第55話 フラミニウス

――紀元前218年 ローマ

 ハンニバルがシチリア島のシラクサまで制圧したことを知ったローマはイリュリアにいた軍船のうち八十隻を回航させ、二十隻をイリュリアに残す。そのため、マケドニア戦役の輸送へ必要な船舶が足りなくなったので新たに船を建造しはじめた。

 ローマの執政官コンスルの任期は一年間のため、今年も二名の執政官コンスルが選出された。それに加え、ローマ元老院は独裁官ディクタトルを任官させるか協議したが国家存亡の危機ではないと反対が賛成を上回ったため、独裁官ディクタトルの話は立ち消えとなる。

 

 ローマではローマ元老院で選出される二名の執政官コンスルが最高責任者となるが、権力が集中しないように「二名」でかつ任期が一年と定められている。しかし、これでは国家が一丸として戦わねばならぬ危機が訪れた際に、迅速な動きが阻害される恐れが出てくる。

 そのためにローマでは独裁官ディクタトルという地位があるが、こちらは非常に強力な権限を持ち、名前の通り独裁的に国家方針を決定し指導することが可能になる。

 ただし、独裁官ディクタトルが永遠の権力を保持し、国家そのものを牛耳ってしまうことを避けるため、任期は半年間と定められていた。

 

 独裁官ディクタトルは滅多なことでは選出されず、最新の独裁官ディクタトルは今から二十年以上前のポエニ戦争時に一度だけ選出された。ポエニ戦争は二十年以上に及ぶ戦争であったが、独裁官ディクタトルが選出されたのはただの一度だけ、それほど独裁官ディクタトルという地位の選出は通常なされることがないものなのだった。

 その点を考慮するとローマ元老院で独裁官ディクタトルの議論がなされるだけでも、ローマはそれなりの危機感をもっていることの証左と言えよう。

 

 今年選出された執政官はイリュリアで活躍したルキウス・パウルスとガリア・キサルピナで戦功をあげたガイウス・フラミニウスの二人となった。

 どちらも実績、実力ともにローマでも屈指の将帥であり、パウルスは海戦、フラミニウスは陸戦を担当することになった。

 一方、マケドニアとの戦いには「ローマの剣」ことマルケルスが引き続き務めることになる。

 

 ローマはさらに対イベリア対策として一軍を創設することを決め、その対応をスキピオ家に一任した。

 

 ガイウス・フラミニウスが再建したローマ軍七万をもってシチリア島のハンニバル率いるイベリア軍へ当たり、パウルスはローマ海軍のうち軍船八十隻でフラミニウスを護衛した後、イベリア海軍の撃滅に向かう。

 スキピオ家はイベリア戦線へ投入するローマ軍七万を抽出し、編成が終われば事に当たる予定となった。

 今年度のローマ指揮官の編成は、元老院からも市民からも現状もちうる指揮官のうち最高の者が集められたと称賛されるほどのものであった。マルケルスも含めたこれらの人物は確かに実績、実力ともローマの中でも最高位に位置すると言えよう。

 

 ローマ元老院はマケドニアの方がイベリアより国力が大きく、マルケルスに任せたわけだが、スキピオ家は動員戦力でイベリアを上回るマケドニアよりイベリアこそ脅威と見ていた。彼らは昨年の敗戦からイベリア軍の……特にハンニバルの指揮官としての優秀さを身をもって味わっていたからだ。

 

 出発の前夜、スキピオ・マイヨルはフラミニウスの邸宅に招かれ食事を共にしていた。普段はパトリキとプレブスと対立しあう彼らだが、戦争となるとお互い日ごろの仲の悪さはなりを潜め協力しあうようになる。

 外敵に対しては普段のしがらみを抜きにして協力しあえる。これこそがローマの強みで他国にはないものだった。

 

「ようこそ、マイヨル君」


 フラミニウスはマイヨルを迎え入れると、彼を座るように促し、自らワインを彼へ注ぐ。

 

「お招きいただきありがとうございます。私一人となってしまいましたがこのように迎えてくださり恐縮です」


「いやいや、お二人は軍の編成に多忙で、君に来てもらえただけでもありがたいよ」


 スキピオ・マイヨルは未だ二十にも満たない若造であるが、フラミニウスは若い彼のことを軽視せず賓客としてもてなす態度を崩さなかった。

 この態度にスキピオ・マイヨルはフラミニウスという人物に好感を持ち、細い目をさらに細めて笑みを浮かべる。

 

「敵将のことについてでしょうか?」


 スキピオ・マイヨルは会話が余り得意ではない。彼の見たところフラミニウスはとても気さくで話上手に見えるが、それでも彼は自分が世間話をすることは難しいだろうと思っていた。

 それゆえ、彼は単刀直入に本題を切り出したというわけである。

 

「そうだとも、マイヨル君。私はハンニバル殿と多少手紙のやり取りをしていた仲でね」


 フラミニウスはかつて「市民」についてハンニバルとやり取りをしていたことがある。イベリアとローマが戦争状態になってからは二人のやり取りはもちろん途絶えているが、フラミニウス個人としてハンニバルの考え方は好感の持てるものだった。

 そうは言っても、フラミニウスは憎むべき敵であるハンニバルに手心を加えるつもりは一切ない。彼にとってシチリア島に住むローマの市民こそ第一に守るべきであり、彼らを害しようとするイベリアのハンニバルは慈悲無く滅ぼすべき敵の一人なのだから。


「そうだったんですか。ならば私よりよほど詳しいのでは?」


 スキピオ・マイヨルはなるほどと思う。フラミニウスは普段から「市民のため」と主張し、平民の権利の拡大に躍起であったし、ガリア・キサルピナの遠征のきっかけも市民のためだと聞いている。

 対するハンニバルも民族を越えた平等を謳い、それら全てはイベリアの市民だと言う。どちらも「市民のため」という看板を掲げていることには変わりない。

 考え方の近い二人に交流があったもおかしくはないだろう。

 

「そんなことはないさ。彼と私は『市民について』語り合ったに過ぎないからね。実際に会ったこともない」


「なるほど。ハンニバル……私の見解ではローマ随一の将マルケルス殿と同等……いや凌ぐかもしれません」


 スキピオ・マイヨルの言葉を聞いたフラミニウスは思わず椅子から立ち上がる。

 いや、しかし……ありえるかとフラミニウスは思いなおすと首を振り、着席する。

 ハンニバルはスキピオ家の名コンビを破っているのだ。マルケルスは現状ローマ随一の将だとフラミニウスも思う。彼は優秀なローマの将帥の中でも一歩抜きんでている。

 そのマルケルスに匹敵……いや、上回るというのか。面白い。

 

 フラミニウスは口元に笑みを浮かべワインを口含む。

 

「面白い、それほどの将とあれば、燃えてくる!」


「さすがフラミニウス殿ですね。怯むどころかたぎるとは」


「強敵との戦い、これほど心躍るものはないとも」


「私は願い下げですが……」


 スキピオ・マイヨルは率直な気持ちをフラミニウスに伝える。彼は戦いに熱さや遣り甲斐を見出さない。より楽により効率よく勝てる手段を探すことこそ意義があると考えている。

 彼は思う。戦いに良いも悪いもないのだ。奮戦し敗れても、なすすべもなく敗れても結果は同じく「敗戦」。逆もまた然りなのだと。

 

「冷静に事へ当たることができるのは良い事だよ、マイヨル君。君のその思いは臆病ではない」


 スキピオ・マイヨルは細い目を見開き、フラミニウスを凝視する。若年なのに臆病だなと言われると思っていた彼はフラミニウスの意外な反応に驚きを隠せない様子だった。

 叔父スキピオ・ガウルスは勇猛果敢で知られ、きっとハンニバルと戦えるとなるとフラミニウス以上に興奮するだろう。父ならどうだろう。父は冷静沈着な方だと言われるが、それでも自身と考え方が違う。

 勇戦しローマへ勝利をと願うだろう。自身と異なりやはり「精神的」なものを考慮する。

 

「驚かせたようだが、私は君の考え方を悪く無いと思っているんだよ。勇敵より弱兵……自軍を一人でも多く生かして返すにはどちらの方がいいのかなんて考えるまでもないだろう?」


 フラミニウスは子供っぽい笑顔を浮かべ片目を閉じる。

 

「確かにそうですね」


 スキピオ・マイヨルは納得した様子でフラミニウスに応じた。

 この後彼らはハンニバルの戦術と騎兵の脅威について議論を交わし夜が更ける頃に解散となった。

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