第30話 エブロ川

「ギスコ殿へマウリタニア北東部を渡すか……バルカ家の領土の連続性より対ローマを優先するということだな」


 なるほどとハンニバルは感じ入る。ギスコがマウリタニア北東部を支配するとなると、東の沿岸部はカルタゴ、その南はヌミディアになる。北部海峡周辺はイベリア領となるからローマの襲撃を受けた場合一丸となって守る必要が出て来る。


「ああ、そうだ。その位置ならギスコも一蓮托生ってわけよ」


「ギスコ殿へはヌミディア防衛に当たってもらいたく考えている」


「ハンニバルさんの話を聞く限りだと、ヌミディア騎兵ってのが軍によって最重要なんだよな」


「うむ。その通りだ」


 ハンニバルは「過去」を振り返り、ヌミディア騎兵の精強さへ思いを馳せる。ヌミディア騎兵はカルタゴ騎兵と比べ物にならないほど馬の扱いに長ける。質の高いローマ騎兵であってもヌミディア騎兵と五分の戦いができないほどだ。

 これは、ヌミディアの生活様式にる所が大きい。ローマもカルタゴも農耕民族であり、現地に定住し街を作り畑を耕す。しかし、ヌミディアは半農半遊牧民族だった。彼らは生まれた時から馬と共にあり、馬と移動し遊牧を行うこともある。

 それ故、ヌミディアの民は馬の扱いに元より長けるのだ。馬というものは乗りこなし、武器を振るうことができるまでになるいは相当な訓練が必要になる。しかし、ヌミディアの民は特別に馬の訓練を行わずとも訓練を経た我らより優れた騎乗技術を持つのだ。

 

 ローマは歩兵、騎兵共に精強で弱点らしきものが無かったが、ヌミディア騎兵の強さによりハンニバルはこれを武器とすることができた。今回の戦いでもヌミディア騎兵の重要さは変わらないだろう。

 

「マウリタニアをどう攻めるのかはハンニバルさんが考えてくれ。俺は軍事のこととなると分からないからな」


「任せておけ。必ずやマウリタニアを落としてみせよう。かの地には私が自ら赴く」


「ククク。期待してるぜ。ハンニバルさん」


 ハンニバルは分からないことは分からないとハッキリ口にするガビアを好ましく思っている。彼はできることはハッキリとできると言うし、自分の手に余ることはプライドなど無くできないと言い切る。


「ガビア、もう一つの戦略であるエブロ川方面への遠征だが、ヒスパニアから兵を出しオケイオン殿にマーゴとトールをつけて向かわせようと思うのだ」


「人選に関しちゃあ俺は何とも言えねえが、マーゴとトールが不在でもイベリアの統治は問題ねえぜ」


「ああ、すまぬな。言いたかったことはエブロ川についてのローマとの取り決めだ」


 ハンニバルは先のポエニ戦争でローマとカルタゴの間で締結されたエブロ川に関する条約を頭の中で確認する。

 ポエニ戦争に敗れたカルタゴはローマへエブロ川を越えて北へ進出しないことを約束した。同じくローマもエブロ川より南についてはカルタゴの勢力圏として認めるとなる。

 勢力圏の取り決めを行ったが、カルタゴもローマも自国からエブロ川までの領域を支配しているわけではない。勝手にエブロ川を挟んで北と南に勢力圏を分けたに過ぎない。この地にはケルト系民族が少数ながら居住しており、もし自国の領域とするなら制圧が必要だ。

 また、策源地とするためには人口が希薄で都市もないため、植民都市を作る必要もあるだろう。そう、カルタゴノヴァやカディスのように。

 

 エブロ川の取り決めの範囲内でハンニバルが勢力圏を拡大することに対しローマから何か言われるいわれはない。

 しかし、問題は――

 

「ククク、ザクントゥムかい。ハンニバルさん」


 ハンニバルがそこへ思考を移そうとしたちょうどその時にガビアが口を挟んでくる。

 そう、ザクントゥムをどうすべきか。そこが問題だ。

 

 ザクントゥムはカルタゴノヴァとエブロ川のちょうど中間あたりにある植民都市で、「ローマ」にくみしている。もちろんザクントゥムの位置はカルタゴ勢力圏であるエブロ川より南になる。

 カルタゴ勢力圏にローマに与する都市があり、ローマと積極的に交易を行いローマの庇護を受けている。これは許されることではない。ザクントゥムはヒスパニアの喉に刺さった小骨なのだ。

 これを抜かねば、常にヒスパニア……しいてはイベリア全体がローマの影におびえることになるだろう。

 

 だからこそ、ハンニバルは「過去」においてまずザクントゥムを攻めたのだ。しかし、「過去」の経験から今はまだザクントゥムはを放置するしかないだろうとハンニバルは考える。非常に口惜しいが、ザクントゥムに手を出すとローマが来るため仕方がない。

 

「うむ。喉元でうるさい都市だが、今は放置しようと思うのだ」


「あんたが我慢すると自ら言ってくれてよかったぜ。俺っちはザクントゥムを攻めることは反対だからな」


「あくまで今はだ。エブロ川の南まで制圧できれば植民都市を作る必要もあろう。マウリタニアとこの地が策源地となればい準備は終わる」


「その時にザクントゥムに手を出しローマととか考えているようだが、ちいと待ってくれねえか。俺っちに案がある」


「ほう。どんな案なのだ?」


「それは……他の制圧が終わってからにしようぜ。ククク、ローマもザクントゥムも併せてひっくり返るだろうからな。愉快な案だぜ」


 ガビアは邪悪な顔で口元を吊り上げている。ハンニバルはガビアの案を再度聞こうと少しだけ考えたが、今は今後の楽しみに取っておこうと口をつぐむ。

 

「だいたいこんなところか。感謝するぞガビア」


 ハンニバルは有意義な話ができたことに感謝し、ガビアをねぎらった。

 ガビアは「構わない」といった感じで片手を振ると、「よっこらせ」と言って椅子から立ち上がる。

 ズリズリと高級品である貝紫で染めた帯を引きずって歩き扉まで来ると彼はふと歩みを止める。

 

「ハンニバルさん、あんた俺っちの監視網に監視をつけねえんだな」


 いまさら何をとハンニバルは思う。ガビアが嘘の情報を持ってくるかもしれないと彼を雇った当初はハンニバルも懸念した。しかしハンニバルはガビアに監視をつけることをしなかったのだ。

 ガビアを最初から信頼していたのかというとそうではない。これはハンニバルなりの覚悟だ。誰が裏切らないか、寝首をかかれないかと自陣の離反に時間を割く暇はない。そんな時間があるのなら、一つでもローマやカルタゴ元老院の情報を集めべきだ。

 ここで寝首をかかれるなら、ローマを倒すなどただの夢物語ではないか。そうハンニバルは考え、自陣の誰に対しても監視をつけることをやめたのだ。

 

「ガビア、必要ないと私が判断しただけだ」


 ハンニバルは顔をこちらに向けぬままのガビアの背中に向けてそう言った。

 

「そうかいそうかい。やっぱ面白いなあハンニバルさんは。ククク」


 ガビアはそう口にして執務室を出て行った。

 

 ガビアが出ていく姿をじっと眺めていたハンニバルは扉が閉まるとフウと息を吐き、椅子に深く座り込む。

 イベリア五地域の統一が第一段階。そして、これよりマウリタニアとエブロ川以南の制圧が始まる。ここの統治が安定するまでが第二段階……ここまで完了すれば、残りはカルタゴ元老院と対外関係を整理しいよいよローマへ挑むことになるだろう。

 ハンニバルはローマと戦う日を夢想し、体がブルリと振るえる。もちろん恐れからではない、ようやく仇敵と相まみえるという歓喜からだ。此度は負けぬ。待っていろローマよ。

 

 ハンニバルは両手の拳を握りしめると、ゆっくりと立ち上がるのだった。

 その時、扉の向こうから声が響き渡った。

 

「ハンニバル様、マハルバルです。今しがた戻りました!」

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