第32話 マウリタニア遠征

――紀元前225年 マウリタニア

 イリュリアの王女テウタをイベリアへ迎え入れてから半年が過ぎようとしていた。叔父ハストルバルを通じてカルタゴ本国にいるバオール・ギスコにマウリタニアの分割について働きかけると、彼はすぐにこの話に乗ってくる。

 バオール・ギスコと知己を得た叔父ハストルバルは、何度かバオール・ギスコと書簡を交わし、彼の憂いを知ることになる。

 

 バオール・ギスコはこのままカルタゴ本国に留まっていると、いずれカルタゴ元老院と共に沈む船に乗ることになるだろうと危機感を感じていたが、具体的に動くすべがなく悩む日々が続いていたという。そこへ、イベリアのバルカ家からマウリタニア分割の話が舞い込んだというわけだ。

 バルカ家のように拠点を欲していたバオール・ギスコは、これに飛びついたというわけだった。

 

 バオール・ギスコの協力を得ることができたハンニバルたちであったが、マウリタニアはカルタゴの同盟国で理由なく攻め滅ぼすことは、強権を持つバルカ家といえども不可能であった。

 しかしガビアが一計を投じ、マウリタニア情勢は一変する。

 ガビアの計略とは資源……特に鉄鉱石と金鉱脈の抗争を再熱させたことだった。マウリタニアとヌミディアにまたがって伸びるアトラス山脈の断層部分には鉱脈がいくつもあり、マウリタニアとヌミディア間で古くから抗争の火種になっていた。

 近年はヌミディアが東西で対立を行うようになり、マウリタニアへ構っている余裕がなくなった。一方マウリタニアはヌミディアが抗議してこないのをいいことに係争中の鉱脈からも資源採取を行っていた。

 

 ガビアはハンニバルと叔父ハストルバルへ働きかけ、それに加えギスコの後押しも付け加えて西ヌミディアをカルタゴへ引き込みにかかる。

 西ヌミディアは東ヌミディアとの対立から親ローマ派の態度を取っていた。それが、マウリタニアの制圧についてはバルカ家で行い、マウリタニアを三者で分割するとイベリアから話が舞い込んできた。マウリタニアの領土が労せずして手に入るとなれば、東ヌミディアと対立するよりカルタゴと結び東ヌミディアと融和した方が利になると判断した西ヌミディアはマウリタニアとの対立を決める。

 

 その結果、マウリタニアと西ヌミディアの資源争いが再熱し、西ヌミディアに正当性があるとしてハンニバルはマウリタニアへと軍を進めるために、ジブラルタル海峡を越えマウリタニアとの国境近くへ進軍していた。

 非常に強引な手であったが、これに抗議するのはマウリタニアのみでローマは元より同盟関係を構築しているカルタゴ本国からも、ハンニバルらバルカ家は何ら圧力を受けることは無かった。

 

 国境沿いに集合したハンニバル軍の陣容はヌミディア騎兵三千にカルタゴ騎兵三千と騎兵のみの編成になっていた。軍全体を率いるのはハンニバルその人で、ヌミディア騎兵を腹心のカドモスが、カルタゴ騎兵を歴戦の傭兵キクリスが主導する。

 ハンニバルの傍付にマハルバルが控え、自ら戦場に出たいと希望したバオール・ギスコもハンニバルの隣で馬に乗ることとなった。

 

 軍団は野営をしながら、明日からの戦闘へ鋭気を養っているところで、ハンニバルはバオール・ギスコとマハルバルと共に食事を取っている。


「バオール殿、ワインの差し入れ感謝いたします」


 ハンニバルは昨日届いた大量のワインに対する礼をバオール・ギスコへ述べる。

 バオール・ギスコは兵の景気つけに、カルタゴ産ワインが全員に行き渡る量を船に積んで運んできてくれたのだった。

 

「いえいえ、ハンニバル殿、本当にささやかなものです」


 バオール・ギスコは恐縮したようにハンニバルへ言葉を返す。今回の戦は全てバルカ家が兵を拠出しているのだ。兵の金に比べれば、ワインにかかる資金など塵芥ちりあくたに等しい。

 バオール・ギスコも西ヌミディアもハンニバルのマウリタニア分割案に乗るにあたって、兵を出そうと提言はしたのだが、彼はそれを「兵は必要無い」と謝絶したのだった。

 西ヌミディアには念のためマウリタニアとの国境沿いを警戒するように伝え、バオール・ギスコには分割後の領土を差配する資金に兵を雇うはずであった資金を当てて欲しいと提言してきたのだった。

 

 これにはバオール・ギスコも驚嘆した。彼はバルカ家がそこまでギスコ家に譲る必要はないと思ったからだ。しかし、バオール・ギスコはそれを受ける事に決めた。もらえるものは貰っておこうという割り切った決定ではあったのだが……

 

「時にハンニバル殿、何故騎兵のみの編成にしたのですか? 歩兵ならばもっと多くの人数を集めることもできたでしょうし、騎兵のみでは何かと不都合がありませんか?」


 バオール・ギスコは疑問に思っていたことの一つ目をハンニバルへ尋ねる。

 

「マウリタニアを制するのに多くの兵は必要ないと判断いたしました。移動速度を重視し騎兵のみにしたのです」


「なるほど……」


 ハンニバルは理由を説明するが、バオール・ギスコにはいまいち彼が何を言っているのか理解ができずにいた。

 そんなバオール・ギスコの様子を見たハンニバルはもう少し詳しい説明を彼に行うことにする。

 

「バオール殿、マウリタニアはケルトと似たように部族単位で動いています。部族は決して一枚岩ではなく、多くの部族はことなかれ主義なのですよ」


 ハンニバルは説明を続ける。マウリタニアの一部部族はこのたびのバルカ家が起こした謀略に憤り、兵を差し向けてくるだろう。しかし部族間で別々に動き散発的な戦いとなる見込みであり、我が軍の精強さを見た他の多くの部族はすぐに恭順を見せ、こちらに従うことになるだろうと。

 バオールに説明を続けながら、ハンニバルは胸中に去来した「過去」のことを思い出す。「過去」において、マウリタニアのことなかれ主義にどれほど私がいきどおったことか。西ヌミディアとカルタゴの連合軍が敗れ去った後、彼らは戦いもせずにローマに占領されたのだ。

 そんな経験があったからこそ、ハンニバルはマウリタニアを制圧することを決めたし、彼らをあっさりと破ることができると判断したというわけだった。

 

「戦いはすぐに終わるというわけですか」


 バオール・ギスコは納得したように頷きを返す。

 

「その通りです。ですのでむしろ占領した後からが真の戦いといえましょう」


「そのために、私へ資金を使わず、後に残して欲しいとおっしゃったのですか?」


「はい。防備も固めていただかないとと思っています」


「防備ですか……ハンニバル殿……なるほど。そう言う事でしたら、資金のことは完全に納得しました」


 バオール・ギスコはもう一つの疑問点である「資金」のことについて、ようやく理解できた。この聡明な若者はローマがいずれ必ず攻め寄せると予想しているのだと彼は心の中で独白する。

 ハンニバルの見解はバオール・ギスコも同意するところだった。

 

「来たるべき日の準備なのです。マウリタニアは……」


 ハンニバルはニヤリと口元をゆがめると、ワインを口につける。


「来たるべき日にカルタゴ元老院も何とかせねばなりませんね。もちろん、協力させていただきますよ。それが私へここまで譲歩したあなたの目的でしょうから」


 バオール・ギスコもハンニバルと同じような笑みを浮かべワインをグイっと飲み干す。

 

「バオール殿、ご協力感謝いたします」


「いえ、これはカルタゴ存亡の危機ですからね。それをあの連中は……」


 ハンニバルとバオール・ギスコはカルタゴ元老院を思い肩を竦め、ため息をつくのだった。

 

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