第22話 バレアレス諸島へ

――半年後 タルセッソス カディス

 『フラミニウス殿、私はバレアレス諸島の市民のため、立ち上がる決意をいたしました。カルタゴ元老院は傍観を決め込み、バレアレス諸島の領主どもは好き勝手に市民を虐げています。

 私はそれを放置し、知らぬ振りをすることができません。

 フラミニウス殿もイタリア半島北部へガリア人を討伐しに向かうと聞いています。信奉する国家は違えど市民を愛する気持ちは同じと思っています。お互い、市民の為頑張りましょう。

 

 ハンニバル・バルカより』

 

 ハンニバルはフラミニウスに当てた書簡を書き終え、フウと息をつく。フラミニウスと直接会うことは無かったが、ハンニバルはガビアの伝手を使いフラミニウスと書簡を交わす仲になっていた。

 フラミニウスはハンニバルが思っていた通りの人物で、市民の為という言葉が大好きだった。特に「苦しんでいる市民の解放」という文句を使えば上機嫌で書簡を返して来た。

 

 先ほど書いた書簡もそうだが、ハンニバルはこのやり取りに辟易しつつあった。やはり自分に腹芸は向いていない。とハンニバルは思う。

 ガビアや叔父上にこういったことは任せてしまいたかったが、自らが提案したこと……気が滅入るがやらねばならぬな……ハンニバルは再び大きなため息をつく。


 バルカ家の準備が整うまで、ローマに横やりを入れさせるわけにはいかぬ。その先は策を弄せず正面から叩き潰すことが理想なのだが、ガビアは反対するだろうな……そんなことを考えながらハンニバルは、書簡を丸め蝋で封をする。

 蝋にはバルカ家の象徴グリフォンの絵が描かれていた。グリフォンを見たハンニバルはもし空を飛べれば、海など気にもせずローマを攻めることができるのだが……などと空想に思いを馳せ始めていたが、その時執務室の扉が開く。

 

 現れたのは、高価な貝紫で染めた帯を地にすりつけて歩きながら片手をあげたガビアだった。タルセッソスのカディスにあるハンニバルの執務室へ敬礼もせずに入って来るのは、ガビア以外にいなかった。

 ガビアの態度をいさめようとする者もいるにはいたが、ハンニバルが必要無いといさめる者を止めたこともあり、今では誰もガビアの不遜な態度へ苦言を呈することはなくなった。

 

「よお。ハンニバルさん、また難しい顔してるなあ。若いんだからもっと気楽に行こうぜ」


 ガビアは挨拶をすると、ドカっと椅子に腰かけ足を投げ出した。

 

「ガビア、この書簡を届けてくれ」


 ハンニバルは机の上に先ほど書いた書簡を置くと、ガビアはおっくうそうな態度でそれを懐に入れる。

 

「バレアレス諸島はそろそろ頃合いだぜ。カルタゴ元老院はもう動くことはねえだろう」


「ガビア、本当に成功させてしまうとはな。感服したぞ」


「なあに、俺が出来るのはここまでだぜ? 行くのはハンニバルさん、あんただ」


「うむ。しばらくの間マーゴにここを任せる。ガビア、マーゴの補佐を頼んだぞ」


「あいよ。つっても、もうカディスの民会が上手く動いてるからな。やることはほとんどねえぞ」


「ルシタニアやケルトの様子も知らせてくれ。二か月以内に戻る」


「ハンニバルさんの腕の見せ所って奴だな。頼んだぜ、大将!」


「任せておくがいい」


 ガビアはもう語ることが無いと言った風に立ち上がると、ヒラヒラと手を振り執務室を出て行った。

 

 ハンニバルはこれよりカルタゴノヴァへ移動し、そこで傭兵五百を率いてバレアレス諸島へ渡る予定だ。バレアレス諸島は四人の領主によって差配されているが、そのうち二人の領主が結託し他の領主を各個撃破しようと画策した。

 二人の領主の目論見通り、他の領主を倒すことができたが、バレアレス諸島の市民による反発が起こる。彼らは市民の反発を鎮圧しようと兵を市民へ差し向けた。

 この動きにハンニバルは介入しようとしているのだった。彼は市民側に味方し、領主を撃ち滅ぼすべくバレアレス諸島へ向かう。

 領主の兵は合わせて二百にも満たない。これといった海軍も保持していないため、戦いは陸戦となるだろう。バレアレス諸島の街にはこれといった防壁も無く、籠城戦といえるものも起こらない。それ故、諸島内で一戦交え、打ち滅ぼせばことは済む。

 幸い海戦を行う必要も恐らくないだろうから、ハンニバルが戦闘に関して懸念することは存在しなかった。

 

 

◇◇◇◇



 ハンニバルはカルタゴノヴァへ戻ると、叔父ハストルバルへ挨拶を行い、叔父から激励を受ける。叔父よりトールに戦争を経験させてはどうかと提案を受けると、ハンニバルはそれを快諾しトールをバレアレス諸島へ連れて行くことに決めた。

 ハンニバルはカルタゴノヴァでバルカ家の私兵状態になっている傭兵から五百を抽出し、軍船の準備を行う。

 

 軍船はカルタゴの誇る三段櫂船で、たった十隻しかバルカ家は保持していない。今後軍船の建造を行っていくつもりではあるが、商用にも使う予定のため三段櫂船にも工夫を凝らす予定になっている。

 今ある三段櫂船は典型的な造りになっており、三層に分かれたオールを漕ぐ船体に四角帆を二枚備えたものだった。商用として使う場合にはオールを漕ぐ人員を乗せず、その分荷物を載せる。そのため、風力だけに頼る必要があるから帆を強化しようと考えているというわけだ。

 

 ハンニバルが軍船に乗り込んでいく兵を眺めていると、準備を終えたトールが彼へ敬礼し横に並ぶ。

 

「兄上、お待たせしました」


「トール、突然の出立になりすまなかったな」


「いえ、兄上と共にバレアレス諸島に行けるとは感謝しております」


 ハンニバルは末の弟マーゴと同じく、トールの才能も買っている。マーゴは引っ込み思案な性格が影響してか、何事も慎重に事を運ぶ傾向があった。トールは逆に血気盛んなところがあり、政治でも戦争でも積極策を採用することが多かった記憶がある。

 「過去」のヒスパニアはマーゴとトールの二人の性質が上手くかみ合い、ハンニバルが遠征している間のヒスパニアをよく支えた。一度はスキピオ家が率いるローマ軍を相手どり奴らを退けたのだからな。マーゴとトールは非常に仲が良く、お互いに意見を出し合っていたな……ハンニバルはそう心の中で独白した。

 

「トール、叔父上からそろそろ独り立ちできるほどに成長したと聞いているぞ」


 ハンニバルの誉め言葉にトールは顔を綻ばせながら応じる。

 

「いえ、まだまだ学ぶことの方が多いです」


「あと一年もすれば、お前とマーゴにタルセッソスとバレアレス諸島を任せようと考えているのだ。もしくは……領土拡大へ行ってもらうかもしれぬ」


「兄上、ご期待に沿えるよう誠心誠意尽くします。しかし……兄上は私と二つしか違わないのに、ここまで動いておられて尊敬しております。私も翌年には十八になりますので、独り立ちせねばならぬ歳だと思ってます!」


「うむ。よろしく頼むぞ。残り一年しっかりと学んでくれ」


「はい!」


 二人は三段櫂船に乗り込み、傭兵五百と共にカルタゴノヴァの東にあるバレアレス諸島に向かう。航海中は兵の体力を温存するためオールは使わず、帆の力のみで風の任せるまま船を走らせた。

 道中は天候も良く、事前の予想通りバレアレス諸島の領主軍が船に乗って攻めて来ることもなかったため、あっさりとハンニバルたちはバレアレス諸島へ上陸することに成功したのだった。

 

「トール、下船したら陣地を築き軍議を開こう。手配してくれ」


「はい。了解いたしました!」


 トールは下船するとさっそく、陣地設営の陣頭指揮を取り軍議の準備を始める。

 ハンニバルはトールの様子を横目で見ながら、斥候に情報を集めるよう指示を出した。

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