第54話 僭主ヒエロン

――紀元前218年

 バレアレス諸島からオケイオンが『禿鷲クフブ傭兵団』のうち百名を伴い、ローヌ川西岸のテティスへと召喚され、ハンニバルはテティスで育てた志願兵を彼に預けた。

 その数歩兵二万。ハンニバルは遠征軍のうち騎兵五千をここに残し、オケイオンが率いるテティスの兵力は総勢二万五千となった。

 オケイオンに与える予定の役目はコルシカ、サルディニアを含めたゴール地方、東ローヌの防衛である。護衛艦程度の海軍力しか置いていないため、ハンニバルはローマが侵攻してきた場合、輸送船を攻撃せず陸で待ち構えるよう指示を出した。

 

 オケイオンへ兵を預けるとハンニバルは、コルシカ島へ渡り現地で蜂起したカルタゴ人と合流すると瞬く間にローマの守備隊を退ける。続いてサルディニアにも進撃を行い、こちらも同様の流れで制圧を完了させた。

 彼が両島の占領にかかった時間はわずか一か月。ちょうどローヌ川で敗れたローマ軍の再編が終わる頃と同時期になった。

 

 ハンニバルは両島の差配をガビアに任せ、防衛については予定通りオケイオンに一任する。といってもガビアを置いておくのは一時的な処置とすることで、ハンニバルとガビアは同意している。

 ガビアを一つの地に留めることをハンニバルは望んでおらず、ガビアもまた自身の手が狭まることを良しとしなかった。ガビアの能力を十全に発揮するためには、自由に彼を動かすべきだとハンニバルは考えていたため、遠く後方のアフリカで政治を任せていたバレスをここに呼び寄せることを決める。

 そして、バレスの後任は彼自身に選ばせ、残務処理が終わり次第テティスに向かうように申し付けた。

 

 コルシカ島とサルディニア島にそれぞれ歩兵五千を残し、現地で戦える者に訓練を施すようガビアに伝えたハンニバルは、バレアレス諸島から回航させた船団に乗りシチリア島の僭主ヒエロンが治めるシラクサへと向かう。

 ローマへ臣従していたシラクサはハンニバルらイベリア軍が迫ると、抵抗を見せるどころか僭主ヒエロン自ら港に赴き彼らを迎え入れる。

 ハンニバルが連れてきた兵力は騎兵一万五千、歩兵四万五千の合計六万人とシラクサの全兵力の数倍であったため、シラクサが抵抗したとしても徒労に終わることは明らかであったが……

 

 前述したようにヒエロンはイベリア軍が自軍の数倍に及ぶから開城したとローマへ救援を求めることも可能であった。しかし、彼はハンニバルの父ハミルカルとかつての約束を違えず、イベリアが再びこの地を訪れた際に彼ら協力する。

 僭主ヒエロンはかつてハミルカルと誓ったのだ。いつかローマへ復讐を行う。泥水をすすろうが、シラクサは維持する。そしてバルカ家が来訪すれば歓呼の元に迎え入れローマに反旗を翻すと。

 

 僭主ヒエロンはシラクサの港へ次々と運ばれてくる勇壮なイベリア兵を見やり感激で身を震わせていた。ポエニ戦争でカルタゴとヒエロンが敗れてから幾年もたつ、私はどれだけこの日を待ち望んでいたか……ヒエロンはようやく時が来たのだとイベリアの五段櫂船へと目を移す。

 肩を震わし、手を握りしめ、目は赤くなるヒエロンへ片手をあげゆっくりと彼の元へ歩いてくる赤毛の精悍な青年。

 

「ハンニバル殿、お待ちしておりましたぞ。この日をどれだけ待ち望んでいたことか」


 赤毛の男――ハンニバルはカルタゴ式の礼を行った後、ヒエロンへ応じる。

 

「ヒエロン殿、ついにこの地まで来ることができました。アルキメデス殿の件でご協力感謝します」


「ローマの目がありましたので、あの程度が私のできる限界でした。より助力をしたいところだったのですが」


「いえ、アルキメデス殿ももちろんですが、彼から繋がった人材は遠くエジプトとの友好のきっかけとなりました。人一人『だけ』とおっしゃいますが、人の繋がりとは大きな可能性を秘めていると私は思ってます」


「おお、そうでしたか。妹殿がエジプトへ嫁いだことは聞いておりますぞ。アルキメデスが少しでも役に立ったのでしたら幸いです」


「彼の持つスクリューの技術は鉱山の効率改善に役に立ちましたし、先月ようやく取り付け始めましたが軍船にも応用しています。この技術は世界を変える革命ですよ!」


 ハンニバルは僭主ヒエロンの前で両手を広げ、アルキメデスの功績とスクリューについて称賛する。アルキメデスにはパルマリアの防衛のため助力してもらっていたが、スクリューの技術を船に応用できないかという研究も頼んでいた。

 ハンニバル自身、アルキメデスと会った時間はほとんどなくもっぱら弟のトールに任せているが、トールからはアルキメデスが日夜研究に励んでいると聞いている。

 思った以上に研究に熱心な人でハンニバルは感心したものだ。今回五段櫂船に実装したスクリューは船の性能を一段階上のものにする技術だと彼は確信していた。

 

 その技術とは、海水を船外へ出すポンプの改良になる。ポエニ戦争でカルタゴとローマは幾度も海戦を行ったが、双方でもっとも死者を出したのは海戦そのものではない。

 長く海上に留まると避けることができないとある要因によって船は沈み、船員も兵も海の藻屑となった。

 

 その要因とは――

 

 ――嵐である。

 

 嵐により波にのまれ、海水が船に侵入し浸水し沈む、風にあおられ転覆して沈むなど船が沈没する要因は様々だが、スクリューの技術を使ったポンプを使うことで海水を外に吐き出すことができるようになった。

 これにより、嵐に遭遇した時の被害が少しでも減るはずだとハンニバルは思っている。

 

 ……もっとも、嵐など来ないことが最善だが……

 

「そうでしたか、お役に立てたようで良かったです」


 僭主ヒエロンはハンニバルの称賛へ笑顔で言葉を返す。

 

「ヒエロン殿、イタリア半島にいるローマ軍七万がどのように動くかによって動きは変えますが、明日よりシチリア島のローマ守備隊へ向け進軍します」


「おお、我が軍も参戦してもよろしいですか?」


「いずれ参戦していただくと思いますが、今は兵の練度を高めることに腐心していただけますか? そう遠くない日にご協力をお願いすることになると思います」


「了解しました。食料はどうされますか?」


「資金は問題なくあります。糧食は持ってきていますが、エジプトとカルタゴから購入しようと思ってます」


「なるほど。資金面では申し訳ないですがご協力が難しいです。しかし、輸入については国をあげて協力させてください」


「ご助力感謝いたします。ローマ海軍の動き次第ですが……輸入に支障がでる可能性もあります。これについては、その都度ご相談します」


「分かりました。今晩はゆっくりくつろいでください! 街中のワインを全て開けましょう。もちろん市民全てにも振る舞いますぞ! 今夜は祝宴です」


 僭主ヒエロンは傍付の者へ街全体で酒宴を開くことを命じ、ハンニバルを自宅へと招く。

 

 ハンニバルは僭主ヒエロンの後ろを歩きながら、ローマがどのような手を打って来るのか思案する。

 自身は動いた。ローマは海軍を自由に動かせるし陸軍七万の再編成も完了した。陸軍七万はまずシチリアに来ることが確実だろう。海軍はイベリア海軍に挑みにくるとハンニバルは踏んでいる。

 それならば、バレアレス諸島沖までイベリア海軍を引かせて補給線が短い海域で戦うことが望ましいだろう。

 

 問題は今ある軍団ではなく、これから創設されるだろう軍団なのだ……ハンニバルはローマの徴兵能力を身に染みて理解している。彼らはマケドニアへ二軍派遣しているから、無理せずともあと一軍は増やしてくるだろう。

 場合によってはあと二軍……彼らがどこへ攻め寄せるか……これによって大きく今後の戦いが変わる。

 

 彼が長考しているうちに僭主ヒエロンから彼の邸宅に到着したと告げる声が耳に届いた。

 

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