第49話 包囲殲滅陣

 ハンニバルは軽装歩兵を率いながらも、それぞれの持ち場の指揮官から進捗報告を随時受けていた。中央の重装歩兵は、ローマの大攻勢を受けながらも戦線をかろうじで維持している。それ以外の自身の持ち場を含めた戦線では相手の混乱もあり敵を圧倒していると報告が入る。

 敵の完全包囲は敵と組するに最も良い結果の一つと言っていいだろう。といってもハンニバルは完全包囲そのものをそこまで威力のある攻め方だとは思っていない。包囲陣が現在これほどまでローマ軍を削り取っているのは、ローマ軍の心理的な面が大きいと考えるからだ。敵が包囲殲滅作戦を読んでいれば対処のしようはあると彼は思う。

 包囲され、脱出路がないという心理的圧迫によって兵は動揺し指揮官の指示に乱れが生じる。軍というものは整然とした動きを行ってこそ組織だった戦いを行うことが可能となり、敵を打ち倒す力になる。

 精強なローマ兵であっても、組織だった戦いができないとなると軍ではなくただの烏合の衆に過ぎなくなる。こうなれば、こちらは損害を受けず一方的に敵兵を殲滅していくことができる。

 「心理的」な効果を発揮して初めて包囲殲滅は有効な手段となりうる、一見して華麗な戦術に見えるが実のところ「心理的」な効果を発揮できなければ逆に危機に陥ることもあるリスクの高い攻撃……これがハンニバルの見解であった。

 

 完全に殲滅したいところだが……ハンニバルはローマ軍中央の様子を睨みつけ、自軍中央の重装歩兵と反対側の軽装歩兵を率いるマハルバルへ指示を出す。

 指示を受けたマハルバルはカドモスよりヌミディア騎兵五百を預かり、自身も馬に乗ると中央の激戦区へと進軍を行う。

 

 マハルバルはイベリア軍重装歩兵の元へ到着すると、敵兵の様子がいかようなものか観察する。ハンニバルが彼に指示を飛ばした時に得た情報の通り、ローマ軍中央は組織だった戦いが出来ており士気も高いように見える。それもそのはず、ローマ軍中央はスキピオ家の将帥が直接率い、兵を鼓舞して回っていたからだ。

 特に最前列に進出したスキピオ・ガウルスによるところが大きい。

 

 戦況を観察したマハルバルは、重装歩兵を左右に分かれさせ、ローマ軍を通すように指示を出し開いたところからヌミディア騎兵五百と共に突撃を敢行する。

 突然の騎兵の進出に虚を突かれたローマ軍中央は、最初こそヌミディア騎兵にいいようにやられるものの、スキピオ・ガウルスが前線をすぐに立て直し、プブリウス・スキピオが攻撃目標を巧みに騎兵から重装歩兵の穴へとズラし、ヌミディア騎兵をいなしていく。

 

 ハンニバル様の予想通り、敵は攻撃支点を変更してきた。このまま彼らは我が軍を突破し潰走していくだろう。マハルバルは主君の出した指示通り正確に戦場が推移していることに歓喜し、自身の役割を果たすべくあらんかぎりの力で声を張り上げる。

 

「行くぞ! 勇壮なるヌミディア騎兵よ! 我に続け!」


 マハルバルの目標……それは最前線へ進出してきた敵将スキピオ・ガウルスの首であった。

 あわよくば、彼だけでなく潰走するローマ軍の後ろに張り付きプブリウス・スキピオとスキピオ・マイヨルをも取ろうとさえマハルバルは考えている。

 

 ヌミディア騎兵の突撃を止めることができる者はおらず、圧倒的な速度をもって目標へ肉迫していく。

 

――見つけた!


 マハルバルはローマ軍の将帥らしき装束をまとった男を発見する。

 

「スキピオ・ガウルス殿とお見受けする。私はイベリアの戦士マハルバル。いざ尋常に!」


 マハルバルは馬を男へ向け一直線に駆けると一騎打ちの申し込みを男に行う。

 

「ここまでの戦術は敵ながら見事だった! 一騎打ちは俺も望むところだが……三合だ」


 スキピオ・ガウルスは三合で仕留めると言ったわけではない。彼はマハルバルから達人の雰囲気を感じ取っていたし、そう容易く彼を打ち倒せると思ってはいなかった。

 しかし、彼は兵に指示を出しローマ軍をここから脱出させなければならないという事情があり、マハルバルに構っている暇が無い。それ故の「三撃まで」である。

 

 マハルバルはスキピオ・ガウルスの言葉が終わる前に腰の剣を抜き放ち構えると、そこへスキピオ・ガウルスの剣が飛んでくる。

 な、なんという力だ……マハルバルは思った以上の衝撃に目を見開き、敵をしかと見つめると、口元に笑みを浮かべるスキピオ・ガウルスの顔が見えた。

 

「やるな。マハルバル殿」


「貴殿こそ。感服いたしました!」


 マハルバルは剣を握りしめる手に力を籠めると馬の手綱を引き、スキピオ・ガウルスに肉薄する。

 再び剣を打ち合う二人は一歩も引かず、そのまま二合、三合と剣を重ねるがお互いに体勢を全く崩さずに睨み合う。

 

 隔絶した二人の腕前に周囲の兵は敵も味方も一切手出しを行うことができなかった。

 スキピオ・ガウルスは三合目の剣の後、大きく剣を振りかぶるとマハルバルに向けて剣を投げつける。不意を突かれたマハルバルは馬を動かし何とか回避を行う。

 しかし、その隙にスキピオ・ガウルスはマハルバルから距離を取り、戦場に消えて行った。

 

 約束通り三合か……ガウルス殿……すさまじい剣の腕であった……マハルバルは未だ痺れる手を見つめると踵を返し、兵の指揮に戻る。

 

 スキピオ・ガウルスが前線の指揮に戻ってからほどなくして、ローマ軍はイベリア軍の包囲網を中央から突破する。

 包囲を抜けたローマ軍は逆包囲など反撃をすることなく、そのままローマ同盟都市マッシリアに向けて敗走して行く。


 これに対し、マハルバル、カドモスらが指揮するヌミディア騎兵が追撃を行いローマ軍を更に削り取って行く。

 被害の拡大を食い止めるため、執政官プブリウス・スキピオ自らがしんがりを務めるとローマ軍は持ち直し、逆にヌミディア騎兵へ痛烈な反撃を行うまでになった。

 戦況を見たカドモスはこれ以上の追撃は自軍の損害も拡大すると判断し、ハンニバルへ伝令を送った後に引き上げる。


 こうしてローヌ川東岸の戦いは精強なヌミディア騎兵の突破を契機としてイベリア軍がローマ軍を包囲するが、ローマ軍は壊滅する前に包囲から抜け、同盟都市マッシリアへと潰走して行った。

 この戦いはイベリア軍六万のうち、死者は千名。ローマ軍七万のうち死者は三万六千と、イベリア軍の圧勝に終わる。

 破れたローマ軍の被害は甚大で、一つの軍として動かすには死者が多すぎ、一旦残った兵を解散し、再編成を行わねばならなくなった。


 カドモスらヌミディア騎兵が戻ってくると、ハンニバルは自軍に向けて勝利宣言を行うと、割れんばかりの勝鬨かちどきの声があがり、イベリアの象徴でありバルカ家の旗であるグリフォンを、ハンニバルを、イベリアの名を出し次々に褒めたたえる。

 ハンニバルが手をあげると途端に水を打ったように兵士の声が止み、彼の言葉を待つ。

 

「勇敢なる兵士諸君! 此度の戦い見事であった。この勝利はイベリアの誇りになるだろう! ローマに勝利した、これがどれほど大きなことか!」


 そうだ。この戦いで領土などを得るわけではない。兵と兵がぶつかり合い、具体的に得るものは無いが精神的、政治的に得たものは大きい。

 ポエニ戦争で敗れたカルタゴだったが、イベリアがローマに大規模会戦で勝利した。精強なローマ軍にこれだけの規模の戦いで勝利した例はここ数年起こっていない。

 ローマに我々は勝てる。そう思わせることがこの戦いでできたはずだ。ハンニバルは兵を見つめ、そんな思いを巡らせた。


「グリフォンに祝福を!」

「イベリアに栄光を!」

「ハンニバル様へ勝利を!」


 兵士たちはハンニバルの言葉が終わると、再びあらんかぎりの声でそれぞれときをあげる。

 

「ハンニバル様、お見事でした。さすがの采配で感動いたしました!」


 ハンニバルの傍らにいるマハルバルが興奮した様子で敬愛する主君を称える。

 

「マハルバルよ。お前もよく頑張ってくれた」


「いえ、ガウルス殿の首は取れませんでした」


「いやなに、ガウルス殿がお前に匹敵する剣の腕を持つと分かっただけでも収穫だ」


 ハンニバルは気にした様子もなく、マハルバルを褒める。

 その日の晩は宴が開催され、明け方まで兵士たちは酒を酌み交わしたという。

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