第52話 次なる戦略

――紀元前219年 ローヌ川東部地域

 ローヌ川東岸での戦いの結果、ローマ軍はおよそ半数の兵を失いマッシリアに退いた。軍において半数の兵を失うということは壊滅と同意で、ローマ軍は軍を再編成するため海路でイタリア半島に退いて行った。

 ローマ軍が逃げ帰った情報を得たハンニバルは、ローヌ川河口の西岸に陣を構えこの地を拠点化すべく動く。セクメトからガビアを呼びよせ、カルタゴノヴァから多数の大工とローマンコンクリートを始めとした建築素材を船で運ばせた。

 

 また彼は六万の軍のうち二万を抽出しカドモスを指揮官とし、ローヌ川東岸へ渡らせマッシリア周辺地域以外のローヌ川東の地域の制圧に向かわせた。

 残りの兵士は一万を残し全て工兵として拠点構築に協力させ、急ピッチで港湾設備を整えた。

 

 二か月が経つころにはガビアの的確な指示もあり、この地は拠点どころか街として機能するまでになった。時期を同じくしてカドモスがローヌ川東岸地域の制圧に成功する。

 マッシリア周辺地域以外のケルト人は中立を保っていて、イベリア軍の勝利を見てイベリアへ従属することを決めたとハンニバルはカドモスから報告を受けた。

 

 ハンニバルはローヌ川河口の西岸の港町になった拠点で、ローヌ川東岸から来たケルト人の族長らと面会し、イベリアの他地域と同じ権利と扱いを約束する。こうしてローヌ川東岸地域は東ローヌとしてイベリアに組み込まれることになった。

 ハンニバルが族長らを見送り自らの邸宅に戻ると、執務室の椅子にガビアがドカっと腰かけていた。

 

「よお、ハンニバルさん、バレアレス諸島から情報が入ったぜ」


「ふむ。テウタ殿らとローマ海軍はどうなった?」


 ハンニバルは身を乗り出しガビアに問いかける。自身は陸の専門で海の戦いは専門外だからテウタに任せた方がうまく行くと考えたハンニバルは、バレアレス諸島の防衛を彼女に任せた。

 彼女は海の戦いに慣れているだろうが、大規模海戦となるとどれだけやるかは未知数だ。もちろん、イベリア海軍が勝てるよう船はローマ海軍より多くなるよう揃えたし、兵の訓練も出来得る限り行ってきた。

 

 しかし、ハンニバルは「過去」においてローマ海軍の強さを知っていた。小規模な海戦ではあったが、エブロ川での海戦でもローマ海軍にカルタゴ海軍は歯が立たなかったのだ。

 ここでどれだけローマ海軍と戦えるかが今後の戦いの分水嶺となってくるだろうと彼は考える。もし、勝てぬというのなら、徹底的に防備を固め陸からローマを落とさねばならぬ……あのアルプスに行くかどうかは戦況次第だが……

 ハンニバルの思考を遮るようにガビアが軽い感じで彼に結果を報告する。

 

「ハンニバルさん、テウタらはやってくれたみたいだぜ。ローマ海軍を退け、執政官コンスルティベリウス・ロングスは戦死。沈んだ船はイベリアが十五隻、ローマが二十五隻だ」


「おお、大勝利ではないか! テウタ殿!」


 ハンニバルは珍しく興奮した様子で喜色を浮かべるが、ガビアはいたって冷静なままさらに言葉を続ける。

 

「あ、ティベリウスを一騎打ちで破ったのはオケイオンだと聞いているんだが、奴はパルマリアの防衛を任されてなかったか?」


「うむ。しかし……パルマリアにはトールもいる。更に兵力一万をバレアレス諸島に送り込んでいるのだ。パルマリアは過剰な戦力がいるからテウタ殿がオケイオンに頼んだのだろう」


 事実は違うが、ハンニバルはオケイオンら「禿鷲クフブ傭兵団」の強さを知っている。彼はオケイオンらを船へ乗り込ませた作戦になるほどと感心したのだった。スパルタ出身ならば剣の戦いは得意だろうし、彼らの腕はハンニバルも自身の精鋭以上だと認めるほどだ。

 彼らならば、同数であってもあのローマ兵に対し優勢に戦うことができるだろう。海での戦いは局地戦の繰り返しだ。兵の質が大きくかかわって来る。「禿鷲クフブ傭兵団」はむしろ海戦でこそ生きるのではないかとハンニバルは思う。

 

「ハンニバルさん、なるほどな。あんたを唸らせる程の手だったってわけか。なかなかやるじゃねえか、奴らも」


 ガビアはクククといつもの不敵な笑い声をあげると、愉快愉快とばかりに貝紫で鮮やかに染めた帯をプラプラと振るう。

 

「ガビア、五段櫂船は引き続き建造を頼む。こと海戦に限っては我が軍だと数的優位がなければ太刀打ちできないだろうからな」


「任せときなって。たんまり稼いでいるからな。あ、そうそう、ハンニバルさん。この街の名前を決めてくれ」


「お前のお陰で拠点のつもりが街になった。そうだな……この港街はテティスとでもしようか」


 ハンニバルは少しだけ考えた後、テティスという名を告げる。テティスはギリシャの神々の一人で海の神オケアノスの妻であり海の女神の名前となる。


「海の女神か。今度はギリシャなんだな」


「うむ。この港町が十全に使えるのもオケイオンのお陰だからな。奴の好きな女神の名前にしようじゃないか。ただし、海だから海の女神だがな」


 ハンニバルはギリシャのスパルタ出身であるオケイオンの活躍を称え、港町の名をギリシャの神々の名から取ることにした。女好きの彼のことだから、きっと女神の名の方が喜ぶだろうと思い女神にしたというわけだ。


「海戦の勝利は経済的に見るともうそらすさまじい効果があるんだぜ。マッシリアに攻め込む必要もなくなったな。ハンニバルさん」


「街を落とすのは非常に厄介なのだ。マッシリアもザクントゥムと同じく経済的に締め上げるか。周辺地域はイベリアに組み込んだからな」


「つってもハンニバルさん、イベリアの制海権は何処当たりまでになるんだ?」


「そうだな。この地テティスまではイベリアの制海権になるだろう。今度はマッシリアに入る船を襲うようにテウタらに指示を出すか」


「あいよ、それならテティスでも補給できるように港を拡大しておくか。ハンニバルさん、次はどこを攻めるんだ?」


 ガビアの問いにハンニバルは眉間にしわをよせ思考の海に沈み込む。この次どこを攻めるか……コルシカ島とサルディニア島は元々カルタゴの土地であり、ローマが占領してからそこまで時が過ぎていない。

 制圧し、攻めとることは難しくないだろう。最も欲しいのはシチリア島だ。ここは豊かな穀倉地帯で、東岸地域を保持する僭主ヒエロンもローマに臣従する振りをしながら反抗の機会を伺っている。

 ローマからシチリアを奪うことができたのなら、ローマの国力を減じることができ地理的にもイタリア半島南端へ攻め込みやすくなる。

 

 イタリア半島で狙うべき土地はイタリア半島の南端……靴のつま先の地域だ。この地はマグナ・グラエキアと呼ばれ、元々ギリシャが植民地にした地域に当たる。ハンニバルが尊敬する偉大なる将の一人であるピュロスは、この地でローマと戦い最終的にローマに敗れマグナ・グラキエアはローマに併合された。

 ハンニバルはローマが併合した地域を中心に攻めていくべきだと考える。

 

 もう一つの道はイタリア半島の北にあるガリア・キサルピナへ侵攻するルートか。こちらはコルシカ島またはマッシリアから東方に拠点を作りそこから攻め込むのが良いだろう。ガリア・キサルピナは近年ローマの将軍フラミニウスに占領されたばかりの土地で、未だローマへ反抗を繰り返している。

 ガリア・キサルピナを占領することができれば、この地のケルト人は味方につけることが可能だろう。

 

 コルシカ島かシチリア島か……どちらを攻めたにしてもその後の防衛次第か。バレアレス諸島沖での海戦に勝利したことにより、カルタゴノヴァをローマが攻めて来る可能性は非常に低くなった。

 コルシカ島やシチリア島以外となると、セクメトかここテティスだろう。

 

「叔父上とも連絡を取り、どこを攻めるか決めよう」


 ハンニバルはガビアにそう告げると、再び今後の戦いに思いを馳せたのだった。

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