第50話 バレアレス諸島沖の海戦
――紀元前219年 バレアレス諸島
ハンニバルらがローヌ川東岸で激戦を繰り広げている頃、バレアレス諸島沖でもイベリア海軍とローマ海軍が激突しようとしていた。
イベリアはバレアレス諸島でローマ商船の拿捕に精を出していた五段櫂船五十隻に加え、カルタゴノヴァから回航してきた二十隻を加えた合計七十隻とローマを凌ぐ戦力を持っていた。
一方のローマはイリュリアとの海戦が佳境を迎えている中、イリュリアとの海戦に準備した船の内、約半数に当たる五十隻をバレアレス諸島に向かわせた。
しかしこの五十隻は、五段櫂船四十隻と三段櫂船十隻と三段櫂船が混じっている。三段櫂船は作りこそ五段櫂船と同じであるが、漕ぎ手の量が少ないため速力に少し劣る。とはいえ、大きく懸念するような性能差は無い。
数の上ではイベリア海軍が優位であるが、海戦の主力となる甲板に乗る兵員の質ではローマが優位だと言えよう。イリュリア海賊で構成された部隊もローマに僅かに劣る程度の練度はあるが、ローマの兵員にはまだ及ばないと海軍を任されたテウタは見ている。
それでも、他のイベリア歩兵に比べればイリュリア海賊は相当戦える方なのだ。
これは、イベリア歩兵の精鋭とローマ歩兵は訓練の質が違うのが原因だろう。陸戦における重要武器は槍であり盾で、剣は乱戦になった場合に使う程度であるが、海戦の斬り合いは狭い甲板の上で戦う必然性から剣が主力武器になる。
イベリア歩兵は精鋭となると槍であればローマに劣らぬ練度を持つが、剣の腕はそれほどでもない。逆にローマは剣闘士の興行が人気を博しているように「剣」の扱いを同時に学ぶ。もちろん、剣と槍を同時に修練すれば槍だけより練度が劣るはずなのだが、そこはローマ、圧倒的な訓練にさく時間でそこを補っている。
そのような事情から、ローマ歩兵は陸でも海でも無類の強さを誇っていたのだ。艦船数で勝るからといってイベリア軍は油断できないとテウタは考える。
しかし、勝てない相手であるとは思っていない。現にイリュリアは一度ローマと海戦を行い勝利しているのだ。もちろん、イリュリア側が艦船数で優位な状況下であったが……
海戦の場合、陸以上に敵がどこにいるのか探ることが重要になってくる。陸と異なり、航続距離が決まっているのが最も大きな原因だろう。櫂船は人力で進めるため速度を維持できる時間がそれほど長くない。
速度の落ちた櫂船は横腹に船首をぶつけられ沈没させられる可能性が格段に高くなるから、敵の位置を正確に掴み艦船を運用することが指揮官に求められるのだ。
テウタらイベリア海軍もローマ海軍もお互いの位置を掴もうと本隊を洋上に停泊させて斥候を送り込む。
しかし幸か不幸か、お互いの斥候同士がぶつかり合い偶発的に戦いが始まってしまう。イベリアもローマも二隻の五段櫂船のうち一隻が接弦し斬り合いを行う。
その間に残った一隻は撤収し、本体へ連絡を行う。両軍は甲板戦を行っている斥候の五段櫂船を救援しようと本隊を動かし、ここで偶発的に海戦が行われることとなった。
「姉御、どうしやすか?」
甲板の高いところに立つテウタへ側近の髭もじゃの男が彼女へ問いかける。
「体勢が整わず、乱戦となると勝てるとは思うけどこちらの被害も大きいわ。イベリアの経済力なら船の建造は容易いと思うけど、ローマに対抗できる兵を集めるのが大変だと思うの」
「剣の訓練を行ってやすが、そうそう物にはなりませんからね」
「そうなの、これでおしまいならいいんだけど、これは長い戦いの緒戦……勝ち方にも拘らないと駄目ね」
「じゃあ、態勢を整えるために引きやすか?」
「
「姉御の指示通り、ローマの船一隻に左右からこちらの船を接弦して戦うのがよさそうですね」
「そうなんだけど、このままだと乱戦になるわよ。やっぱり一度引いた方がよさそうだけど、斥候を見捨てるわけにはいかないわ」
テウタは、乱れた陣形を立て直すために時間をかけ、自軍を一塊になるように指示を出し、つかず離れずの船隊を保ち目的の戦闘を行っている斥候役の船を目指す。
引くに引けず、時間をかけて陣形を立て直したため、ローマ海軍がすでに到着しており斥候役の船は炎上し沈みつつあった。
自身の判断が遅かったため、沈んでしまった船を見やりテウタは拳を血が出る程に握りしめる。
「姉御、斥候は残念でやしたが、敵は態勢が整っておりやせんぜ。ここで一気に弔い合戦といきやしょうや」
側近の髭もじゃはテウタを勇気つけるためかことさら明るい口調でそう言い放つ。
側近の言う通り、陣形を整えて進んできたイベリア海軍に対し、ローマは多くの船首は一方向を向いているが、一部に方向が揃っていない船がある。
あの隙に飛び込むか……テウタはローマの櫂船を睨みつけ大きく息を吸い込む。
「いくよ! 野郎ども、面舵いっぱい!」
「応!」
テウタの声に応じてイベリア軍は一つの生き物のようにローマ海軍の穴へと船を進めていく。
横腹を向けたローマ海軍の隙に飛び込んだ、イベリア海軍は船首をぶつけその船を沈めると次々に接弦していく。甲板に乗る兵士の数は両軍とも百名。同じ数で勝負すると分の悪いイベリア軍は一隻が接弦するとある船はもう一隻が味方の船を通じて、敵船に乗り込み、ある船は反対側に接弦し敵船に斬り込みを行った。
緒戦はイベリア海軍優位で戦いが推移したが、迅速に態勢を立て直したローマ海軍も一対一での戦いに持ち込みイベリアの五段櫂船を沈めていく。
その後、数で勝るイベリア海軍が若干優位に戦いを進めているものの、ローマ海軍と一進一退の攻防が続く。
――このまま行けば勝てそうだけど……でも……
テウタは心の中で独白し、被害が拡大していく自軍に頭を悩ませる。彼女の見解ではこのまま戦いが推移すれば数で勝るイベリア軍はローマ軍の継戦能力が喪失するまで追い込むことができると見ている。
しかし、そこまで行けば自軍も半数程度の兵を失う。
そこで不意に腹心の髭もじゃの男に肩を叩かれるテウタ。彼女が男に顔を向けると、男は斜め前の敵船を指さしている。
「あれは……旗艦じゃない!」
「そうでさあ。あの位置ならこの船ともう一隻で斬り込みができますぜ。こっちも旗艦の突撃になっちまいやすが」
「二隻で接弦できるなら、やらない手はないわよね!」
旗艦を倒すことができれば、ローマ軍といえども烏合の衆と化す。そうなれば、被害を抑えながら勝つことが可能……テウタは美しい顔に満面の笑みを浮かべる。
これに乗らない手は彼女には無かった。彼女は自軍のもう一隻の船と連携し、敵旗艦へ見事接弦を成功させる。
「ここが勝負どころよ! 頼んだわよ! みんな!」
テウタの鼓舞に甲板の兵は皆あらんかぎりの声をあげて応じると、敵船へ斬り込んでいく。
敵は百名。こちらは二百名。いくら精鋭のローマ兵と言えども、この差は埋めることは叶わないだろう。
しかし――
これはローマ軍の巧みな罠だったのだ……
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