第10話 アルキメデス

――紀元前237年 シチリア島 シラクサ マハルバル

 僭主ヒエロン二世に許可をもらったマハルバルは、ヒエロン二世の居城から出るとさっそくアルキメデスの家へ向かっていた。昨日アルキメデス本人からだいたいの場所を聞いていたが、マハルバルはシラクサの街を訪れて未だ二日目ということもあり土地勘が全くない。

 その為、道行く人にアルキメデスの家がある方角を聞きながら、彼の家に向かっていたのだが、マハルバルに不安が募る。何故なら……聞く人聞く人がアルキメデスの家を知っている。これは良い。尋ねると答えが帰って来るのは幸運なことだから……しかし、教えてくれる人達の顔が引きつっていたことが気にかかったのだ。

 一人ならたまたまだと思えるが、一人ではなく聞いた者全員がそうだったのだから……

 

 不安を感じながらも、丘の上にある家まで到着したマハルバル。家は他の多くの家と同じで白い漆喰が地中海の光に映えるシラクサらしい家だった。家は普通だ……家は。マハルバルは庭に目をやり眉間に皺を寄せる。

 アルキメデスの家には柵で囲まれた庭があり、三角形や円形に切り取られた木材や石材が転がっている……

 

 ここで立ち止まっていても仕方がないので、マハルバルは庭の外から大きな声でアルキメデスの名を呼ぶ。

 

「アルキメデス殿! マハルバルです!」


 すると、家の中で大きな何かが崩れ落ちる音がしたかと思うと、アルキメデスが扉を開けて外に出て来る。

 

「おお。先日の……」


「はい。ヒエロン様の許可をいただきましたので、こうして貴殿を訪ねて参りました」


「ほう、ほうほう! 私の研究を見に来られたのですな。どうぞどうぞ!」


 また勘違いで暴走し始めたアルキメデスをマハルバルは慌てて手で制し口を開く。

 

「ア、アルキメデス殿、私ではなく我が主が貴殿の研究に興味を持たれているのです」


 「申し訳ありません。ハンニバル様」とマハルバルは心の中でハンニバルに謝罪し、アルキメデスをすんでのところで押しとどめる。

 このまま彼が研究成果とやらを披露し始めたら、話もできないとマハルバルは確信していたから、ここでなんとしても彼を押しとどめねばと割に必死だったのである。

 

「ほう、マハルバルさんのご主人が! なるほど。なるほど!」


 矛先が自身からハンニバルに向いたことでホッと胸を撫でおろすマハルバルはいよいよ本題へ入る。

 

「はい。我が主ハンニバル様はヒスパニアの有力者です。貴殿をヒスパニアのカルタゴノヴァに誘いたいと」


「ふむふむ。ふむむ。それでヒエロンへ許可を求めに行ったというわけかね。しかし、残念残念。私は研究に忙しい」


「我が主は貴殿に研究費と研究施設と家を拠出すると申し出ております。いかがでしょうか?」


「ほう! 君のあるじは私の研究をそこまで。今より研究費は出るのだろうな?」


「それはお約束いたします。研究施設の建築費用も我が主が持ちます」


「ほうほう! そいつはいい! 行かせてもらおうじゃないか。そうと決まればすぐ準備だ。マハルバルさん、すぐだ。すぐ行こうじゃないか」


 マハルバルは自身で誘ったものの、アルキメデスの余りの気の変わりの速さに冷や汗をかいていた。こ、この人が理解できない……マハルバルは額に手をやりながらもなんとか彼に応じる。

 

「アルキメデス殿のお知り合いの研究者にも、もしよければ声をかけて欲しいと主はおっしゃっていました」


「ふむふむ。ムセイオンのベータに声をかけてみるか。あいつは必要ないだろうが、ムセイオンには資金不足の研究者が多数いるはずだからね」


「ムセイオンのベータ殿ですか」


 ムセイオン……マルケルスは名前を知っている程度の知識しか持ち合わせていない。ムセイオンはプトレマイオス朝エジプトの中心都市アレクサンドリアにある有名な図書館である。

 ムセイオンには古今東西の書物が集積され、知の中心地と言われている。また、プトレマイオス朝を治めるファラオは学問を奨励し、アレクサンドリアは多くの学者が研究を行う都市だという。

 それだけでなく現状地中海都市で最大の都市といえば、アレクサンドリアで「アレクサンドリアにない物は雪だけである」と言われているほど繁栄しているという。

 

「マハルバルさん、ベータはあだ名だよ。あいつの名はエラトステネスだったかな……」


 アルキメデスはマハルバルにエラストステネスについて簡単に説明し始める。アレクサンドリアにある大図書館ムセイオンの館長を務めるエラストテネスはファラオからの覚えもめでたく、一流の学者として名を馳せている。

 十年ほど前に天球儀という世界を中心に天体の動きを表した模型を作ったり、世界の長さを計測したりしたそうだ。そうした実績から過去の偉人プラトンになぞらえ「第二のプラトン」とあだ名されるようになった。

 ベータというのはギリシャ語でアルファベットの二番目ということで、彼のあだ名がベータで定着したとアルキメデスは言う。

 

「なるほど。勉強になります」


「ほうほう。それは良かった。あいつに声をかけておけば、研究費に困った誰かが来るだろう」


「ありがとうございます」


 マハルバルはここに来てハンニバルのある言葉を思い出していた。

 

――役に立たなくても良いのだ。マハルバル。


 我が主の意図はアルキメデスの人脈だったのだ。少なくともアルキメデスは学者として高い地位にあるムセイオンの館長エラストステネスと友垣の仲だという。

 彼をきっかけにプトレマイオス朝エジプトのファラオと渡りをつけることも不可能ではないし、アルキメデスの知り合いの知り合いと輪が広がることで、カルタゴノヴァに招へいした学者の中で役に立つ道具を作れる者が現れるかもしれない。

 場合によっては優れた政治の才を持つ者まで集めることができるかもしれないのか……もっともアルキメデスが役に立つのが一番なのであるが……マハルバルは思考を巡らせ、ようやく主人の言っていた言葉の意味が分かり安堵していた。

 

 マハルバルが考え事をしている間にアルキメデスはいつの間にか家の中に入ると、またしても家の中で大きな音がする。

 扉が開き、アルキメデスが出て来ると、何やら大人の男くらいの背の高さがある木製の筒を彼が抱えていた。筒は太さもマハルバルの腕でも手が回らないほど太い……

 

「アルキメデス殿、なんでしょうか、その巨大な筒は……」


 あっけにとられたマハルバルが問うとアルキメデスはいい笑顔で彼に答える。

 

「これかね。これは……スクリューだよ。こればっかりは職人に口頭で伝えるより実物を見せた方がいいと思ってね」


「そ、それを持っていくのですか?」


「もちろんだとも。こいつは素晴らしいぞ!」


 アルキメデスは自身の研究成果を熱く語り始めようとしたので、マハルバルは慌てて話題をそらそうと口を挟む。

 

「わ、分かりました。持っていきましょう」


「ほう。ほうほう! 説明をしていないのにこの研究の素晴らしさが分かるとは。マハルバルさんもなかなかやりますな!」


 分かってないからと突っ込みを入れようか迷ったマハルバルであったが、結局無言のまま、アルキメデスの抱えた大きな筒を持つことを手伝い、シラクサの港へと向かう。

 この筒を見たハンニバルが褒めたたえることをマハルバルはまだ知らない。


※当時の地図になります。

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