第53話 カルタゴ人蜂起

――紀元前218年

 ローヌ川東岸の戦いから半年が過ぎた。イベリアはローヌ川より東からアルプスにかけての地域を東ローヌとしイベリアに組み込む。この地域はローマ同盟都市マッシリア周辺を除き僅か半年でイベリアに兵を拠出できるまでになる。

 その背景にはこの地に住むケルト人がイベリアに非常に協力的であったからだろう。背景にはイベリアの統治が始まると以前に比べ格段に彼らの扱いが良くなり、イベリアの優れた農業技術が導入されるなどして、イベリアも彼らの期待に応えたということも大きい。

 東ローヌの隣に位置するゴール地方の最東端……ローヌ川沿岸の西岸に建築されたテティスの街も豊富な労働力と物資を使い、港湾都市としての歴史を刻み始めていた。

 すでにこの地にはイベリア商人だけではなく、カルタゴ商人や遠くはギリシャやエジプトからも商人が訪れていた。

 

 ハンニバルはカルタゴノヴァで政務を取り仕切る叔父ハストルバルと連絡を取り合い、次の戦略目標を模索する。その結果、コルシカ島をローマから奪還しサルディニアはあえて放置する案が採用された。

 もしローマがサルディニアへ多くの兵を派遣した場合には、コルシカ島でローマ軍を待ち構える。ローマは多方面作戦が可能な戦力をもっているため、イベリアを防衛するには防衛拠点を限定する必要があった。

 サルディニア島まで制圧しローマを待ち構える場合には、サルディニア、コルシカ、ローヌ川西岸のテティス、バレアレス諸島、エブロ川河口のセクメトとローマが攻めて来る可能性のある地域が広がる。

 これがコルシカ島だけにすれば、コルシカとテティスを敵の動きに合わせて行き来することも可能だし、前述のようにサルディニアへ攻め込むこともできる。

 

 一戦しローマに勝利した後は、シチリア島の奪還に動くことを予定している。シチリア島東岸を支配する僭主ヒエロンはローマに臣従するフリをしているが、年々ローマに対する貢納金を支払うのがきつくなっており、シチリア東岸の国力は年々低下しているのだ。

 協力をお互いに密約しているヒエロンが戦えなくなる前にシチリアへ攻め込みたいという理由の他に、豊かな土地であるシチリアを奪還することはローマの国力を大きく削ぐことができるということもある。

 恐らく、シチリアの戦いは非常に激しいものになるだろう。だからこそ、シチリアに集中できるよう機を見極める必要があるとハンニバルは考える。

 

 ハンニバルはゴール地方と東ローヌから志願した兵に訓練を施した後、自身の邸宅に戻る。訓練し始めて三か月ほどが過ぎ、防衛ならば彼らも使えるだろうなどと考えながら邸宅の執務室に入ると、見知った顔が椅子に足を投げ出して腰かけていた。


「ガビアか」


「ハンニバルさん、イリュリアは降伏したぜ。ガリア・キサルピナの北ノリクムもローマは制圧した」


「うむ。戦争が終結すると予想した日付とそう違わないな。マケドニアとはどうなった?」


「マケドニアとローマは戦争を始めたな。既にお互い兵を動員していたから、ようやくぶつかったってところだな」


 ローマはイベリアとの戦争に敗れたとはいえ、ガリア・キサルピナの反乱を制圧、その北にあるノリクムを屈服させ、イタリア半島東にあるイリュリアを支配下に置いた。

 そして、ギリシャと同盟を行いマケドニアとの戦争に突入している。イリュリアと違い、マケドニアは大国だが、ローマはイベリアへの復讐戦も忘れていない。

 ガビアの掴んだ情報によると、敗れたローマ軍の再編成があと一か月ほどで完了し、再び七万の陸軍を編成する見込みだという。海軍に関してもイリュリア戦争が終結したため、百隻近い軍船を運用できるようになった。

 ハンニバルは分かっていたとはいえ、マケドニアと戦争をしながら苦も無くこれだけの兵力を抽出するローマへ苦々しい気持ちに陥る。

 

 いや、奴らが危急になれば少なくともあと十万は軽く動員してくる……イベリアへ向かわせる軍団が陸と海で一つだけとは限らないだろう。ハンニバルは眉間にしわを寄せながらローマの兵力を見積もるのだった。

 

「ローマは憎たらしいことに、マケドニアと戦争をしながらもイベリアへ兵を差し向けて来るだろうな」


「まあ、そうなるだろうな。ハンニバルさん、先に話そうと思ったんだが、まずいことになってるんだよ」


 ガビアは珍しく肩を竦める。ハンニバルの記憶にある限り、ガビアが不遜な態度を崩す事は非常に珍しい。これはただ事ではないとハンニバルは感じ、気を引き締める。

 

「何があったのだ、ガビア」


「コルシカとサルディニアの元カルタゴ人が一斉に蜂起した」


「ほう。イベリアの勇戦を見て奮い立ったか」


「ご名答。奴らはグリフォンの旗を掲げて集結しているぜ。どうするハンニバルさん。コルシカには行くと聞いていたが」


「我らは現地に住む民の支持を背景に勢力範囲を広げてきたのだ。サルディニアも制圧せねばならぬだろう」


「防衛上サルディニアは後からと言ってなかったかい?」


「作戦を変更する。すでに市民が蜂起しているとあれば、警備程度の数しかいないローマ軍は鎧袖一触だろう。ローマの目を一点に引きつけるため、私はシチリアに出ようと思う」


「なるほどな……シチリアはローマにとって最重要植民州だわな」


「ローマは三方面作戦も可能なのだ。奴らの動向を掴み、場合によっては私がシチリアから防衛に向かわねばならぬだろう」


「情報は任せな。必ず届けるぜ」


「頼んだぞ、ガビア。至急、叔父上に状況を説明し人を動かす」


「あいよ。連絡は任せな。最速でやってやるぜ」


 ガビアはその言葉を最後に「よっこらしょ」といつもの調子で立ち上がり、最高級の貝紫で染めた帯をズリズリと引きずりながら執務室を後にした。

 

 ガビアが立ち去った後、ハンニバルは執務室の椅子に深く腰掛けると大きく息を吐く。

 

 イベリアの拡大戦略にケルト人、カルタゴ人など出自に関わらず全て市民として扱うようにしてきた。その結果、ケルト系の地域もヌミディアのベルベル人らからも好意的な感情を持たれ占領統治がことのほかうまくいった。

 ゴール地方や東ローヌにいたっては戦闘を行うことなく、ケルト人から恭順を申し出てきた程だ。「過去」ケルト人に苦しめられた経験から、冷遇し奴隷に落とすのではなく、厚くもてなし市民としてカルタゴと同水準の技術レベルをもたせるよう腐心する政策を取った。

 これは大当たりだったとハンニバルは思う。結果的に搾取し反発されるより時間はかかったが利益があがったし、イベリアの政策が知れ渡ってからは戦うことさえ必要なくなったのだから。

 

 幸か不幸かこの政策によって、「過去」では静観しローマに従っていたコルシカとサルディニアのカルタゴ人が反旗をひるがす事態になった。それもイベリアの旗であるグリフォンを掲げて……

 先ほど自身がガビアに述べた通り、彼らを見捨てる選択肢はイベリアにはない。「助けを求める市民」のために戦わねばならぬのだ。イベリアという国は……いずれにしろこの二つの島は取るつもりだったのだ。

 取るのは容易く取れるだろう。問題はローマの大軍にどう対処するかだ……ハンニバルはどのようにイベリアを防衛するか思案する。

 

 無い袖は振れぬが……「過去」に比べて人材も資金も比べ物にならないほど充実している。行けるはずだ。ハンニバルはギュッと拳を握りしめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る