第40話 狸と狸

 書状には憎き「SPQR」の蝋印が押され封になっている。「SPQR」……ローマの旗に描かれるローマの象徴……「元老院とローマの市民」の頭文字を取ったものでローマの国そのものを指す。

 ハンニバルはその文字に憤るものを感じながら、叔父ハストルバルが封を切り書状を開く姿を静かに眺める。


 書状の内容を見た叔父ハストルバルは珍しく戸惑った様な声をあげると苦渋の表情を見せた。

 いつもこういった場では表情を見せない叔父が表情を変えたことにハンニバルは肌が粟立つ。一体どれほど悪辣あくらつな事が書かれていたのだろうと彼は拳を握り締める。


 すぐに叔父ハストルバルは、ハンニバルへ書状を手渡すと彼はそれを開く。


 書状には――


 ――何も書かれていなかった。


 そう、何も書かれていなかったのだ。

 ハンニバルは思わずファビウスの方を見やると、彼は口元に不敵な笑みを浮かべじっとこちらの様子を伺っていた。


 ファビウス……やはり一筋縄ではいかぬ男だ……ハンニバルは心の中で独白し叔父ハストルバルと目を見合わせる。


「ファビウス殿、この書状はこちらが自由に書き込んでもよいということですかな?」


 叔父ハストルバルは声に動揺したものは無く、挑戦的な目でファビウスを見つめ問いかけた。


「なるほど、そう取りますか。さすがはイベリアを短期間でここまで大きくした執政官スッフェト殿ということですな」


 ファビウスはカラカラと口元だけで笑い、ハストルバルに応じた。


「遠慮無く、私達の希望を入れてもよいですかな?」


 叔父ハストルバルは確認するように同じことを繰り返す。


「ハストルバル殿、何を希望されますか?」


 ファビウスは真剣な表情に戻りハストルバルに問う。


「エブロ川からローヌ川へお互いの勢力範囲を移動させたいのですが、どうでしょう?」


「何!」


 ハストルバルの言葉にスキピオ・ガウルスが声を張り上げ口を挟む。しかし、ファビウスが彼に目で落ち着くように促すと、渋々といった様子で彼は口をつぐんだ。

 

「ローマにエブロ川からローヌ川にかけての領土を捨てろと言うのでしょうか?」


 ファビウスは心外だと言う風に肩を竦める。

 

「いえ、そういうわけではありません。ローマにとって何も失う物がないと思いそう提案したのですよ」


 叔父ハストルバルは続けて説明する。ローマはローヌ川東に同盟都市マッシリアを持つとはいえ、ローヌ川から西へはザクントゥムを除き進出していない。

 エブロ川の協定を決めたはいい、しかしローマはカルタゴの支配地であり大きな拠点であったコルシカ島とサルディニア島を奪いに来る戦力がありながらローヌ川から西へ目を向けなかった。

 つまり、ローマはエブロ川どころかローヌ川より西に興味はないのだろうとハストルバルは主張する。むしろ、ローマにとって大事なのはザクントゥムでありコルシカ島であるのではないかと彼は問う。

 

 叔父ハンニバルの説明を聞くうちに、スキピオ・ガウルスの表情は苦渋に満ちたものになりファビウスでさえ、眉間にしわを寄せ彼の話を聞いていた。


「ハストルバル殿、あくまで現状そちらに進出していないだけです。準備が整えば進出する予定なのですよ」


「しかしファビウス殿、ガリア・キサルピナは現地のケルト人と紛争があったため制圧に向かうことは分かります。しかし、ノリクムは必要に迫られて攻めているわけではありませんよね?」


「つまり、こういうことですか。ノリクムに攻める余裕がありながら、ローヌ川より西には進出していないと。だからこそ、ローマはこの領域に興味がなくむしろザクントゥムを守った方が利になると」


「その通りです。ファビウス殿」


「そのようなこと、認めるわけにはいかぬ! 諸君らは自身の立ち位置を分かっているのか?」


 ここでスキピオ・ガウルスが激昂し、話に割り込んでくる。彼は「カルタゴとローマの力関係を見よ」と恫喝どうかつする。戦争に勝ったのもローマ、制海権を持つのもローマ、カルタゴの重要拠点であるコルシカ島とサルディニア島を黙ってローマに奪われたカルタゴ。

 それが分かっての物言いなのかと彼は言っている。

 スキピオ・ガウルスはワザとここまで激昂した振りをしてバルカ家を恫喝どうかつしていることはファビウスには理解できる。ただ、これまでの会話を顧みる限りこのハストルバルという男は脅されてはいそうですかと言うような者ではないことは、容易に彼は想像できた。

 正直なところカルタゴ本国が相手ならばローマの威を借り、強引に事を進めることも可能だとファビウスは思う。しかし、彼らは違うだろう。戦いに敗れるまで引くことはないと彼は確信する。

 

 では、彼らバルカ家……イベリアの実力はどうか。ファビウスの見積もりではこれまでの彼らの実績からして戦争遂行能力があると考える。ただ、どれほど戦争に強くてもローマと彼らはまだ一回も戦ってはいない。

 ここで我らが引けばローマ市民は我らを支持しないだろう。今しばらく様子を見たかったのだが仕方あるまい……ファビウスはヤレヤレと肩を竦める。

 

「はて? 取るつもりのない領土に何を言っておられるのか? 何が言いたいのですか?」


 ファビウスの予想通り、叔父ハストルバルは全く動じた様子もなくおどけて見せる。

 

「ハストルバル殿、あなた方の思いは分かりました。このままでは戦いになりますぞ」


 ファビウスは達観したようにハストルバルへ告げる。


「それは致し方ありません。私達は自国の防衛のため、ローマがローヌ川より西に進出するか、例えば船が沈められるといったイベリアに戦争行為を行うことなどがあれば応戦いたします」


「致し方ありませんな。カルタゴ本国へも向かわせていただきます」


「どうぞご自由に。話は以上でよろしかったでしょうか?」


「そうですね。これにて我々はローマへ一度帰還いたします」


 ファビウスは叔父ハストルバルへそう返すと、まだ怒りが収まっていないフリをしているスキピオ・ガウルスが憎まれ口を叩く。

 

「せいぜい、貴国の船が沈まぬことを注意されるのだな」


 その言葉を最後にローマの二人は立ち上がり、それに合わせてハンニバルらも席を立つ。

 丁重にローマの二人を船まで送り届けたハンニバルと叔父ハストルバルは顔を見合わせ大声で笑い合った。


「叔父上、見事な対応でした」


「一度顔に出てしまったな……私もまだまだ未熟だろう?」


「いえ、そんなことはないと私は思います。あの書状を見て表情を変えぬ者などいないと思います」


「会った印象だが、どちらもやるな。特にファビウス……あやつの頭脳は脅威だと私は思ったが、お前はどうだ? ハンニバル?」


「私もそう思いました。一切表情を変えず叔父上とやり合う姿。きっと白紙の書状も彼が考えたことでしょう」


「スキピオ・ガウルスの方もワザと恫喝してみたりと少しは考えがあるみたいだが、やはり武人だな」


「そうですね。ただ戦場では手ごわいと思います」


「うむ。では戻ろうか」


「はい。叔父上」


 二人は見えなくなっていくローマの船を睨みつけた後、踵を返し邸宅に戻って行った。

 

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