第44話 セクメト

 パルマリアを出たイベリア軍船がローマの商船を拿捕し始める頃、ハンニバルは騎兵のみの部隊を率いエブロ川を渡河する。

 「過去」のハンニバルはピレネー山脈の付け根まで僅か二ヶ月で制圧したが、今回のハンニバルはそれ以上だった。

 というのは、イベリアのケルト人の扱いを知っていたこの地域のケルト人らはハンニバルの二万余の騎馬軍団を見ると戦力差もあり、戦うより恭順を選ぶ。

 ハンニバルは僅か一か月でピレネー山脈以南を制圧し、エブロ川河口の新しい街へと帰還する。この一か月のほとんどはこの地域のケルト人へ新たな統治方法を説明し理解させることに費やした。

 

 ハンニバルはエブロ川からピレネー山脈までの地域を新しく北エブロと名付け、エブロ川南の地域をエブロから南エブロに改称する。北エブロもイベリアの他の地域と同じ扱いにすることを宣言し、全ての民族の融和がはかられるようハンニバルは北エブロへ派遣する文官へ厳命した。

 

 エブロ川河口の新しい街に行くと、すぐにガビアの手の者がハンニバルの元へやって来て彼を邸宅に案内する。

 邸宅にある執務室へ入ったハンニバルは、足を投げ出して腰かけたガビアの歓迎? を受ける。とても歓迎しているような態度には見えなかったが、人を待つことをしないガビアが待っていたという事実からハンニバルは彼が自身を歓迎していると感じたのだった。

 

「やあ、ハンニバルさん、無事制圧したようだな」


 ガビアは僅か一か月で北エブロを制圧したハンニバルへ驚いた様子もなく、手に持った貝紫で鮮やかに染め上げた帯の裾をヒラヒラと振るう。

 

「ガビア、お前こそ、これだけの短期間で街を作ってしまうとは驚きだ」


「まだまだだけどな。だが、港はバッチリだぜ。ありがたいことにこれまでの交易でローマンセメントはたんまりあるからな」


 イタリア半島の火山灰を使ったローマンセメントは質が良く、固まるまでに時間がかかるものの類を見ない頑丈さを誇る。波が打ちつける港に使うにはうってつけと言えよう。


「驚いたぞ、ガビア。まさかもう港を完成させているとはな……港があればここは充分拠点として機能するだろう」


「交易もできるぜ。人、物、金が集まれば自然と街は大きくなる。それだけの素養がここにはあるぜ」


「街の名前は決めたのか? ガビア」


「いや、ハンニバルさんが決めてくれ。俺はそういうのは余り興味がないからな」


「うむ、ならばセクメト復讐の神とでもしようか」


「ククク、そらいいな、痛快だ! ハンニバルさんのセンスはすげえぜ」


 セクメトはエジプトの復讐の女神で、ハンニバルはここを対ローマの拠点にしようと考えている。ここからローマへの復讐が始まるのだ。ハンニバルはそういった思いを込めてこの街へセクメト復讐と名付けた。

 エジプトとの繋がりもあることだし、エジプトの女神の名前をつけることは悪いことではない。港町だから女神の名をつけたいところであるし、復讐者というのもちょうどいい……ハンニバルはニヤリと口元に笑みを浮かべた。

 

「ガビア、お前なら分かっていると思うが、セクメトの位置は全体を差配するのにちょうどいい場所なのだ。占領地が広がれば話は違ってくるが」


「そうだな。本拠地であるカルタゴノヴァにも近いし、重要拠点であるバレアレス諸島も近い。北エブロから先に攻め込む拠点としても使える。いい場所だぜ」


「ああ、だからこそローマも狙ってくる可能性が高いわけだ」


 ハンニバルは精強なローマ軍を想像し、獰猛な笑みを浮かべると、ガビアはガビアでクククと不敵な笑い声をあげる。

 

「そうそう、ハンニバルさん、バレアレス諸島にいるイベリア海軍の様子は知ってるか?」


「北エブロにいる時に、お前の使いの者から多少聞いたが教えてくれ」


「あいよ」


 ガビアは「よっこらせ」と口に出して立ち上がると、机の上に地図を開く。

 地図を見たハンニバルは見たこともないほど詳細に描かれた地図に目を見開く。

 

「ガビア、これは?」


「いいだろこれ、船乗りたちに頼んで作った。奴らは誰よりも地理に詳しいぜ」


「なるほど、この地図は素晴らしい」


「パルマリアを出発したイベリア海軍は三隻くらいに分かれてローマの商船の航路へ襲撃をかけている」


 ガビアはパルマリアからイタリア半島、コルシカ、サルディニア、シチリアへと地図の上を指でなぞっていく。続いてガビアは、カルタゴやマッシリア、ザクントゥムへと指を進める。

 

「うむ。ローマはカルタゴやマッシリア、ザクントゥムなどとも交易を行っているからローマから外へ出た船を襲っているというわけか」


「ザクントゥム行きの船が一番の狙い目になってるわな。まあ、場所を見れば一目瞭然だ。ザクントゥムはイベリアの勢力圏内だからな」


 ガビアは言葉を続ける。この一か月でザクントゥム行きのローマの商船はほぼ壊滅。獲物が無くなったイベリア海軍はシチリア島とカルタゴ付近の船に目標を切り替えた。

 見かねたローマはイリュリアと戦争中であったが、軍船五十隻を準備しバレアレス諸島へ派遣することを決めたとガビアは言う。

 

「いよいよ海戦が始まるのだな。私が今からバレアレス諸島に向かって間に合いそうか?」


「ギリギリってところだな。でもな、ハンニバルさん、バレアレス諸島は軍船をカルタゴノヴァから増援し、あんたはここにいた方がいいぜ」


「ほう、ローマ軍がマッシリア辺りにでも進出してきたのか?」


「ご名答。どこで迎え撃つか考えねえとだぜ」


「ふむ」


 ハンニバルの「過去」ではエブロ川とマッシリアの二か所にローマ軍は進出していた。今回はバレアレス諸島とマッシリアか。イリュリアとの戦争が終わるまでは恐らく三軍にはならないだろう。

 「過去」と異なり、イベリア周辺の制海権を失っていないから軍船を伴って北エブロを抜けローマ軍を迎え撃つとするか。マッシリアまで今攻めあがる必要はないだろう。


「その顔は腹をくくったってところだな。誰かここに呼び寄せるんだろ? 誰だ?」


「キクリスを此処に残し、マーゴを呼ぶ。私がローマ軍を撃滅しよう」


「そうこなくっちゃな」


 ハンニバルはマハルバルとの問答で、マーゴとキクリスに北エブロからローヌ川西までの制圧を任せるつもりだった。しかし、それは此処セクメトにローマ軍がやって来た場合だ。

 ローマはバレアレス諸島に向かい、もう一軍もマッシリアに軍を進めているという。そうであるならば、セクメトは当面安全だろう。

 

 ローマよ、見せてやろう。バルカ家……いやイベリアの強さを。ハンニバルは彼にしては珍しく低い声で笑う。

 

 海と陸でイベリアとローマはいよいよ激突しようとしていた。

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