郊に拠点を構築する。奴らが出て来るか、我が軍が出るか……どちらでもよい。

 奴らの動向を見てから決めればいいだけのことだ。フラミニウスは確かに勇将ではあるが、私にとっては相性の良い相手になる。奴らを叩き潰す日が楽しみだ。ハンニバルは口元に獰猛な笑みを浮かべコップに入れたワインを飲み干した。

 ローマ元老院よ、諸君らはフラミニウスではなく、マルケルスこそこちらに派遣すべきだったのだ。ハンニバルは心の中で独白する。

 

 

◇◇◇◇◇


 

 翌日よりハンニバル率いるイベリア軍はシチリア島南東のシラクサ近郊まで引き上げ、ローマ軍に備えるべく物資の集積を加速させる。一方ローマ軍はフラミニウス率いる陸軍をパウルスら海軍が護衛を行いシチリア島北東のメッシーナ近郊へ移動を開始させた。

 ハンニバルの目論見通り、彼らはメッシーナへと歩を進めてきた。

 二週間が過ぎる頃、ローマ陸軍の輸送は完了しイベリア軍と戦う態勢が整う。さらに一週間が過ぎる頃、ハンニバルはフラミニウスらが移動を始めたとの情報を掴み、自身も北上を開始する。

 お互いの軍はもう目と鼻の先まで迫ろうとしていた。

 

 一方、ローマ海軍はイベリア海軍の動向を探るためシチリア島周辺だけでなく、近郊海域にまで斥候を送り込んでいたがテティスまでイベリア海軍が引き上げたと知ると二十隻ほどメッシーナに残し、対岸のイタリア半島の港町に寄港しそこを拠点とした様子だった。

 軍を分けたとはいえ、お互いに数時間で合流できる距離のため分割したのは単に寄港地の広さの問題だけだろうとイベリア側は判断した。

 

 ハンニバル、フラミニウスの激突目前となることと時を同じくして、ローマではスキピオ家による新設された軍団が形を成しつつあった。既に六万名の兵力を集めきりすぐにでも出撃できるまで体制を整えきっていたのだ。

 彼らの動きで今後の戦いが波乱の様相を見せることになるとは、スキピオ家以外の者はまだ誰も知ることはなかった。

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