第41話 沈没事件
――紀元前220年
ローマとハンニバルらの会談があってから一年半と少し……この間、ローマとバルカ家は表面上平穏を保っていた。いや、むしろ両国間で活発な交易が行われていたと言えよう。
ローマはヒスパニアで作られる水オルガン、遠くカナリア諸島から入荷する竜血やバナナ、カディスの銀、イベリア全域からワインや穀物と様々なものを輸入していた。イベリアもセメントの材料やローマ産のワイン、シチリア島の小麦など多方面から輸入を行っていた。
これほどの平穏が保たれたのにはもちろん訳がある。理由はカルタゴ本国だ。
カルタゴ本国はローマとバルカ家の交渉が不調に終わったことを知ると、カルタゴ元老院からローマへある提案がなされる。カルタゴ元老院は和平派と呼ばれるローマと融和を目指す議員が多数を占めバルカ家とギスコ家と対立していたが、いざバルカ家がローマと破局しようとした場面にくると結束して動いたのだった。
ローマへなされた提案とは、ザクントゥムがケルト人たちへひいてはイベリアへ支払う税について、カルタゴ本国でその金額を持つとローマに提案し、ローマもこれをもろ手をあげて歓迎する。
この提案はイベリアのバルカ家、カルタゴ本国、ローマの三者に大きな利益を運ぶことになる。イベリアの発展が著しく領内で採れる産物、工業品、工芸品が急速に増えたため、カルタゴの商人もローマの商人も交易を行うことで多くの富を稼いだ。
もっとも、この平穏で一番得をしたのはイベリアだったのだが……
しかし、この平穏な流れは不意に方向転換することになった。カディスの港を出たローマの交易船が沈没し、続いてさらに一隻が沈没する。一方、ローマのネアポリスを出たイベリアの交易船が沈没、ここでイベリアの商人はこれから出る交易船の調査を行う。
その結果、複数の交易船の船底に細工がされていたことが判明し、事態は急展開を見せる。交易船というものは、決して沈まないものではないから沈没したこと自体は不幸な事故として処理されてしかるべきだが、何者かによって「細工」がなされて沈没したとなると話は異なってくる。
ネアポリスのイベリア交易船のことがあり、カディス沖で沈んだローマの交易船についても同様の細工が成されていたのではないかと嫌疑がかけられローマとイベリアの関係性は冷え込む。
事ここに来て、カルタゴ元老院は「バルカ家が戦争を仕掛ける為、イベリア・ローマ双方の船を沈めたのだ」と決議しローマへ決議内容を伝える。決議内容にはどのような悪辣な細工を行ったのかまで記載されていた。
――紀元前220年 タルセッソス カディス ハンニバル邸
ハンニバルはガビアの使いからカルタゴ元老院が発布した決議内容詳細が書かれた情報を受け取ると、最初は眉間にしわを寄せ大きなため息をついていたが、次第に表情が獰猛なものに変わり体には気迫が
イベリア、ローマ、カルタゴ本国は一年半程度平和共存し、特に商人はこの商機に狂喜乱舞した。カルタゴ元老院の馬鹿どもはイベリアの余りの急成長に我慢できなくなったのだろう……今回の仕手は明らかにカルタゴ元老院だとハンニバルは確信している。
カルタゴ元老院は和平派で占められ、ハンニバルら積極派は少数しかいない。ハンニバルはバオール・ギスコと協力しカルタゴ元老院を操ろうと画策したが、上手くいかなかった。二人ともカルタゴ本国から遠く離れた地にいたことが原因だろう。
和平派は外敵であるローマにあたるのではなく、ライバルである積極派のバルカ家の追い落としにかかったというわけだ。自身の強みを捨ててまで……本当に先が見えていない奴らだと思いハンニバルはさきほどため息とついたのだった。
カルタゴがローマより優れているもののうち一番の強みは商人なのだ。ポエニ戦争で敗れ、ローマに圧迫されながらもカルタゴ商人は儲けに儲けた。ローマから課せられた賠償金を支払っても動じないほどに。
そこに新しいイベリアという商圏が出来、カルタゴ商人は更に雄飛できる好機だった。それを自ら潰すとは……カルタゴ本国がこのままでは先がないだろうとハンニバルは思う。
「やあ、ハンニバルさん」
いつのまにかハンニバルの執務室に入り、椅子にドカっと腰かけ足を投げ出していたガビアが手をヒラヒラと振り彼に挨拶してくる。
「ガビアか、すまんな長考していた」
「
ガビアは遠慮なくカルタゴ元老院のことをこき下ろす。「馬鹿ども」とまで言うガビアの不遜な物言いにハンニバルは心底同意していたので、ガビアをたしなめようと思わなかった。
「我々はあの時ファビウスに宣言した。イベリアの船が沈むようなことになれば戦争を辞さないと。奴らも同じように応対したはずだ」
「そうだな。もう臨戦態勢にあると見ていいだろう。戦争準備を行い今年中に戦争開始ってところだな」
「戦略は考えている。先に行くか、迎撃するかどちらにするかを決めるだけだ」
「ククク、ハンニバルさん、その顔、すぐにでもやりたくて仕方ねえって感じだな」
「お前にもいろいろ動いてもらうことになるぞ。戦争とは戦略だけではないからな、適材適所存分に働いてもらうぞ」
「あいよ、情報の収集は任せな。政略と謀略ならやるぜ?」
「もちろんだ。お前の智謀は悔しいが私や偉大なる叔父上をも凌ぐだろう」
面と向かってハッキリとハンニバルに言われたガビアはさすがに面食らって頭をボリボリとかいて目を逸らす。
「ハンニバルさん、ローマとイベリアの戦争に関してカルタゴ本国は中立を保つってのでいいんだよな?」
「うむ。そのためのエジプトだからな」
「あいよ。カルタゴ元老院にはエジプトから圧力をかけている。正確には圧力をかけていると思わせるようにカルタゴ元老院へ仕掛けを行っているだけだがな」
「いつもながら手が長い。ガビア、お前が戦争のことは分からないというのは理解しているが、お前ならどちらを選ぶ?」
ハンニバルはガビアに問う。「先に仕掛けるか、待つかどちらがいい」と。
「そうだなあ。ハンニバルさん、俺っちならイリュリアが立つのを待ち、こちらから仕掛けるかな」
相変わらずガビアの晴眼恐るべしと言ったところか……ハンニバルは心の中で独白する。イリュリアは女王派を追い落とした者が新たな王となり、イリュリアの大部分を支配下に置いている。
女王派との対立の際にローマに味方し、ローマとの関係も厚い。しかし、この男の野心はこれで留まるわけではない。「過去」のイリュリアはローマに海戦を仕掛け一度はローマの艦隊を破っていた。
その後、ローマに制圧されるのだが……
ともあれ、ガビアはハンニバルのように「過去」を知らない。きっと彼の持つ情報網からイリュリアの戦争準備を嗅ぎ取ったのだろう。いや、それだけじゃないな。ガビアは人の性質を読むことに長けていて、人とは時に合理的ではない判断を下すことも知っている。
イリュリアがローマに挑むなど自殺行為そのものなのだから……
「お前の言うとおり、イリュリアは年内に立つだろう。いずれにしろイベリアの戦争準備に半年はかかる」
「そうだな。俺っちも準備をしてくるぜ。何かあれば呼んでくれ」
ガビアは「よっこらせ」と言って立ち上がると、貝紫で色鮮やかに染めた帯をズリズリと引きずりながら部屋を出て行った。
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