第29話 マウリタニア分割案

――紀元前225年 タルセッソス カディス

『ハンニバル殿、私は不届きなガリア人の討伐に向かいます。ガリア・キサルピナは広大ですが、ローマ市民のため身を粉にして必ずやこの地を平定してみせます。

 フラミニウス』

 

 ハンニバルはフラミニウスから届いた書簡を手にし空をジッと睨みつける。「過去」と同じようにフラミニウスはイタリア半島北部からアルプス山脈に至る地域――ガリア・キサルピナへ遠征に向かったか。

 ガリア・キサルピナはケルト人……ローマ風に言うとガリア人が居住していた地域だ。ガリア・キサルピナ側へつく勢力は今回も生まれないだろうな。

 というのは、ガリア・キサルピナの北東ラエティアのラエティア人は中立を堅持しているし、東のノリクムはガリア人が支配層であるが、彼らはずっとローマへ協力的な態度を取る。

 ガリア・キサルピナを支援するようラエティアやノリクムへ働きかけたとしても彼らはまず動かない。口惜しいが、ガリア・キサルピナは指をくわえて見ているだけしかできぬか……

 このまま順調に行けばフラミニウスはガリア・キサルピナを制圧するだろう。「過去」のフラミニウスは足掛け二年でこれを達成している。

 

 しかし、バルカ家もようやく動けるだけの体制が整ったのだ。ヒスパニアを中心としたイベリア半島にまたがる五地域はイベリア元老院を頂点に一つにまとまることができた。

 ケルト地域とルシタニアの農業生産量は格段にあがり、ヒスパニアとタルセッソスについても未開発地域を急ピッチで開発していっている。イベリアはバルカ家の策源地として生まれ変わることができた。

 

 軍船に転用できる商船も百隻をこえ、カルタゴ本国やシラクサ、エジプト、憎きローマなどとの交易量も目に見えて増加しイベリアの国力増大へ貢献している。

 人材についても当初よりは補強されている。まだまだ人材不足ではあるが、マーゴとトールは一人前の文官として使えるようになり武官として雇用したオケイオンは、態度こそ気に食わないが思った以上に使える。

 アルキメデスとクテシビオスらの持つスクリューやサイフォンの技術を使い鉱山や水路などに取り入れることで、生産効率の上昇に貢献してくれた。また、赤貧の学者だと聞いていたクテシビオスの発明品である水オルガンはギリシャで人気を博し大きな利益をあげている。

 何故彼が赤貧に陥ったのかハンニバルにはイマイチ理解できなかった。あれほど画期的な商品を販売できるのに、なぜ赤貧に甘んじていたのだろう……彼は疑問に思うものの学者殿は商売を嫌う者も多いと聞く。おそらくクテシビオスもそうなのであろうと結論つけた。

 

 人材について何よりの収穫は――

 

 その時、扉が開くと片手をあげながら男が入って来る。男は最高級品の貝紫で鮮やかに染めた帯を床にズリズリすりつけながら、ドカっと椅子に腰かけ足を投げ出す。

 

――そう、一風変わったこの男……ガビアだ。


「よお、ハンニバルさん。ようやくだな」


「すまんな。呼び出して」


 ガビア海鳥というあだ名からも想像できるように、彼はどのような相手に対しても不遜な態度を取る。まさに海を自由気ままに渡る海鳥というところか。

 しかし、ガビアがいなければイベリアがここまで利益をあげる地域に発展していなかっただろう。彼の政治センス、商人への影響力、情報網は得難い収穫だった。

 

「あー、何がしたいのか分かってる。これから叔父さんのところへ集合するんだろ? あんたたち家族が」


「うむ。その通りだ。これよりイベリアは動く。そのための会議をカルタゴノヴァで行うつもりなのだ」


 ハンニバルはそこで言葉を切り、足を組んだり放り投げたりしているガビアの目を見る。すると、ガビアはヤレヤレと肩を竦め口を開く。

 

「ククク、あんたの想像通りだ。俺はその会議に出席するつもりはねえよ」


「お前ならそう言うだろうと思ってな。お前に私の戦略に対する意見を聞きたい」


 ガビアは要人が集合する場所で話すことを嫌う。いや、そうではないな。いちいち一から十まで説明することを嫌うと言った方がいい。彼は私の知り得る限り最高の頭脳を持つとハンニバルは思っているが、会話する相手にも思考力を求める。

 何も考えず聞いているだけの相手には何も語らないし、説明を促しても「面倒だ」と言ってそれを放棄してしまう。

 そういうところは人間らしく憎めないのだがな……ハンニバルは口元に笑みを浮かべた。

 

「不気味な笑み……何かおもしれえことを考えているんだろうなあ……ククク」


 ガビアはハンニバルの考えていたことなど露知らず、不敵な笑みを浮かべる。

 

「ふむ。ガビア、大きく分けて三つの戦略を実施しようと思う。いや、一つは政略かもしれんが……」


「おう、いよいよだな。政略ってのはローマに目をつけられないようにすることだろ? ガリア・キサルピナを攻めるみたいだし、目は逸れるんじゃねえか?」


「そうとも限らぬ……ローマは……」


 ハンニバルは「過去」の記憶を手繰り寄せる。憎きローマ……奴らはハンニバルがイタリア半島で戦っている最中であっても、マケドニア、イリュリア、シラクサ、そしてイベリアと同時に戦争を行っていた。

 本来なら悪手のはずである五正面作戦であっても奴らは難なく勝利したのだ……ハンニバルはギリっと歯を噛みしめる。

 

「念には念をか。ハンニバルさん、ローマ元老院の情報は任せておきな」


 ハンニバルの表情を見て取ったガビアはクククと笑いながら、手を振る。


「戦略は以前話をしたこともあるが、ヌミディアと手を組みマウリタニアを分割する。もう一つはイベリアから北上し、エブロ川以南をイベリア第六の地域として取り込む」


「予定通りだな。どっちの話からするか……マウリタニアから行くか。ギスコを取り込もうと思うがどうだ?」


「ギスコ殿か……できれば引き入れたい御仁と思っていたのだ」


 カルタゴ元老院はバルカ家を含む有力な四家によって足の引っ張り合いが日常的に起きている。現在バルカ家がカルタゴ元老院と疎遠になっているので、実質三家による争いになっているのだが……

 ギスコ家はこの三家には含まれていないが、それに次ぐ勢力を持つ家なのだった。ギスコ家はバルカ家ほどではないが、武家の名門としてカルタゴ内でも名高い。現当主バオール・ギスコは優れた人物だった。ハンニバルの「過去」でバオール・ギスコはヒスパニアに攻め寄せたローマ軍へマーゴと協力し戦に挑み、幾度か勝利を収めている。

 ハンニバルがイタリア遠征中にバルカ家と協力し防衛に尽力した手腕、そして西部ヌミディアを支配する王へ娘を嫁がせてカルタゴに味方するよう交渉した政治手腕……味方となってくれれば心強い。

 バオールの能力を抜きにしてもギスコ家を味方につけることに利点はある。というのは、ギスコ家の勢力が伸び他の三家に迫ることができれば、停滞したカルタゴ元老院へ風穴を開けることも可能かもしれない。そうでなくとも、バルカ家に味方をしてくれるのであれば、カルタゴ元老院においてバルカ家の大きな力になってくれるかもしれない。

 

「暫くの間バオール・ギスコの動きを見たが、あいつは悪くねえぞ。あんたが引き入れたいといった気持ちは分かる。正直……カルタゴ本国だと奴以外に組める相手はいねえな」


「そうか……やはりカルタゴ元老院も三家も使えぬか」


「盾にもなりゃしねえなあれは。今回の作戦が終わったらカルタゴ元老院をどうするか考えねえとだな。ハンニバルさん、でだな、マウリタニアの話だが、こういうのはどうだ?」


 カビアは嫌らしい笑みを浮かべると、自身の作戦案をハンニバルへ説明する。

 ヌミディアは西部と東部で王が異なり、東部ヌミディアはハンニバルらカルタゴの武官と親しく勇猛なヌミディア傭兵の提供を受けている。一方、西ヌミディアは親ローマ的でカルタゴとは距離を置いている。

 ガビアは西ヌミディアこそ味方につけるべきだと主張する。東ヌミディアは放っておいても協力的であり、ヌミディアの西部にあるマウリタニアの土地を分割してもうまみはそこまで無いだろう。東ヌミディアと協力関係を強化するならば婚姻政策でもとった方がよほどいい。

 西ヌミディアへマウリタニアの分割を提案し、引き換えにバルカ家とギスコ家へ協力するように条件をつける。もし可能なら騎兵の傭兵を提供してもらうとよりよい。

 

 バオール・ギスコへはマウリタニアの分割へ参加してもらい、兵力の拠出を求めない。彼にはカルタゴ元老院でのバルカ家への協力と対ローマ戦争が勃発した場合、カルタゴ元老院ではなくバルカ家に協力するよう約束させる。

 

 分割案だが、南部マウリタニアを西ヌミディアへ、北部マウリタニアのうち東をギスコへ、西をバルカ家へと分ける。

 

 ガビアの案を聞き終えたハンニバルは感心したように声を漏らす。

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