第42話 袖に振る
――紀元前220年
ハンニバルの「過去」とガビアの予想通り、その半年後イリュリア王はローマへ挑戦する。緒戦は数で勝るイリュリア海軍がローマ海軍を破った。
敗れたローマはイリュリアへ対抗するため、五段櫂船、三段櫂船を造船し数を増やしていく。僅かな期間で軍船の数を二百二十隻まで増大させたローマ海軍はイリュリア海軍へ海戦を仕掛けようとしている情勢だ。
一方、ローマはイリュリアとの戦争があるため、イベリアに対しては消極的な対応を行っていた。それでもローマとイベリアはお互いに戦争状態に突入しており、いつ大規模な戦争が起こってもおかしくない状況ではある。
ローマはイベリアを討伐するための兵を集めて、どこに侵攻するかローマ元老院で協議を行っている最中で、行先が決まれば兵を進めるであろう。
カルタゴノヴァの叔父ハストルバルの執務室で、ハンニバルらバルカ家と彼の集めた学者を除く人材は、珍しくガビアも含めて集合していた。
集まったのは、叔父ハストルバル、ハンニバル、トール、マーゴのバルカ家の四人、シェラを差配する文官のバレス、『
そうそうたるメンバーが集まっていたが、これが全てではない。他にもバオール・ギスコやルシタニアの族長など有力者はいるが、全体の動きを決めるにあたって十分な人物がここに揃ったと言えよう。
「皆の者、よくぞ集まってくれた。いよいよローマとの戦いを開始する」
叔父ハストルバルは集まった全員の顔を見渡し、最後に才気溢れる甥ハンニバルの顔を見やる。
ハンニバルは叔父ハストルバルと目が合うと、無言で深く頷きを返し前方を見据える。
ついにローマと再び会いまみえる日がやってきた。「過去」においては前年に暗殺された叔父も無事生きている。人材や領域、経済力でも「過去」とは比較にならない。
しかし、ローマに対するには未だこちらの方の戦力が低いことは確実だろう。登れば登る程ローマの巨大さが見えてくる……ハンニバルは心の中で独白する。
「諸君、既にローマは我々の交易船を何隻も沈めている。イベリアはこれに対抗しローマと戦争を行う決意をした」
ハンニバルはゆっくりと語り始めそこで一旦言葉を切る。
「テウタ殿、貴殿にはバレアレス諸島を拠点にしてイリュリア海賊を率いローマの船を沈め略奪を行っていただきたい」
つまり、西地中海海域の通商破壊を行えとハンニバルは言う。ローマはカルタゴ本国を含めイベリア以外の国と交易を行っている。それを撃滅し、ローマを圧迫しようという
「了解いたしましたわ。しかしハンニバル様、交易船だけではつまらないと思いませんか?」
テウタは恋人に恋い焦がれるような艶絶な顔で、ハンニバルへ問いかける。
「さすがテウタ殿とイリュリア海賊……それだけでは物足りぬのですね。もちろん、ローマの軍船も襲って構いません。ただし、戦力が当方に優勢な場合に限ります。いずれローマはイベリアへ兵を送って来るでしょう。その際に多くの軍船が現れるはずです」
「ハンニバル様、『安全』を重視し、当たりますわ。お任せください」
テウタは一礼し、了承の意を示す。
「次にオケイオン、お前はバレアレス諸島のパルマリアにて防衛に当たれ。恐らく移動をしてもらうことになるが、随時使者を送る」
「オウケエイ! 分かったぜ。パルマリアの美女が俺を待っているぜ。ハンニバルさん、余り待たせ過ぎると美女が全て俺のものになっちまうぜえ」
オケイオンはニヒルな笑みを浮かべ肩を竦める。
「トール、お前はパルマリアを差配しろ。マーゴ、お前はカルタゴノヴァに残す兵を頼む」
「了解いたしました。兄上」
マーゴとトールの言葉が重なる。
「バレス、お前は引き続きシェラを差配しろ。私がいなくなるカディスの補佐も頼む。もしタムリットのギスコ殿と連携が必要なら任せる」
「ハッ。承知いたしました」
バレスは両足を前後に広げ右手を掲げるバール神式の敬礼で了承の意を伝える。
「ガビア、エブロ川河口に植民都市を建設してくれ。お前のことだから、すでに準備はしていることだろうと思うが……」
「あいよ。もう始めちまってるがな」
ガビアは手をヒラヒラと振りハンニバルへ応じる。この場にあってもガビアはドカっと椅子に腰かけ足を投げ出したいつもの不遜な態度だ。
「叔父上、イベリアを頼みます。私はエブロ川を越え、ピレネー山脈の付け根まで占領いたします。カドモス、キクリス、そしてマハルバル、私に付き従え」
「うむ、ハンニバル。任せたぞ」
叔父は
――その日の夕方
マハルバルはハンニバルに夕食に誘われ、ハンニバル邸に向かっていた。彼は道半ばでエジプト風の露出が多い衣装をまとった美女テウタに遭遇し声をかけられる。
「マハルバル、食事はもう食べたの?」
「いや、まだだよ」
「そう、私もまだなのよ。久しぶりに会ったんだし一緒に食べない?」
テウタの言う通り、彼女はバレアレス諸島のパルマリアでマハルバルはカディスを拠点としながらもイベリア国内を動き回っていた。彼はパルマリアに行くこともあり、その際にはテウタと会うこともあったのだが、すでに半年以上前のことだ。
「すまない、テウタ。ハンニバル様に誘われているんだ」
「ふーん。嬉しそうな顔をしていたからいい女でも出来たのかと思ったけど……」
テウタはため息をつき長身のマハルバルを上目遣いで見上げる。
「嬉しそうな顔などしていないさ!」
マハルバルの目が泳いでいるのを見て取ったテウタはすぐに彼が嘘をついていると理解する。確かにハンニバル様は精悍で赤毛の素敵な男だけど……テウタは心の中で独白しながら、マハルバルの肩をポンと叩く。
「明日は大丈夫なの?」
「ああ、明日なら」
「じゃあ、明日ね!」
テウタは破顔し、マハルバルへ手を振ると街の中に消えて行った。
マハルバルはヤレヤレと肩を竦めた後、再びハンニバル邸に向かう。
ハンニバル邸についたマハルバルは傍付の者へ到着したことを告げると、すぐに中へと案内された。
大広間にはすでに食事が置かれており、ハンニバルが奥に腰かけマハルバルへ向け片手をあげる。
「マハルバル、よくぞ参った」
「ハンニバル様のお誘いでしたらいかなる時でも!」
マハルバルは膝を付き礼を行うが、ハンニバルはそれを手で制し彼に座るように促す。
「マハルバル、食事の場でそう畏まる必要はない。ガビアを見てみろ」
ガハハとハンニバルは豪快にガビアを例に出すが、マハルバルはあの人の態度だけは真似したくないと固く誓っていることを主人に告げようか迷っていた。
「あれはガビア殿だからこそだと思います……」
「ハハハ、私は最近思うのだ。ガビアのあの態度は相手を見定める手段の一つなんじゃないかとな」
「ガビア殿にそのような意図があったとは……ハンニバル様はおっしゃってました。ガビア殿こそ地中海一の頭脳だと。私には彼の意図さえ分かりませんでした……」
「いや、本当にそうなのかは私にも分からぬ。だが、あいつは謀略や政略を練る時に必ず『人の性質』を見極めるのだ」
「なるほど!」
「前置きはこのくらいにして、食べてくれ、マハルバル。食べながらでよいから、私の『過去』を少し聞いてくれぬか?」
「はい。ぜひに!」
マハルバルは喜色を浮かべ、主の問いに応じる。
ハンニバルは自身の「過去」の経験を知る唯一の人物であるマハルバルへ再び「過去」を聞いてもらい自身の考えを整理するつもりだった。「過去」のローマとの戦争経過を顧みて、これから起こる戦争の予測を立てようと彼は考えていたからだった。
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