第39話 ローマと会談

――紀元前222年 カルタゴノヴァ

 ハンニバルはカルタゴノヴァに到着すると叔父ハストルバルに会い、ローマとの交渉について協議を行う。


 叔父ハストルバルもローマと戦うことに否はなくむしろハンニバル以上に戦いを望んでいるように見えた。

 彼はローマへのたぎる思いを押さえつけ、ローマやカルタゴ本国へ柔らかで友好的かつ譲るような態度をとっていた。

 ハンニバルはこれを叔父なりのバルカ家を守るための擬態だと分かっていたし、実際叔父ハストルバルがイベリア統治の顔となることで、カルタゴ本国やローマから深刻な警戒心を持たれることは無かったのだ。

 「過去」において、叔父上が暗殺されずに存命していたならば、ローマとの戦争は全く違ったものになっていたのだろうなとハンニバルは確信する。

 ハンニバルは「過去」も含めて長い時を生きて来たが、叔父のように自己を抑え擬態し外敵に対して調和を行うといった腹芸は苦手で実施することはできないし、ガビアのように奇策を打つこともできない。

 「過去」を経験していないハンニバルならば、彼ら二人の才能に嫉妬したかもしれないが、今の彼はそうではない。三人がそれぞれ一番得意なところで活躍すればいいと考えている。

 

 ハンニバルは自身の強みを分かっている。真っすぐに当たることにかけては自身の右に出る者はいないと。謀略を伴う政略はガビアに、外交なら叔父ハストルバルに任せればいい。彼はそう考えながら、叔父にワインを注ぐ。

 彼らは叔父の執務室で二人、明日来訪するローマの交渉役についての協議が終わったところで、久しぶりの水入らずで酒を酌み交わすことにしたのだった。

 

「叔父上、明日来訪する二人の執政官コンスルについてご存知ですか?」


 ハンニバルはワインを口に運びながらリラックスした様子で叔父ハストルバルへ尋ねる。

 

「ファビウスは厄介な政治家と聞いている。経験も豊富だろうし、油断できぬ相手だな。スキピオ・ガウルスは将軍としては優秀だろうが……政治となるとファビウスに比べれば明らかに劣るな」


 ファビウス……奴は厄介だ……ハンニバルも叔父の言葉に同意する。奴は優れた政治的バランス感覚を持つ。自国と他国の国力や地力を正確に把握し、確実に勝てる手を取って来る。それは迂遠ではあるが、「過去」ハンニバルを最も苦しめたのはファビウスだろう。

 奴は戦争を行う武官ではないし、戦略はともかく、現場で戦う戦術はまるで素人だった。しかし、ファビウスの「戦争を避けこちらを消耗させる」戦略は見事だった。政治の考えで戦争を戦った。奴は侮れない。

 そこまで考えたハンニバルは次にスキピオ・ガウルスへ思いを馳せる。スキピオの名前を聞くだけで、ハンニバルの気持ちがたかぶり、拳をギュッと握りしめる。

 スキピオ・ガウルスはスキピオ・アフリカヌスの叔父。アフリカヌスの祖父である老スキピオの二人の息子のうち弟になる。武家の名門スキピオ家は戦争においては心強いが交渉の場は凡百とは言わないが、ファビウスとは比べ物にならない。

 まあ、今回はお飾りだろうな。しかし……スキピオの名は私の心を乱す……

 

「ファビウスが交渉相手となるでしょう。明日はよろしくお願いします。我らがイベリアの執政官スッフェト!」


「全く……マルケルスみたいなことを言うな……縁起が悪い」


「叔父上はマルケルスとまだ書欄を交わしているのですね」


「うむ。まあたわいない話ばかりだがね。彼は本当に暑苦しい男だよ。お前と案外馬が合うかも知れぬな」


 叔父の言う通りだとハンニバルは思う。「ローマの剣」ことマルケルスはハンニバルの評価を基準にするとローマ最高位の武人である。彼と比肩しうるとすればスキピオ・アフリカヌスだけだろうとハンニバルは考える。

 マルケルスは熱い心を持った武人らしい武人だ。竹を割ったような人柄は敵ながら好感を覚える。自身と同じで腹芸が苦手なことも分かりやすくていい。

 

「そうかもしれませんね。いずれマルケルスと戦場で会うこともあるでしょう」


「そうだな。これは私の勘だが、ああいった単純で暑苦しい男は強いぞ」


「性格からそう思ったのですか、叔父上は面白い発想をしますね」


 ハンニバルと叔父ハストルバルは笑い合い、お互いにワインを一息で飲み干した。

 

――翌日 

 バルカ家からは叔父ハストルバルとハンニバル、ローマからはファビウスとスキピオ・ガウルスが出席し貴賓館で会議が行われることとなった。

 

「ようこそおいでくださいました。私はイベリアの執政官スッフェトであるハストルバルと申します」


 叔父ハストルバルはカルタゴ式の礼を行うと、ローマの二人は返礼を返す。

 

執政官コンスルのスキピオ・ガウルスと申します。私が交渉の全権を持っています。こちらのファビウスは交渉役となります」


「ファビウスと申します。以後お見知りおきを」


 スキピオ・ガウルスは武人らしく筋肉質で背が高い三十代の男といった感じだったが、ファビウスは五十を過ぎた老年期に入った小柄で髭の長い男であり、一見すると学者のようにも見える。

 しかし、眼光の鋭さが尋常ではなくこの男が只者ではないと一目見た者ならば理解できるほどだった。

 

「ハンニバルと申します。以後お見知りおきを」


 叔父の後ろで控えていたハンニバルもカルタゴ式の礼を行い、ローマの二人へ自己紹介を行った。

 

 全員が広い会議室へ着席すると、まずスキピオ・ガウルスが口火を切る。

 

「ハストルバル殿、我々ローマは同盟都市ザクントゥムから窮状を知らされここに参りました。彼らが干上がらぬよう手を打ってもらえませんか?」


 最初から直球で来たスキピオ・ガウルスへハンニバルは少し驚いたが、叔父は少なくとも表面上は表情一つ変えず、彼に応じる。

 

「手を打つと申されましても、我々に何を行えというのでしょうか? ローマとの取り決めに違反したことは一つもないはずですが」


 すっとぼける叔父ハストルバルへスキピオ・ガウルスは眉をしかめ言葉を返そうとするが、それをファビウスが手で制し二人の会話に割り込んでくる。

 

「ハストルバル殿、ポエニ戦争以来カルタゴは常にローマへ譲る動きを見せていたことは存じています」


「戦争に負けたのです。勝者へ配慮することは必要だと思っています」


 二人とも核心に触れていないが、言いたいことはお互いに分かっているようにハンニバルからは見える。しかし、二人とも表情が全く変わっていない……

 そして、二人の応酬が始まる。

 

「はっきり申し上げますと、ザクントゥムへ税の特権を与えてくれませんか? これまではケルト人との取引を黙認していたことは分かっております」


「なるほど……私たちは正当な税をケルト人との取引に課しただけなのです。これまでが普通でなかったこともお分かりなのでしょうか?」


「もちろんです。ローマの威を借りカルタゴの『善意』に甘えていただけということも知っております。残念ですが、彼らは『善意』がなければ生活が立ち行かないようになっているのですよ」


「お気持ちは分かります。同盟都市であるザクントゥムの民へローマも報いたいと。しかし、私達からすれば損をするだけで得るものが何もありません」


「そうですな……そこが交渉処と私は見ております」


 二人はそこで言葉を切り、水を口に含むとゴクリと飲み干す。

 

「ファビウス殿、スキピオ・ガウルス殿は私達へどのような利を考えておられるのですか?」


「いくつかあります。これを……」


 ファビウスは手元から書状を取り出し、傍付の者へ渡すとハストルバルの元へ届けられる。

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