第37話 ザクントゥム騒乱

 トールの表情を見て取ったハンニバルは叔父と目を合わすと頷き合った後、彼にさらなる説明をする。といってもハンニバルの「過去」を話すわけではない。

 「過去」を知っていたのならば、「シリアとエジプトの戦争を避ける」又は「エジプトの政治が乱れぬよう介入する」といった案が容易に浮かぶが、ハンニバルは「過去」をマハルバル以外に伝えていない。

 当初ハンニバルはマハルバルへ「過去」の話をした後、叔父ハストルバルへこのことを伝えるつもりだった。

 

 しかし、彼はすんでのところでそれを思いとどまる。というのは、「過去」を伝えることは彼らに要らぬ混乱を招くと思ったからだった。「過去」は絶対ではない。それはハンニバル自身がこれまで示してきている。「過去」に捉われ判断を狂わせる可能性の方が高いと彼は判断し誰にも伝えぬことを決めた。

 もし必要であれば躊躇ちゅうちょなく話をするつもりではいるが……

 

「トール、エジプトと友垣ともがきを結ぶことは経済面はもちろんだが政治的に有効なのだ。エジプトが黙っておいてくれればそれだけでな」


 ハンニバルの言葉にトールだけでなくマーゴも眉をしかめる。叔父ハストルバルだけは「うむ」と頷いているのだが……


「兄上、それは一体……」


 トールの問いにハンニバルは彼に考えを促すため、ヒントを与えることにした。

 

「いいかトール。まず、エジプトの国力はシリアはもちろんローマをも凌ぐかもしれん。これはいいか?」


 もっとも、国力で凌いだとしてもローマと戦いイタリア半島を制圧することは、名君プトレマイオス三世が崩御せずとも不可能だと思うがな……ハンニバルは心の中で独白しトールの返答を待つ。


「はい。兄上」


「我々の目的はローマを倒すこと。その為にはエジプトが背後にいたほうが望ましい」


 ハンニバルの言葉を反芻するトールであったが、首を傾げる。

 エジプトの軍事力を借り受けるわけでもなく、エジプトと共同してローマに攻めるわけでもない。そしてエジプトは巨大な国であり、黙っていてもローマへプレッシャーをかけることができるかもしれない……

 となると、ローマとの戦争を避けるならば有効に思えるのだが……バルカ家の思惑はそうではない。トールはそう考えますます分からなくなってしまった。

 

「トール、ローマは例えエジプトだろうと怯まぬよ。しかし、相手が大きいと尻尾をふる奴らがいるだろう?」


 トールへ助け船を出すように叔父ハストルバルが口を挟む。

 

「あ、そういうことですか! なるほど、カルタゴ元老院が対ローマ戦争を邪魔せぬよう、エジプトを彼らに対する抑えに使うということなのですね。ローマとエジプトという二か国となると彼らは動けませんね」


 トールは手を叩き、笑顔を浮かべる。

 

「うむ。そういうことだ。もう一つ言うならば、ローマと終戦条約を結ぶ際に出張ってもらうくらいか」


 ハンニバルは補足するように述べる。


「確かに……第三国が調停してくれるとなると話もまとまりやすいですね」

 

 トールは先ほど自身で考えていたことが浅はかな考えだと分かり、眉間に皺を寄せるがハンニバルに肩を叩かれ元の表情に戻る。

 

「この宴席はアナトのための席なのだぞ。我々が政治的な話ばかりしていてどうする」


 空気を変えるように叔父ハストルバルが手をパンパンと叩き、この話はもう終わりだと全員に促すと、バルカ家の面々は和やかな雰囲気で食事を楽しみはじめる。

 こういった細やかな気遣いはまだまだ叔父に敵わないと思いながらハンニバルは口元に笑みを浮かべ、尊敬する叔父を見るのだった。

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

――紀元前222年 ザクントゥム

 ザクントゥムの商人たちは深刻な危機感に苛まれていた。急速に勢力を拡大したヒスパニアは、いまやエブロ川南まで支配下に置いている。ザクントゥムは元々ヒスパニアの領域内にあるローマの同盟都市だった。

 ローマの同盟都市という背景があったため、カルタゴ系のヒスパニアから官吏を置かれることもなく、自由にケルト人と商取引を行っていた。しかし、ザクントゥムの街より南へ馬で一時間ほど行ったところに、彼らが「ザクント」という都市を建築しはじめると様相は一変する。

 「ザクント」の街が完成する前から、ケルト人たちはザクントゥムと直接取引を行うことを断り、全て「ザクント」を通してくれと態度を急変させる。さらに、ザクントの街が完成した後はローマ以外の交易船がザクントゥムに来なくなってしまった。

 ザクントゥムは人口を支える為、穀物の輸入は必須でローマ又は不本意ながらザクントから仕入れるしか手が無くなってしまった。

 

 ザクントゥムの商人たちだけでなく、この地を統治する文官もザクントゥムがこれまで繁栄してきたのはローマがカルタゴとの戦争に勝利し、ローマにとってザクントゥムがヒスパニアへ睨みをきかせる喉元に刺さったナイフだったからだと認識していた。

 しかしこのまま座していてはザクントゥムはローマの船が来るとはいえ、経済的に死滅してしまうだろう。ザクントゥムが状況を打破する手段は二つ。

 一つはバルカ家に帰順すること。これはザクントゥムに住む誰もが認めないし商人や文官もこれを推し進める気は毛頭なかった。

 

 もう一つはローマに救援を求めること。しかし、ローマを頼った場合、ローマとバルカ家の交渉が決裂すると力によって意見を決めることになる可能性もある。力によるとはつまり……戦争だ。

 戦場はザクントゥムになる可能性もそれなりにあり、戦場になってしまえばしばらくの間、経済活動は壊滅する。

 

 街の有力者を集めた民会では意見が紛糾し、もうしばらく静観を希望する者とすぐにでもローマへ助けを求める意見の者に分かれ三日間会議が続く。

 結果、ローマへ救援を求める意見が採用され、翌朝ザクントゥムからローマへ使者が送られた。

 

 ザクントゥムから使者が来訪するとローマ元老院は事態を重く受け止め、バルカ家と交渉する人材を選出する協議を行う。

 ローマの政治の頂点は執政官で、任期は一年。こういった重要な交渉事の場合には執政官が出ることも多い。今年度の執政官はスキピオ・カウルスとマルケルスの二人であったが、マルケルスはイタリア北部へ遠征中で不在。もう一方のスキピオ・ガウルスは武家の名門スキピオ家の出身であったが、重要な交渉事となると不安が残る。

 その為、スキピオ・ガウルスに加え齢五十を超え、二度の執政官を務めた経験を持つファビウス・マクシムスも交渉団の一員に加えることとした。

 

 先にカルタゴノヴァに使者を送ったローマは、交渉団もカルタゴノヴァへと向かう船に乗る。

 いよいよローマとバルカ家の運命が交差する。

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