第7話 シラクサ
――紀元前237年 シチリア島 シラクサ マハルバル
ハンニバルがタルセッソスを攻略している頃、マハルバルはシチリア島南東にあるシラクサを訪れていた。彼の目的はアルキメデスの招聘……。敬愛する主人が授けてくれた策に従い行動しなければと考えながら、彼はシラクサの港から街の様子を眺める。
マハルバルはハンニバルから聞かされたシチリア島とシラクサを治めるヒエロン二世のことを思い出しながら今晩の宿を探す。
シチリア島のシラクサは僭主ヒエロン二世が治める街になる。シチリア島はポエニ戦争開始前から島内の勢力争いが絶えず、ヒエロン二世も他の例に漏れず激しく島内の覇権を争った。
ヒエロン二世はポエニ戦争でカルタゴに味方しローマに破れて領土を一部失い、彼の治める領土はシチリア島の東側の一部地域にまで狭くなってしまった。それ以降、ヒエロン二世は親ローマ的な政策を取り続けている。
我が主君はおっしゃっていた。ヒエロン二世が心からローマに従っているわけではないと。マハルバルも主君と同じ気持ちである。彼は内心ローマが憎くて仕方ないはずだ……敗れ、領土を失い、親ローマ政策を取り続けるのがどれほどの屈辱か……マハルバルはヒエロン二世のことを考えると容易に彼の気持ちに想像がついた。
マハルバルが考え事をしながら歩いていると、風景は街中に進んで行く。
白いレンガで作られた石畳の道の左右には港町らしく白い漆喰でつくられた家が立ち並ぶ。彼は宿はどこかと目を凝らしていると、向かいから異様な姿をした男が何やら叫びながらこちらに歩いて来る……
「
向かって来る男は五十歳くらいの男で、髪の毛は伸びっぱなし、髭の手入れもしておらず一見したところ路上生活者にも見える。マハルバルが異常と思ったのは彼の髪や髭ではない。彼の姿だ……
何しろ彼は衣服を何ら着ることがなく、
マハルバルは素っ裸の男から目を離さぬまま、周囲の様子に耳を傾ける。
「あちゃー、また裸で走り回ってるよ。アルキメデスさん……」
「あの人は何か『発見』があると、何をしているのか忘れてしまうみたいですからねえ」
「風呂で考え事をしなきゃいいのにな……」
ま、まさか……あの裸の男がアルキメデスというのか……マハルバルは秀麗な顔の額に手を当て、眉間に皺を寄せる。先に彼と接触すべきか、それとも僭主ヒエロン二世に面会を行うか……マハルバルはどちらにするか少し考えたが、せっかく目の前に目的の人物がいるのだから接触しておこうと決める。
内心ではハンニバル様の頼みでなければ、このような男の傍にも寄りたくないと思いながらではあったが。
マハルバルはカラスのような黒い長髪をなびかせ、悠然と歩を進めると裸の男――アルキメデスを呼び止める。
「アルキメデス殿とお見受けいたしましたが……」
「
マハルバルから声をかけられると、正気に戻った? のかアルキメデスはマハルバルに応じた。
マハルバルはまともに言葉が通じたことに安堵すると、背筋を伸ばし自己紹介する。
「私はマハルバルと申します。貴殿の名声をお聞きし、声をかけた次第です」
「ほうほう。シラクサへようこそ。マハルバルさん」
「明日朝一番に僭主ヒエロン様に謁見を考えております。その後にお会いできれば嬉しいのですが……」
「ほう! 私の研究に興味があるのかね! それは素晴らしい! 私の家はすぐそこだ。なんなら泊って行くかね?」
突然、テンションが上がりだしたアルキメデスにマハルバルは苦笑いを浮かべ曖昧に頷きを返しつつ、答える。
「せっかくのお誘いなのですが、ヒエロン様にご許可をいただきませんと……アルキメデス殿はシラクサの宝と聞いておりますから」
「ほう! ほうほう! 私の研究がかね! シラクサでは余り相手にされていない気がするのだがね。やはり分かる者には分かるということか!」
うんうんとアルキメデスは何度も頷き満足そうな表情を浮かべているが、マハルバルは彼が裸であることが気になって仕方なかった……もう一つ少しだけ気になっていたことは、「研究」とは一言も発言していないのに、アルキメデスが勝手にマハルバルが研究に興味があると思い込んでいるところだ……
マハルバルはアルキメデスと別れ、近くの酒場と宿が一体になっている店に入り、宿泊の手続きを済ませると酒場で一杯やることにした。
その席で耳をそばだてていると、様々な噂話が聞こえて来る。
アルキメデスの変人さ、奇抜さを語る声ももちろん聞こえてきたが、マハルバルが気になったのはとあるローマ人の噂であった。その名前はハンニバルより数年先になるかもしれないが、一度会談してみたいと言っていた人物名だったので聞き耳を立てるマハルバルに力が入る。
ハンニバルより聞かされたローマ人の名は――
――ガイウス・フラミニウスという。
酒場の噂話を聞く限り、ガイウス・フラミニウスは翌年……紀元前227年にシチリア属州総督としてこの島に派遣されてくるらしい。シチリア島は僭主ヒエロン二世が統治するここシラクサを含む東岸地域を除き、大半の領域はローマ属州なのだ。
ローマ本国ではなく、シチリア島に来るとあれば彼と接触可能かもしれない……マハルバルは心に彼の動向を刻み込む。
◇◇◇◇◇
――翌朝
マハルバルは僭主ヒエロン二世に謁見の依頼を行うと幸運なことに、すぐに会ってくれると門番より返答が来た。使いの者に導かれ、ヒエロン二世の謁見の間に案内されたマハルバルは膝を地につけ、ヒエロン二世の登場を待つ。
待つこと数十秒でヒエロン二世は謁見の間に現れ、
「ハンニバル殿の使者と聞いたが、何用か?」
「ハッ! 恐れながら我が主ハンニバル様よりヒエロン様へ書状を預かってまいりました」
マハルバルは膝をつけた姿勢のまま、ハンニバルより預かった巻物状の書状を掲げると、ヒエロン二世のおつきの者が書状を受け取り、彼の元へと運ぶ。
巻物の封を切り、中身を確認したヒエロン二世は眉間に皺を寄せていたが、やがて口元にニヤリと笑みを浮かべると、おつきの者へ小声で何やら囁く。
すると、別の配下の者が火の燃え盛った松明を手に持ち謁見の間にやって来る。ヒエロン二世は書状を丸めると、松明を持った部下にそれを手渡す。するとあろうことか、書状は松明にくべられると燃え上がった。
「さて、使者殿。アルキメデスの件だが、連れて行くがいい。奴を手切れとする件しかと承った」
「お心使い感謝いたします」
「……使者殿。ハンニバル殿の書状……儂はしかと承ったと伝えてくれい」
「ハッ! 必ずやお伝えいたします」
マハルバルはヒエロン二世の言った「手切れ」という言葉の意味について考えを巡らせる。
カルタゴと僭主ヒエロン二世は先のポエニ戦争で同盟関係だった。カルタゴがポエニ戦争でローマに敗れ、同じくヒエロン二世も敗北した。その結果、ヒエロン二世は親ローマに路線を切り替えたが、カルタゴとの同盟関係は失効していない。
言葉通りに受け取ると、ローマとの関係を重視するのでアルキメデスを手切れとして持っていけと言っているように聞こえる。きっとローマにはそのように喧伝するのだろう。だからわざわざこの場で「手切れ」と言ったのだ。
しかし真意は異なるのだろうとマハルバルは確信する。我が主君ハンニバル様の書状に何らかのシナリオがあったのだ……だからこそ、「しかと承った」とヒエロン様は述べたのだろう。
マハルバルは深々と礼をすると、ヒエロン二世の謁見の間から退出する。彼の足はアルキメデスの邸宅に向いていたのだった。
※当時の地図になります。
http://img1.mitemin.net/59/6x/4d06aacj8vi84sxhlzb930qxa42k_1813_sg_ee_2che.png
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