第38話 バナナ

――紀元前222年 タルセッソス カディス ハンニバル

 カディスの執務室にいたハンニバルはローマから使者が来るという知らせをガビアの情報網から入手する。

 内容はザクントゥムに関してだとすぐ分かったハンニバルは、椅子から立ち上がり傍付の者へカルタゴノヴァノヴァ行きの船を準備するよう申し付ける。


 その時執務室の扉が開き、最高級の貝紫で染め上げた帯をズリズリ引きずりながらガビアが入ってきて、椅子にドカリと腰掛け両足を投げ出した。

 ハンニバルはガビアがすぐに来ると分かっていたので、彼が突然訪ねて来たことに特に驚く風もなく椅子に腰掛ける。


 ガビアはハンニバルが腰掛けたのを見て話しかけてくると思ったが、手に持つバナナをむしゃむしゃ行儀悪く食べている。


「バナナが気に入ったのか?」


 バナナはエジプトに嫁いだアナトから届けられたもので、遠くインドから輸入した珍しい作物だった。ハンニバルも食べたが、果実にしては甘みが薄くねっとりとした食感に眉をしかめた。

 つまり、ハンニバルはバナナをあまり気に入らなかったのだが、ハンニバル邸に来たガビアに一つあげたところ、彼はバナナをいたく気に入った様子であれ以来自身で仕入れているらしい。


「ああ、悪くないぜ」


 ガビアは皮だけになったバナナを指先で摘んで左右に振る。


「ふむ。インドには不思議な食べ物があるものだな」


「バナナをこっちで栽培できねえかな。自分で作れば安く済む」


「それほど気に入っているのか……」


「いや、バナナは高く売れるよな。もう一つエジプトから送って来た物があるだろう、ハンニバルさん」


 ガビアの指摘にハンニバルは懐にしまっていた赤色の結晶を手に取る。この結晶は竜血樹という木から取れる樹脂の塊で、エジプトでは珍重されているそうだ。栽培元はエジプトから南東に南下したソコトラ島から輸入していると聞く。

 用途は赤色の染料や薬品、宗教的な呪術などに使われる。

 

「うむ。これがどうしたのだ?」


「それが取れる島があるんだよ。マウリタニアの商人から聞いてな。ザクントゥムの話をするつもりだったが、先にそっちを聞くかい?」


「何やら儲け話のようだな。資金はいくらあっても足りないくらいだ。面白そうな話だ、先にそっちを聞かせてくれ」


「あいよ。マウリタニアの南西部にカナリア諸島って島があるんだよ。そこに竜血樹が自生しているみたいだぜ。実際その商人から竜血も見せてもらった」


「ほう。その島から仕入れ、他に売ればよいということだな」


「ご名答だ。そんでなハンニバルさん、その島は熱帯なんだ。ちょうどインドのようにな」


「そこでバナナを栽培するのか。抜け目のない奴だ。分かった、好きにやるといい」


「ありがとうよ。相当な利益が出るぜ。ククク」


 ハンニバルは手のひらに置いた竜血を見つめた後、懐にしまう。


「ガビア、ローマからの使者がカルタゴノヴァにやって来るそうだ。お前の手の者から先ほど聞いた」


 ハンニバルは話を本題へと切り替えると、ガビアの目がスウッと細まり彼の様子もピンと張り詰めたものに変わる。

 ザクントによってザクントゥムは干上がる危機を迎えている。そこで、彼らはローマに泣きついたのだ。そこまでは予想通り……ここからどのように交渉を行うのかが勝負どころだとハンニバルは考えている。

 恐らくガビアも同じ。ザクントはローマを引っ張り出すための手段であり、ザクントゥムを滅ぼすことが目的ではない。そこは二人に共通する認識だろう。

 

「ハンニバルさん、誰が交渉に来ようともこの件については俺っち達の優位は変わらねえ」


「うむ、ローマにつけいる隙は与えていないからな」


 ローマとカルタゴの協定であるエブロ川協定の規定では、カルタゴの勢力圏がエブロ川南だと決まっている。ローマはザクントゥムをヒスパニア内にねじ込んで、バルカ家の抑えとした。

 ここで領土の正当性を主張しザクントゥムへ攻め込めば、立場の弱いカルタゴへローマは強気に出るだろう。「戦争を行わないと決めていたのに何事だ」と。

 しかし、ハンニバルらはザクントゥムへ直接手を出してはいない。ヒスパニアの領土に住むケルト人から税も払わず勝手に仕入れていた穀物を、正規のルートへ戻しただけだ。これまではローマの影を恐れて彼らの無法を許していたが、準備が整った今となっては彼らに譲る必要はない。

 バルカ家とヒスパニアの主張はもっともなもので、ローマも手出しできないだろう。

 

「まあ、ローマはケルト人からヒスパニアを介さずに仕入れを行わせろと言ってくるだろうな」


「そこで代償をいただくのだな。最悪戦争になっても構わん」


「ほんと、ハンニバルさんはローマのこととなると熱くなるな。ただ戦争するだけじゃあ、ザクントを作った費用に見合わねえ」


「奴らは自身がカルタゴに優位だと分かっていて交渉に来るぞ」


「そうだな。ザクントゥムがこれまで通りケルト人から仕入れを行う代償として提示する条件は、ローヌ川を新たなローマとカルタゴの境界にするってのはどうだ?」


「ハハハ! ガビア! それはいい。奴らの顔が見ものだ! 受け入れなくとも良いがな」


 ローマはそもそもローヌ川の東にマッシリアという同盟都市を持っているが、ローヌ川の西からエブロ川にかけてなんら植民都市も同盟都市も保持していない。ではローマがその地へ領土を広げようとしているのかというとそのような動きはない。

 なぜなら、ローマの領土的野心は西ではなく東に向いている。イタリア半島北部にあるガリア・キサルピナはあと半年もしないうちに制圧するだろう。その北にあるノリクムへもローマは攻め込むかもしれない。

 さらにイタリア半島の対岸にあるイリュリア、その東にあるマケドニアへ彼らは目を向けている。「過去」においてローマはギリシャとマケドニアの争いに介入しマケドニアと戦争も行っているのだ。

 カルタゴが手を出さなければこちらに目が向くことは無いだろう……ハンニバルはそう考えニヤリと口元をゆがませる。

 

 もっとも、ローマの目をこちらに向けたのは他でもない私なのだがな……ハンニバルはそう思い、フウと大きく息を吐きだした。

 

「俺っちの予想だと受け入れる可能性は三割ってところだな。拒否し交渉決裂が七割だが……どうだ? ハンニバルさん」


「ふむ。挑戦状という形だな。元よりローマと事を構えるつもりだったのだ。言ってみるだけ言ってみるか。叔父上にこの案を伝えることにしよう」


「あいよ。戦争になった場合の戦略はもう考えているのかい?」


「もちろんだ、ガビア」


「それなら問題ない。俺っちは戦争の知識を持っていねえ。だがな、ハンニバルさん、戦争ってのは何も兵と兵がぶつかり合うだけじゃねえだろ」


「お前は相変わらず聡いな。その通りだ。お前に相談したいこともある。まずはローマと交渉を行ってからだな」


「待ってるぜ。ハンニバルさん」


 ガビアはその言葉を最後に「よっこらせ」と椅子から立ち上がると、バナナの皮を持ったまま退出して行く。

 

 彼と入れ替わるように船の準備が整ったと傍付の者が顔を出し、ハンニバルはカルタゴノヴァに向かう。

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