第8話 ルシタニア遠征
――紀元前237年 ルシタニア ハンニバル軍
ルシタニアとカルタゴの関係が始まったのは存外に歴史が長い。カルタゴの起源であるフェニキア人はカルタゴ、カディスの植民都市を建築した後、イベリア半島西岸をさらに北上しルシタニア族の勢力圏に港町リスボアを建築する。
幾度かの戦争の後、リスボアにいたフェニキア人達は駆逐されリスボアは廃墟になる。これをきっかけにしてルシタニアと接するイベリア半島南部のタルセッソスは抗争を始め、過去には戦争になることもあった。
ポエニ戦争前にも小競り合いが続いており、ハンニバルがルシタニアを狙うのは、国力の増強だけが理由ではなくタルセッソスの安定も兼ねてのことだった。
ハンニバル軍はルシタニアに侵入するとゆっくりとした速度で海岸沿いに北上していく。三日を過ぎる頃、ルシタニア族の斥候にハンニバル軍は発見される。さらに二日が過ぎる頃、ハンニバルが放っていた斥候がルシタニア軍を発見したと情報を持って帰って来た。
ルシタニアはハンニバル軍の数が一万だと知るや、対抗する軍団を部族の中からかき集め同じく一万程度の軍団を形成したとハンニバルが放った斥候は告げる。
ルシタニア軍の情報を得たハンニバルは自軍との距離を逐一報告するようにと、斥候を多めにルシタニア軍へ向けて放つ。それと同時に周囲の地形を報告させるべく多数の斥候をルシタニア軍の偵察とは別口で派遣する。
その日の野営中、ハンニバルは弟のマーゴを呼び、対ルシタニア戦について話をすすめていた。
「マーゴ。斥候こそ戦いの
ハンニバルの言葉にマーゴは兄が多数の斥候を放っていたことを思い出す。兄は敵情だけではなく、周辺の地形まで事細かに調べていたはず……
「兄上、敵の陣容と周辺地形の調査、どちらも大切なことは分かりますが、時間が限られている場合はどちらを調べるべきなのでしょう?」
マーゴにも万全の体勢を持って敵に挑むことの必要性は心得ているが、そうも言っていられないのが戦場だ。時間が限られた中で敵を迎え討たねばならぬ場合はどうすればいいのか、兄の意見を聞きたいと彼は思う。
「ふむ。いい質問だ。マーゴ。まず敵と戦うにあたって、戦場の選定は非常に重要なことは分かるか?」
「はい。こちらが戦いやすい地形を選定し、そこへ敵を誘導することは戦いの大きな要素だと心得ております」
「よく勉強しておるな。我が父ハミルカルもそのことは口煩く何度も言っていたものだ……」
「私も何度父に言われたことか……」
二人は顔を見合わせ、懐かしき父の顔を思い出し笑い合う。
「野戦においては敵情が分からぬうちは優位な地形から動くべきではないな。地形か敵情かどちらかしか知りえない状況……お前ならばどうする?」
「ええと……」
マーゴは自身が質問したことをハンニバルから問いかけられ口ごもる。
真剣に考えを巡らせるマーゴの頭へハンニバルは大きな手をやり、彼の頭を数度撫でると
「その時は安全な位置まで逃げろ。戦うだけが戦争ではない」
「逃げるのですか?」
「うむ。逃げることは恥ではない。引くべきところで引けぬ者は大きな痛手を受けるだろう」
ハンニバルは「過去」の戦場での経験からハッキリとマーゴに伝える。ハンニバルの「過去」において、マーゴはカルタゴノヴァの防衛に尽力してくれた。彼は一度ローマを退けるが、あの憎き蛇のような顔をした英雄――スキピオ・アフリカヌスの襲撃を受け、カルタゴノヴァの軍は壊滅してしまった。
勝てぬと判断したのならば、逃げるべきなのだ。ハンニバルは自分自身もそのことに気が付くまで相当な時間がかかった。勝てる見込みがないのならば、転戦し好機を狙う判断も必要なのだ……
「逃げることは恥ではないですか……覚えておきます」
マーゴは深く頷き、再び「恥ではない」と呟く。
ハンニバルがマーゴへ次の言葉を投げかけようとした時、斥候が戻ってきたらしく腹心のカドモスが彼の元へ駆けてきた。
「ハンニバル様、お休みのところ申し訳ありません」
カドモスは膝をつき一礼するが、ハンニバルは片手をあげ彼に言葉を促す。
「カドモス、斥候が戻ったのだな?」
「はい。敵兵はおおよそ軽歩兵六千、騎兵四千と報告があがっております。奴らは集合し我々へ接近中とのことです」
「ふむ。奴らとこちらの距離はどれほどだ?」
「一両日中には激突する距離にあります。中間地点は見通しの良い平原ですが、いかがなされますか?」
「丁度良い。奴らにこちらの力を見せる必要もある。伏兵を使わず正面から打ち倒すか」
「了解いたしました!」
「カドモス、指揮官を集めてくれ、軍議を行う」
「御心のままに」
カドモスは立ち上がりハンニバルへ一礼すると、踵を返し軍団の中へと消えて行った。
ハンニバルは傍付の者へ軍議の準備を行うよう告げると、マーゴへ向き直る。
「マーゴ、お前も軍議に出ると良い。意見があれば遠慮なく発言するように」
「分かりました。兄上のお心遣い感謝いたします」
マーゴは初めての本格的な軍議へ出席できることへ頬を紅潮させる。タルセッソスの戦では軍議らしき軍議は執り行われなかった。というのは、敵兵が少ないことと、戦争目的が敵の威嚇にあったため軍議で意見を交わすほどの戦ではなかったからだ。
この後、たき火を取り囲んで集合した指揮官らとハンニバルらは意見を出し合い、ルシタニア軍へ対する作戦を決定する。
◇◇◇◇◇
――二日後 とある平原
ひざ下くらいの高さがある雑草が辺り一面に繁茂し、背の低い木がまばらにある見通しのよい平原にハンニバル軍とルシタニア軍は対峙していた。
ハンニバル軍は軽装歩兵四千に騎兵が六千。弓なりの陣形を構築し、左翼と右翼に半分に分けた騎兵、中央に軽歩兵を配置している。右翼の騎兵はヌミディア騎兵だけで構成されており、彼らを率いるのはハンニバルの腹心カドモス。
左翼のカルタゴ騎兵を率いるのはキリクスという三十代半ばほどの歴戦のカルタゴ人で、中央の歩兵を率いるのがハンニバルであった。
一方のルシタニア軍は斥候の持ち帰った情報の通り、軽歩兵五千に騎兵五千。彼らはハンニバル軍の陣形を見て取り、同じように軍を配置した。両翼の騎兵の数は劣るものの中央はハンニバル軍より厚くなる。
どちらの軍も歩兵は軽装で、槍と盾を持ち、弓を背に抱えていた。軽装故に移動速度は速いが、重装歩兵と違い敵を圧迫して押しつぶすような戦い方はできない。
「さて、マーゴ。いよいよ決戦が始まる。数は互角、こうなると戦術次第で戦況はガラリと変わるのだ」
馬上のハンニバルは馬を隣に寄せたマーゴに語り掛ける。
「はい。兵種から騎兵の活躍が肝になるのですよね」
「うむ。そうだ」
マーゴは革鎧に槍を持つ自軍の歩兵に目をやり、軽装歩兵と大きな盾で身を護った重装歩兵の違いについて自身の記憶を辿る。
軽装歩兵は動きが素早く、敵を囲い込んだり、戦況によって柔軟に動かすことができる。一番のメリットは形成不利な場合に逃げやすいということだ。しかし、騎兵の衝突を防ぐことが難しく、騎兵の突撃を受けると陣形が崩壊することもある。
一方、重装歩兵は動きが鈍い代わりに、騎兵の突進を受け止めることができるし、高い防御力を持って敵を圧迫しすり潰すことができる。その分、最初に決めた位置取りから動かすことが難しい。
どちらも一長一短あるが、大事なのは自身の兵種と敵の兵種を見極め、優位な戦術を構築すること……マーゴが学んだことを思い出していると、兵が慌ただしく動き始める。
「行くぞ! 勇壮な兵たちよ! バールに栄光あれ!」
ハンニバルの気合の入った良く通る声が響き渡ると、兵士たちがそれに応えるようにバルカ家の象徴であるグリフォンの旗を振るい、
「バールに栄光あれ!」
「カルタゴに勝利を!」
怒号が鳴りやまぬうちに、両翼の騎兵は敵軍両翼に向けて走り出す。
※当時の地図になります。
http://img1.mitemin.net/59/6x/4d06aacj8vi84sxhlzb930qxa42k_1813_sg_ee_2che.png
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