第二部 激動編

第35話 第二部 激闘編 開始

――紀元前223年 タルセッソス カディス

 ハンニバルがマウリタニアを制圧してから二年と少し、エブロ川以南をバルカ家が支配してからもうすぐ二年がたとうとしていた。

 バルカ家の制圧した地域を紐解いてみると、ヒスパニア、タルセッソス、バレアレス諸島、ルシタニア、コンテを中心としたケルト諸部族地域、シェラを中心としたマウリタニア北西部、ピレネー山脈など山間部より東側から沿岸部にかけてのエブロ川以南地域と勢力圏を急速に拡大していた。

 いつまでもケルト諸部族地域と呼称するのは管理上も統治上も市民感情の統一に不適切だったので、コンテを中心としたケルト諸部族地域はコンテ地方、マウリタニア北西部はシェラ地方、エブロ川以南地域は南エブロ地方と呼ぶことになる。

 

 この七地域にはそれぞれ民会があり、民会をまとめるのがヒスパニアにあるイベリア元老院になる。統治はこの二年間で順調に進み、イベリア元老院も機能し始めた。政治の代表はカルタゴ本国と同じで、執政官スッフェトになり強力な権限を持つ。

 執政官スッフェトは叔父ハストルバルが勤め、今後三十年間はバルカ家から選出することになっている。

 

 イベリアには大きく分けて三つの民族が居住しており、全て市民として同格の権限を与えられている。三つの民族とはバルカ家と同じカルタゴ系市民、イベリア半島に多く住むケルト系市民、そしてシェラに住むベルベル系市民である。

 未だ統治が始まって長くて四年程度であるが、ルシタニアやヒスパニアに住むケルト系市民は優れた技術力を持つカルタゴ系文化に同化しつつあった。しかし、宗教はそれぞれの信仰する神が異なり、どの神を信仰していても問題ないとされている。

 

 例えばカルタゴ市民らはフェニキア神話の神々を信仰しており、最高神はバールであるがバレアレス諸島などの海が近い地域だと男神であるバールより女神アスタルテを信仰する者もそれなりにいる。

 技術者だと鍛冶の神コハルを信仰する者もいるし、特にバール以外は認めないといった非寛容な対応をバルカ家は取らなかった。

 

 むしろ信じる神を一つに強制している国の方が珍しい。地中海世界においてはローマ、ギリシャ、マケドニアも主神は存在するが信仰する神を誰にするかという強制は行っていない。

 ともあれ、イベリアに住む三民族はカルタゴ文化に同化されつつあり、イベリア市民としての意識が芽生えつつある。このまま十年以上統治が続けば「イベリア人」と彼らは自己を意識することになるだろう。

 

 ハンニバルはこの二年間、七地域全てを訪問していたが主に政務を取る場所はカディスであった。

 彼が「やり直し」を行ってから四年がたとうとしている。ここまでを振り返り自身では「最善」の行動をとって来たと確信しているものの、ローマの巨大さを思うとやはり不安が消えることは無い。

 「過去」で叔父上が暗殺された日まであと二年か……ハンニバルは「過去」で叔父が暗殺された時のことを思い出し眉をしかめる。

 

 その時、扉が急に開き最高級の貝紫で染め上げた帯をズルズルと引きずったガビアが、片手をフリフリ振りながら入室してくる。相も変わらず不遜な態度であるが、飄々ひょうひょうと何も考えていないように見えて彼の頭の中が誰より働いていることをハンニバルは知っている。

 ハンニバルはガビアがドカっと椅子に腰かける姿を見てニヤリと微笑むと彼の発言を待つ。

 

「ハンニバルさん、順調過ぎて怖いくらいだぜ。あとは勝手に富が蓄積されていくだろうよ」


「海運、陸運と商人を差配してくれたお前のお陰だな」


「ククク、ハンニバルさん、褒める必要はねえ。俺っちはできることしかやんねえからな」


 そうは言ってもガビアの手はハンニバルが思っている以上に長い。どこまで見通しているのかハンニバルはガビアにいつも驚かされている。

 

「ふむ。お前が以前言っていたザクントゥムに対する『仕掛け』とやらの準備ができたのか?」


 ガビアは用が無ければ来る男ではない。今回ここを訪れたのはきっとローマ同盟都市ザクントゥムに対する仕掛けのことだろうとハンニバルは思う。

 

「おうさ、ただハンニバルさん、『仕掛け』はローマとやり合う事になる可能性がそれなりにあるがいいのか?」


 「ローマとやり合う」つまり、ローマと戦争になる。その言葉を聞いたハンニバルは急に獰猛な笑みを浮かべ、笑い声をあげる。

 ローマと戦争か。私は待ち焦がれている。準備は整ったのだ……ローマとの戦争のことを考えると、ハンニバルの胸中はローマへのたぎる思いで一杯になる。

 

「もちろんだ。ガビア、お前の見解だともう戦える体制は整ったと言っていいのだろう?」


「そうだぜ。いよいよだな、ハンニバルさん、じゃあ俺っちの『仕掛け』を聞いてくれるか?」


「ふむ。詳しく話をしてくれ」


 ハンニバルはガビアからどのような奇策が飛び出て来るのか、身を乗り出して彼の言葉を待つ。

 

「いつになくやる気だな。ハンニバルさん、ザクントゥムはな、放置する」


「何?」


「ザクントゥムは港街なわけだが、少し離れた南の海岸に『ザクント』の港街を建設する」


「ほう、それは……愉快なことになりそうだな」


 ハンニバルは口元に笑みを浮かべガビアの言わんとしていることを検討する。

 ザクントゥムはローマ同盟都市であるが、エブロ川とカルタゴノヴァのちょうど中間地点あたりにある。この地はローマとカルタゴの協定で「カルタゴ」側と定められた地域だ。

 だからこそハンニバルは「過去」においてザクントゥムを占領した。ガビアの案はザクントゥムを「無力化」しようとする案になる。

 

 なるほど、この案を実行するにはエブロ川以南を全てイベリア領にする必要があるな……ハンニバルはガビアがかつて占領後に本件の話をすると言っていたことを思い出す。

 ザクントゥムはローマとフェニキア、ギリシャ、カルタゴの商人と交易を行い繁栄している。ザクントゥムは都市国家であり、農業を行えるだけの十分な土地も無く、どれほど力を入れたとしてもせいぜい自給自足が限界だろう。

 そういう事情があり、ザクントゥムから出る主な交易品は海産物や加工品なのだが、それほど収益をあげているわけではない。では何で利益をあげているのかというと中継貿易だろう。

 彼らはザクントゥム周辺のケルト人と商船で港を訪れる商人の間を受け持ったり、ギリシャなど東の国とローマやタルセッソスなどの商人の間を取り持ち栄えてきた。

 

 それを断ち切ってやろうというのがガビアの「ザクント」建設案だ。ザクントゥム周辺のケルト人は全てイベリア市民となり、彼らに「ザクントゥム」に行かず、「ザクント」に商品を降ろすように動かす。

 カルタゴとイベリアの商人を「ザクントゥム」から撤退させ、全て「ザクント」に集約する。すると、これまで中継貿易で儲けていたギリシャやエジプト、フェニキアの商人も「ザクント」に利益を求め進出するだろう。

 こうなれば、ザクントゥムに集まっていた富はすぐに干上がる。そこでローマがどのような反応を示すか……ハンニバルの口元があがる。

 

「既に準備はできている。街の建設に二か月、ザクントゥムが干上がるまでに半年から一年待ってもらえるか?」


「もちろんだ。その間に戦争の準備を整えよう」


 ハンニバルとガビアはお互いに顔を見合わせ、低い笑い声をあげる。

 翌日より「ザクント」の建設が始まることになる。

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