第46話 ゴール地方

――紀元前219年 ゴール地方 ハンニバル

 ハンニバルはエブロ川河口の都市であるセクメトで兵を集めると北エブロを越え、そのまま海沿いを進んで行く。彼がここへ連れてきた兵は歩兵四万、騎兵二万であった。

 ハンニバルに付き従うのは、彼の副官役となったマハルバルと副将のカドモス。その他にも幾人かの古くからいる将帥を連れて来ていた。

 彼らが進軍した北エブロから東、ローヌ川より西の地域はケルト人達が住むゴール地方と呼ばれる地域になる。


 この地にハンニバルらが足を踏み入れると、ゴール地方のケルト人達は彼らを歓呼の元迎え入れる。

 ゴール地方のケルト人達がイベリアを歓迎するにはもちろん理由がある。


 前提としてゴール地方のケルト人らは最大まで兵力を集めてもせいぜいニ万人といったところだった。

 これに対し、ハンニバル率いるイベリア軍は今回集めただけで六万人。一方のローマも七万人と絶望的なまでに兵力差がある。


 ゴール地方の平穏はカルタゴノヴァで行われたイベリアとローマの会談で、ローマが「ローヌからからエブロ川にかけては自国の物である」と宣言したことにより乱されることになった。

 会談の結果、ゴール地方はイベリア軍が例え来なかったとしてもローマの侵攻を受けるだろう。

 ガリア・キサルピナをはじめとしたローマの占領地に対する支配方法は、「搾取」であった。占領地の住民は市民より一段落ちる二等市民や奴隷として扱われ、ローマを富ませるため賦役に当たる。

 そういった事情もあって、イタリア半島のケルト人……ローマではガリア人……らは度々反乱を起こしてきた。


 一方のイベリアはどうか? 彼らも次々とケルト人地域を占領し支配下に組み込んでいっている。コンテ、ルシタニア、南エブロ、北エブロ……そして今はゴール地方の番となっている。

 ゴール地方のケルト人は、イベリアが支配した後のこれらの地域の情報を得ている。先日組み込まれた北エブロでも、イベリアは自国の市民として北エブロのケルト人を扱い、カルタゴ人が多くを占めるヒスパニアやタルセッソスと同じ権限を与え、イベリア元老院議員の選出も北エブロから行うことを宣言していた。

 これはどういうことかというと、北エブロの市民が選出したイベリア元老院議員が政治に参加することを意味する。もちろん他のイベリア元老院議員と同じ権限を持っているから、政治的な権限においても他地域と同様になるというわけだ。


 話を戻すと、ゴール地方は単独ではローマに対抗できない。ローマは必ずゴール地方を取りに来ることは確実で自国を防衛するためには他国の力を借りねばならない。

 ならばイベリアに組み込まれ、一つにまとまるべきだ。ゴール地方の各部族が話し合った結果、彼らはイベリアを歓迎することになる。そのような事情があり、ハンニバルらは歓呼の元に迎え入れられたというわけだったのだ。


 ハンニバルはゴール地方のケルト人族長らから酒宴に招かれたため、彼は軍をカドモスに預けマハルバルと共に族長らと酒宴の席で会談を行う。


 酒宴の席に立ち、最初の言葉を求められたハンニバルはイベリア執政官ハストルバルの名をもってゴール地方をイベリアに組み込み、他の地域と同じだけの権限を与えることを族長らに約束する。

 また、ゴール地方を豊かにするため農業技術、土木技術の技能を持った者をこの地に派遣し、物の往来を活発にし、かつゴール地方の防衛拠点とするために新たな港街を建築することも宣言した。


 族長らは搾取どころか手厚い支援をもらえることに歓喜し、それぞれがハンニバルに固い握手を求めイベリアへ感謝を述べた。

 話がまとまったことで、和やかな雰囲気で宴会が行われ、夜が更ける前にハンニバルとマハルバルはイベリア軍の野戦陣地に戻る。


 その道すがらハンニバルは思案顔のマハルバルをおもんばかり、彼に声をかける。


「どうした? マハルバル? 難しい顔をして」


「……も、申し訳ありません!ハンニバル様を不安にさせてしまうような態度を!」


 マハルバルは恐縮したように敬愛する主人へ頭を下げる。

 ハンニバルは真面目過ぎるけらいがある最も信頼する部下へ微笑みかける。


「そう固くなるではない。酒の席の帰りだろう。何を考えていたのだ?」


「い、いえ、ゴール地方の族長らがこれほどまでに好意的なことに驚きまして……」


「うむ。ケルト人は好戦的な部族が多い。力を見せれば納得してくれるわかりやすい人たちだがな」


「はい。ですが彼らは戦うこともローマと合流することもできたわけです」


「確かにお前の言う通りだ。単独で我らと戦うのならありえたと思うが、彼らはローマにつかぬよ」


「そこまで言い切るとは何かされたのですね! さすがハンニバル様です!」


 マハルバルは喜色を浮かべ、敬愛する主を褒めたたえるがハンニバルは肩を竦め口を開く。


「難しい事はしておらぬよ。これまでイベリアがケルト人といかに融和してきたのかを伝え回っただけだ」


 ハンニバルはコンテとルシタニアを占領した後、ケルト人であってもカルタゴ人と同列に扱うと宣言し、事実その通りの制度を作り上げた。

 これにより、コンテとルシタニアの文化水準、技術水準は古来からカルタゴ人の土地であったタルセッソスの水準へと急速に接近していた。

 ケルト人はイベリアがケルト人に何を行ったかを知れば、自ずとローマよりイベリアを選ぶだろうとハンニバルは言う。


「なるほど……ガビア殿の間者がゴール地方に入っていたのですね」


「うむ。噂を流さずとも彼らも必死で情報を集めていただろうから、結果は変わらぬがな。私と叔父上が『全ての民族を市民に』と唱えていたのは何もイベリアの利益のためだけではないのだ」


「確かに……北エブロでもスムーズに占領統治が進みました。市民として扱うとは一見して迂遠な手に見えますが、素晴らしい手段だと思います!」


「コンテとルシタニアで基礎を築くことに時間はかかったが、ローマとの戦争において必要なこととだったのだよ。この政策は」


 ローマとイベリアの間にいるのはケルト人たちだ。「過去」ではゴール地方でもローヌ川でもケルト人と戦い、アルプスでもケルト人から奇襲を受けた。

 ケルト人はハンニバルが敵対すべき相手ではない。では、どのようにすれば彼らと敵対せず更にはイベリアの強化に繋がるのかと考えた結果が融和政策だというわけだ。


「足掛け数年かかりました。この分ですと他の地域に住むケルト人の懐柔も容易くいきそうですね」


 マハルバルは過去を思い出すように呟く。


「いや、そうとも限らぬよ。ローマに臣従しているケルト人……いやガリア人は難しいだろうな」


 ローマに再び反乱を起こす機運のあるイタリア半島北部のガリア・キサルピナはともかくこの地域の北にあるガリア人の二地域は難しいだろうし、その他のイタリア半島に住むガリア人も揺るがないだろうとハンニバルは思う。


「しかし、ハンニバル様の『過去』に比して格段に戦いやすい状況ではないでしょうか」


「うむ。もちろんだ。さっそくケルト人たちに頼みたいこともあるからな。なあに、ほんの小細工だ」


 ハンニバルは彼にしては珍しく悪戯っ子のような笑みを浮かべると、莞爾かんじと笑う。

 

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