第5話 それぞれの旅立ち
――五週間後 ヒスパニア カルタゴノヴァ
傭兵が集まり総勢一万五千となった兵たちと共に訓練に励むハンニバルたちであったが、その日は昼までの訓練を終えるとハンニバルは信頼する司令官カドモスへ訓練を任せカルタゴノヴァの港へ向かっていた。
海洋国家カルタゴの街らしく、カルタゴノヴァの港は船が接弦し荷下ろしがしやすいよう、石畳で港湾を整備し港としていた。ハンニバルの目的はここへ商いにやってくる商人たちで、彼と懇意にしている商人も多数にのぼる。
ハンニバルが港につくと、ちょうど他の船よりひときわ大きなガレー船からタルのような腹をした巨漢が降りて来た。彼は頭がU字型に禿げ上がり、顎鬚を蓄えた中年の男で海を渡る商人らしく肌は小麦色に日焼けしていた。
男はハンニバルの姿を見とめると、短い足を素早く動かして彼の元に一息に駆けてきた。太ってはいるが、少し走った程度では男の息は乱れていなかった。
「ハンニバル様、お待ちいただかなくてもお伺いいたしましたのに」
巨漢の男はハンニバルに頭を下げ恐縮した様子で彼に声をかける。
「ちょうど訓練が一息ついたのだ。たまたまそこにお前が降りて来たのだよ。気にすることではない」
ハンニバルが
「タルセッソスの様子はどうだった? 分かることがあれば教えてくれぬか?」
「はい。私が商いに行った限りですが、相変わらずまとまりを欠いています。ローマ派、独立派、カルタゴ派の三つに分裂しておりました」
「ふむ。後で詳しく聞かせてくれ。今晩、我が邸宅で宴を開こう」
「直々のお誘いありがとうございます!」
「仕入れに必要なものがあれば言ってくれ」
「いつもありがとうございます」
「いや、お互い様だ。私も作った物や作物が売れる。お前も買いたい物が買えるというわけだ」
「いえいえ、なかなかどうして、ハンニバル様のように我々の意見を取り入れてくださる領主様はいらっしゃらないのですよ」
カルタゴ商人の間ではハンニバルの評判が悪く無い。彼は商人に意見を求めるし、頭ごなしに物を買えと言っては来ない。領主によっては無理やり買わされることだってあるのだから。
ローマも自由に仕入れができる点においては、カルタゴ商人の間で悪い評価ではないのだが……酷いのはギリシャのいくつかのポリスや話に出たタルセッソスのいくつかの街であった。
ハンニバルの情報源の一つは巨漢の男のような海から海へ渡り交易をしている商人たちであった。彼にとって商人たちは商売の相手であると共に情報源になってくれる重要な存在で、出来る限り懇意にしておくべき相手だとハンニバルは考えていた。
情報量によっては、もっと優遇してもいいとさえハンニバルは思っている。いずれ戦争状態になった時、敵国へ行ってくれる商人はますます重要な存在になるだろうからな……ハンニバルは心の中でそう呟いたのだった。
◇◇◇◇◇
ハンニバルが巨漢の男と会ってから一週間が過ぎた。ハンニバルは一万五千の兵を率い明日いよいよ遠征に繰り出す。目的地はイベリア半島南部のタルセッソス。混乱するこの地域を一息に平らげるべく兵を進める予定なのだ。
タルセッソスは今でもカルタゴ領であることは確かで、中心都市カディルは都市カルタゴとそう違わない時期にフェニキア人によって建築された都市だ。西地中海に住むフェニキア人がカルタゴを自称するようになってからもカディルを含むタルセッソスはカルタゴ領になっている。
話を戻すと、ハンニバルたちは明日に遠征を控えた早朝、ハンニバルとマハルバルはカルタゴノヴァの港に来ている。
マハルバルはこれよりシラクサに向かう。ハンニバルが先日依頼したアルキメデスを連れて来るためだ。
「マハルバル。よろしく頼む」
ハンニバルはマハルバルの肩を叩くと、彼を激励する。
「ハンニバル様もご武運を!」
マハルバルは敬礼しハンニバルへ応じると、ハンニバルは
「任せておけ、お前が戻る頃にはタルセッソスがバルカ家のものになっているだろう」
とマハルバルへ言葉を返す。
「私も必ずやアルキメデス殿を連れて帰ってまいります!」
マハルバルは踵を返すと、横づけされた二十人程度が乗船できる小型のガレー船の桟橋へと向かう。
ハンニバルはマハルバルの様子をそのまま眺め、彼が船に乗ったことを確認すると片手をあげ彼に軽く手を振った。
ハンニバルの記憶する「過去」において、シラクサはローマの攻撃を受けアルキメデスも戦争の結果倒れてしまった。シラクサはカルタゴに協力していたため、ローマに攻め落とされたわけであるが、その時にアルキメデスを救出することは難しいだろうとハンニバルは思う。
シラクサに援軍を送りローマ軍を跳ね返せるかどうかも考慮したのだが、相手が悪い……シラクサを攻めたのはあの「ローマの剣」なのだからな……奴こそは私の一番の好敵手に違いないのだから……ハンニバルは独白し、邸宅へと戻って行く。
一方ガレー船に乗ったマハルバルは懐に収めた書状の様子を確認し、水平線の彼方を眩しそうに見つめる。太陽の光が波に反射しキラキラと輝いているため、マハルバルは少し眩しさを感じたが、この光はカルタゴの未来を照らす光だと何故か彼はそう思い、目を細め口元に笑みを称える。
シラクサのアルキメデスは学者だとマハルバルは聞いている。学者が戦争や政治の役に立つのか疑問に感じたマハルバルは敬愛する主君に尋ねてみたが、主君の回答は良く分からないものだった。
――役に立たなくても良いのだ。マハルバル。
その時、主君はいつもの精悍な笑みを口元にたたえ、マハルバルの肩を叩いたのだった。
「役に立たなくてもよい」と主君はおっしゃったが、マハルバルも自分なりに無い知恵を絞り、言葉の意味をしばらく考えたのだが、やはり彼には「役に立たなくてもいい」理由が思い浮かばなかった。
一つだけ確信していることは、アルキメデスを手元に置くだけでバルカ家にとって、もしくはカルタゴにとって有益になる事柄があるのだろう。わざわざ書状を持たせてアルキメデスを誘いに行くのだ。
そこまでの価値をシラクサの学者は持っているということだろう。
マハルバルはそう結論し、これ以上アルキメデスが「役に立たなくてもいい」理由を考えることを止めた。自身はただアルキメデスを連れ帰ればいい。ただそれだけだと。
明日からハンニバルによるタルセッソスの遠征が始まり、マハルバルはアルキメデスを求め旅に出た。
ハンニバルの体験した「過去」とこれから起こる「未来」はこの時をもって分かたれる。
果たして「未来」はカルタゴに福音をもたらすのだろうか。この時はまだ誰にもそれは分からない。
※当時の地図になります。
http://img1.mitemin.net/59/6x/4d06aacj8vi84sxhlzb930qxa42k_1813_sg_ee_2che.png
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