第36話 婚姻政策

――紀元前223年 ヒスパニア カルタゴノヴァ

 カルタゴノヴァの叔父ハストルバル邸ではバルカ家の家族が全員集合していた。この日は末娘のアナトと家族水入らずで過ごせる最後の日ということもあり、昼過ぎから家族が揃っていた。

 夕食も他の者を入れずに彼らだけで楽し気にアナトとの最後の食事を楽しんでいた。

 

「兄さま、叔父上さま、何も私が生贄いけにえになるわけではありませんよ。そんな顔をしないでください」


 十七歳になったアナトは長い赤毛を肩の辺りで一つにまとめ、すっかり大人びた容姿に成長していた。彼女は心配そうな顔を崩さない男連中に向かって安心させるように声をかける。

 

「あ、ああ」


 トールが代表して返事をしたが、声を返すのが精いっぱいといった様子……

 バルカ家の面々が神妙な雰囲気になっているのは、アナトが翌日エジプトのアレクサンドリアへ旅立つことになっているからだ。

 バルカ家はアルキメデスやクテシビオスを通じムセイオンと繋がりを持ったことで、ムセイオンの推進者であるファラオとバルカ家は書欄を交わすようになっていた。もっとも、このような繋がりがなくともガビアとハンニバルなら渡りをつけることは可能なのだが……

 ハンニバルとハストルバルは幾度も相談し、アナトをプトレマイオス朝エジプトの王子へと嫁がせることを決めた。

 

 地中海世界には王制を取る国がいくつかある。ローマと比肩しうる有力国家となると三つの王国があげられるだろう。その三つとはマケドニア、シリア、エジプトである。

 ハンニバルは「過去」において彼がローマと戦っている時にはマケドニアと同盟し、マケドニアも同時期にローマと戦争を行った。彼がローマに敗れた後、シリアはローマと戦争を行ったためハンニバルはシリアに亡命をした。

 マケドニアとシリアならば、バルカ家との同盟は「過去」の経験から時期を誤らなければ容易いことだとハンニバルは断定する。

 しかし、マケドニアとは同盟の必要がないとハンニバルは考える。というのはマケドニアはギリシャと紛争を抱えており、ギリシャはローマと同盟をしている。マケドニアとギリシャの争いが回避されることはないだろうから、マケドニアはローマと戦争になるに違いない。

 そう「過去」のマケドニアと同じように。

 

 マケドニアがローマと戦争をするのならば、彼らと同盟をしても問題ないように見える。ただ、マケドニアとバルカ家が同盟したところでお互いに得る物がないのだ。交易をするにも軍事協力をするにも地理的な隔たりがあり、お互いに同盟によって享受できるメリットがない。

 唯一の利点としては、お互い同時期にローマと戦うことでローマに二正面作戦を強いることだ。しかし、上記の理由でマケドニアはバルカ家と同盟を結ぼうが結ぶまいがローマと戦争を行う。

 だからこそ、バルカ家とマケドニアが同盟を行う必要はないとハンニバルは結論つけた。

 

 シリアはどうか? シリアの王であるアンティオコス三世は、歴史に名を残すほどの大王と言っても差し支えないとハンニバルは考えている。

 これまでアンティオコス三世が行ってきたことと「過去」で起こったことを紐解くと彼の優秀さがすぐ分かる。

 アンティオコス三世がシリアの王となったとき、セレウコス朝シリアは急速に領土を狭め、たった数年で領土の七十五パーセントほどを消失する。アンティオコス三世は失地奪回を目指し、遠征を繰り返し領土を奪回していく。

 領土の奪回が済んだ後は、周辺地域へ野心を広げ、さらなる領域の拡大を目指す。エジプトとの戦いには敗れたが、東方での戦いに勝利しカスピ海南部まで勢力圏を広げるとともに従属国家を含めると東方領域はインドにまで届いた。

 この先は「過去」の足跡になるが、アンティオコス三世は再び西方地域に目を向け、エジプトとの戦いに今度は勝利する。そして、ローマ・マケドニア同盟と争い敗れ、ギリシャ周辺から手を引くことになった。

 

 現時点でシリアの目は東方に向かっており、実際に東方へ遠征に行くことになるだろう。シリアとバルカ家の目的は合わない。よってシリアとの同盟はお互いに益がないのだ。

 また「過去」の経験から対ローマに早く目を向けさせるために、エジプトと戦争を行い消耗をさせることを避けたい。そんな思惑からシリアとの同盟はまだ早いとハンニバルは考えた。

 

 残るプトレマイオス朝エジプトであるが、彼らにローマと戦ってもらうことは期待できない。エジプトは「過去」において一度たりとも攻勢に出ることは無かった。これは彼らの国内事情による。

 国内で反発が強まり反乱が起こっているというわけではなく、王族の後継者問題が背景にあった。

 現ファラオであるプトレマイオス三世が存命であるならば、エジプトは盤石であっただろう、もしかするとローマよりも強国かもしれない。彼は前妻の殺害の報復としてシリアと戦争を起こし、シリアに勝利を収め首都まで攻め落とす。

 外征に強いだけでなく、ムセイオンを始めとした学術奨励、新たな農地の改革など内政面でも優れた才能を見せた。しかし、彼は来年崩御するのだ。

 来年崩御するプトレマイオス三世の後を継いだのが、息子のプトレマイオス四世が即位する。彼は僅か十六歳で即位したこともあり、重責からか酒におぼれ親族を殺害する。前述のシリアのアンティオコス三世との戦いには勝利するが、国内は疲弊してしまう。

 悪行のせいか彼は暗殺され、僅か六歳の息子プトレマイオス五世が即位すると、シリアをはじめとした各国に敗れエジプトは北アフリカ以外の地域を全て失うことになる。

 これでは、ローマと戦うなど夢物語だ。

 

「ハンニバルよ。深く考えこんでいるようだが、何か問題があったのか?」


 ハンニバルが長考している様子をおもんばかった叔父ハストルバルが彼に問いかける。

 

「いえ、東地中海の情勢を考えていたのです」

 

 ハンニバルは叔父へ答えはするものの、未だ眉間に皺をよせ考え込むそぶりを見せた。

 

「兄様、プトレマイオス朝は血族結婚が多いと聞きます。バルカ家はカルタゴの家ということもあり王家や高貴な貴族というわけではありません。ローマもそうですが、共和制国家の家柄と良く婚儀になりましたね」


 ハンニバルを心配したマーゴがハンニバルへ言葉を投げかける。

 マーゴの言う通り、プトレマイオス朝エジプトはエジプトを征服したプトレマイオスがファラオとなった国家なのだが、彼がエジプトを支配するにあたって従来のエジプトの習慣を受け入れることとした。

 その結果プトレマイオス朝は血族結婚を繰り返し、外部の血を取り入れることは稀だ。

 

「マーゴよ、お前の気遣い感謝するぞ。私もアナトの婚姻を気に病んでいるようだな……」


 ハンニバルはマーゴへお礼を述べると、更に言葉を続ける。

 

「プトレマイオス朝は血族結婚が多いのは確かだが、アナトが嫁ぐのは長男ではなく次男であり、彼女が生んだ子供は王位継承権を持たないこととなっているのだ」


 ハンニバルは確認するようにマーゴに目を向け、このたびの婚姻について説明を行う。

 アナトが嫁ぐのはプトレマイオス三世の長男であり、「過去」において来年即位する予定のプトレマイオス四世ではない。彼女が嫁ぐのはプトレマイオス三世の次男マガスだ。

 「過去」でマガスはプトレマイオス四世に暗殺されてしまうが、今回はそうはさせないつもりだ。プトレマイオス四世の暗殺の動きは妨害できるだけ妨害する。

 プトレマイオス三世へアナトと次男マガスの婚姻の相談を行うと、彼は正妻でなければと前向きに応じてくれた。そこで、アナトはマガスの三番目の妻としもし子供が産まれたしても王位継承権は持たないということでプトレマイオス三世とバルカ家は結婚に合意した。


 正直なところ、王位継承権を破棄するという条件を付け加えずとも婚姻に持っていくことはできた。しかし、「過去」を知らない叔父ハストルバルはエジプトの宮廷闘争の激しさを知っており、アナトに類が及ぶことがないようこの条件を入れたのだった。

 アナトの子供をファラオへという考えはバルカ家にはない。むしろ、ファラオになることを敬遠している。これはカルタゴの家であるバルカ家だからこそだろう。

 バルカ家は「王」をよしとしない。政治を決めるのは元老院でなくてはいけないと思っている。王の治世では王の能力がなければ国が亡国となる。「王は必要ない」という考えにおいてはバルカ家とローマの考えは一致していた。

 さらに、今回の婚姻でバルカ家とエジプトが享受する利益はそれほど多くはない。お互いの交易を活発化することと関税を減らすことくらいになる。だからこそ、叔父ハストルバルは愛する姪の安全の方を重視したというわけだ。

 

「兄上、ご説明ありがとうございました。私の認識している内容と相違ありません。しかし……」


 トールは喉元まで出かかった言葉を飲み込む。アナトが旅立とうとしているめでたい席で言うべきことではないと彼も分かっていた。それでも口をついて言葉が出てしまいそうになる。

 

――アナトの婚姻は本当に必要なことなのか。


 と。

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