第47話 ローヌ川東岸の戦い前夜

 ハンニバルは軍の野営地に戻ると、ローマ軍の情報を取得するため斥候を放つ。それに加え、土地勘のあるゴール地方のケルト人にもローマ軍の動向を伝えるよう申し付け、ローヌ川東……特にローマ同盟都市マッシリアを中心に探りを入れた。

 斥候が持ってきた情報からローマ軍の数は騎兵一万、歩兵六万の合計七万。軍は同盟都市マッシリアを離れ、ローヌ川の東岸で陣を作り動く様子はないと知ることができた。

 

 そして、ローマ軍の司令官、将帥の名を聞いた時、ハンニバルの心は沸き立つ。敵は執政官コンスルプブリウス・スキピオ、副将にスキピオ・ガウルス。そして、従軍者の中にスキピオ・マイヨルの名前もあった。

 スキピオ・マイヨル。彼こそは後にスキピオ・アフリカヌスと呼ばれることになるハンニバルの最大のライバルの一人である。

 

 そうか……スキピオ・アフリカヌスが来ておるのか……いや、今はスキピオ・マイヨルか。「過去」と異なり、奴がアフリカヌスと呼ばれる時代は来させはせぬ。ハンニバルは心の中でそう誓う。

 とはいえ、奴は未だ若年で軍を率いるのは奴の父プブリウスか、もう一人は猛将のガウルス。プブリウスはバランスのとれた将帥だが、どちらかと言えば冷静に指揮を執る方で猛将とは意見が食い違うこともあるだろう。

 しかし、猛将とは言えガウルスとなると話は別だ。二人は仲の良い兄弟であり指揮権で対立することもない。手ごわいと言えば手ごわいな……ハンニバルはそこで思考をいったん切り、立ち上がるとテントから外に出て空を見上げる。

 

 空には満点の星がまたたき、満月の明かりが地を照らし夜だというのに思った以上に外は明るい。

 ローヌ川東岸の陣と言えば「過去」にハンニバルがマッシリアに従属するケルト軍と戦争を行った場所と似通っている。あの時もローヌ川東岸へ軍を進めたのだ。

 ハンニバルは過去を思い出しつつ、意外に明るい満月の夜から夜襲をかけてみるかと思うがすぐに意味のない事だとその考えを捨てる。

 

 なぜなら、夜襲をかける利点が無い。夜襲の利点とは奇襲であり、敵が油断したところを突くことにあるが、ローヌ川東岸へ進軍するためにはローヌ川を渡河しなければならず暗い中での渡河はリスクが高い。

 敵軍の情報を逐一得るようにしているが、おそらくローマ軍は暫くの間動かない。もし動くのならば、ハンニバルらがゴール地方へ進出する前か直後に出るべきであり、イベリアがゴール地方を制圧した時点ではローヌ川東岸で待ち構える方が戦いやすいだろう。

 ローヌ川東岸ならばゴール地方のケルト人による奇襲も警戒する必要もなく、マッシリアからの補給線も短く同盟領土なので補給路の安全性も高い。そういった理由からローマはまず動かないだろうとハンニバルは考えたわけだ。

 

 いかなる戦略を取るか……敵兵は騎兵一万、歩兵六万とイベリア軍より兵数は多い。渡河が必要なため渡河中にローマの斥候に発見されるだろうから奇襲は不可能。正面からぶつかり倒してもいい……いやあるいは「過去」にとった戦略を使うか。

 マハルバルに歩兵五千を持たせ、ローヌ川を北上し渡河を行う。遅れて本体が最短距離で渡河しローマ軍と接敵する。それと時間を合わせるようにマハルバル率いる別動隊が敵軍を横撃するといった手だ。

 「過去」で採用したこの手は別動隊が的確に働いくことができて虚を突かれたケルト軍はまたたくく間に乱れ潰走した。

 

 此度は相手がケルト軍ではなくプブリウス、ガウルス、そしてマイヨルだ。普通に別動隊を出したのでは逆手に取られる可能性もある。ローマ軍はすぐにこちらの兵数が減ったことに気が付くだろう。そこで、ゴール地方のケルト市民を使い彼らの防衛のために五千の兵を割いたと偽情報をローマの斥候に掴ませてはどうだ?

 ゴール地方のケルト市民は我が軍に非常に協力的であるから、欺瞞ぎまん工作へ全力で協力してくれるだろう。

 

 ……上手くいくかもしれない。

 

――いや、別動隊は無しだ。


 ハンニバルは独白し別動隊を使う案を切り捨てる。

 

 理由は二つある。一つはスキピオ家の者が別動隊に気が付き対策を行ってくる可能性が捨てきれないこと。もう一つはアフリカヌス……いやマイヨルに別動隊や伏兵を使う手の内を見せたくないという理由だ。

 ハンニバルが得意とする手は騎兵を効果的に利用した包囲殲滅と伏兵を使った戦術の二つがある。マイヨルの学習能力は脅威で、この戦いで奴の命を確実に奪えるのならばリスクがあるが別動隊を試してもいい。

 しかし、奴が生き残った場合……奴の脅威度が跳ね上がる。それは避けたいところだ。今回の戦術は騎兵を駆使したものになるだろうから……正面からぶつかり撃滅する。ハンニバルは今回の作戦をそう決定した。

 

 そう、正面から討ち果たす。

 

 翌日よりハンニバル率いるイベリア軍六万は進軍を開始し、ローヌ川西岸へ到着すると全軍をもって一息に渡河を決行し敵襲を受けずに西岸へ渡り切る。

 イベリア軍の動きを見たローマはイベリア軍の行軍へ手出しはせず、彼らの進行を待ち構え正面決戦を望んだ。

 こうして両軍は対峙する。イベリア軍は騎兵二万、歩兵四万の兵力を持ち、三日月型の陣形を構築した。左翼には精鋭のヌミディア騎兵一万を副将のカドモスが率い、右翼はカルタゴ騎兵一万を新進気鋭のタルセッソスの将帥であるボイニクスが率いる。

 中央はカルタゴ重装歩兵を前列にケルト軽装歩兵を後列に合計四万を配置し、ここをハンニバルが務め、彼の副官にマハルバルが置かれた。

 

 ローマ軍は前列にローマ同盟都市軍の最前列と歩兵戦列の一列目を合計し軽装歩兵三万、後列にローマ軍重装歩兵を残りの歩兵戦列二列を構成させる、こちらも数は三万。両翼に騎兵を置いた。

 中心となるのは執政官コンスルであるプブリウス・スキピオ、副官に彼の息子であるスキピオ・マイヨル。騎兵を統括するのはスキピオ・ガウルスであった。

 

 両軍は睨み合い、いよいよ戦いが始まろうとしている時、ハンニバルは馬上で馬を並べるマハルバルへ目くばせをする。

 

「いよいよだな。マハルバル」


 ハンニバルはたぎる思いを押さえつけるように声を絞り出す。

 

「はい。必要とあれば『特戦隊』を進出させます」


 マハルバルは副官でありながら、剣の腕を買われてイベリア軍の最精鋭歩兵隊として特別に選出された部隊である特戦隊千名を率いる権限を与えられていた。

 

「陣が抜かれることがあれば、死守するか退避するかの判断は下す。その時は頼んだぞマハルバル」


「はい!」


 今回の戦いでハンニバルはあえて重装歩兵を前列に置いた。ローマ軍のように重装歩兵は後列に置くことの方が最近は多い。最前列はいかな重装備の歩兵とはいえ最初の射撃の的になることもあり損耗率が高い。

 ローマの最前列に置いた軽装歩兵は突撃し倒れるための肉の盾なのだ。ハンニバルはあえて軽装歩兵を後列に置いた。これが吉と出るかは現時点では分からない。しかし、ハンニバルは考え無しでこのような隊列を組ませたわけではないことは確かな事であった。

 

 いよいよだ……ハンニバルは心の中で独白し前を見据えると、大きく息を吸い込み自軍を鼓舞すべく出来得る限りの大声を発する。

 

「イベリアの市民よ、勇敢なるグリフォンの戦士たちよ! 諸君らに栄光あれ!」


 ハンニバルの声に呼応してグリフォンの旗がたなびき、怒号のような声が鳴り響く。

 

 イベリアとローマはいよいよ激突する。

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