「三日目」

 目を覚ます。体を起こす。ぼんやりと動き出す。

いつもとは違う景色に一瞬首を捻った後まだ眠っている親友を見つけて、葉月の

家に泊まったんだったと思い当たった。

彼女を起こさないようにそろそろと洗面所に向かい、冷たい水で顔を洗う。

軽く寝癖のついた髪をとかしていると、ふと自分の頬に涙の跡が残っていることに気がついた。指先でそっと触れた途端、自分を取り巻く世界がぴしゃりと音を立てて閉ざされたような、言い様のない孤独を感じて。

恐れていたそれに直面したわけでもないというのに。

この耳にはもう、誰の声も届かないのだと。

有無を言わさず信じさせられてしまうような根拠のない確信が、何故だか頭に

こびりついて離れない。

冷酷なほどの静けさの中で私は、乾いた声で笑うことしか出来なかった。


 階段を降りる足音が聞こえて、陽輝がリビングに出てきた。

「おはよう。」

「――、――――!」

声をかけつつも身構えた私に返ってきたのは、案の定あの空白で。

―嫌だ、嫌だよ。

そんな顔で、笑わないで。

貴方に笑顔を向けられて、この想いを抑えられるわけがないじゃないか。

「――――?」

首を傾げて私を覗き込む優しい眼差しに、心が限界を叫ぶ。

瞼の裏で張り詰めていた糸がぷつんと切れたように。

嗚咽とともに溢れた涙は、どうやら止まることを知らないみたいだ。

―あれ、私、何で泣いてるんだっけ?

知っていた、いつかこうなってしまうことを。

分かっていた、それが避けられない未来であると。

もう誰の声も聴こえないと確信したばかりだというのに。

―どうして、どうしてこんなにも悲しいんだろうか。

 

 それは、とても単純で。

ただ、陽輝の声が好きだったんだ。

ただ、陽輝の声が聴こえなくことなどないと、信じていただけなんだ。

何の根拠もないまま、幼い子どものように真っ直ぐに。

大丈夫、大丈夫。

家族の声が聴こえなくなっても、親友の声が聴こえなくなっても。

陽輝の声は、きっとまだ届くから。

それさえ信じていれば、きっと救われるから。

盲目的なまでに自分に幾度も言い聞かせていたそれは。

恐ろしいほどに不確かな、唯一の希望だったんだ。


 突然泣き出した私に取り乱していた陽輝は、何かに思い当たったようにスマホを手に取った。ぴこんと私のポケットの中で端末が振動する。

心なしかいつもよりも暗い画面に表示されたのは、私の状況を言い表す一言。

『俺の声、聴こえなくなっちゃった?』

返信をしようとするけれど小さく震える指では上手く文字を打つことができず、

仕方なく首を縦に振る。

『落ち着いて、風花。俺は風花の声、聴こえてるから。

 ゆっくりで良いから、喋ってみて。』

顔を上げると、柔らかく笑む好きな人がいて。

ふっと深呼吸をひとつして、私は口を開いた。

「陽輝、陽輝の声も、聴こえないよ、」

ああ、言葉にしてみると何て悲しい響きだろう。

片想いの相手の、大好きな声まで届かなくなるなんて。

 

 頭がぼんやりとしてくるまで、私は泣き続けた。

陽輝はその間ずっと、ぎこちない手つきで背中をさすってくれていた。


 『朝ご飯できたよ。』

通知に気がついてスマホを見ると、もう八時を回っていた。葉月の家と学校の距離を考えると今から準備しても到底間に合わない時間だけれど、幸い今日は土曜日。

またあの孤独に襲われずに済むことに、とりあえずは安堵する。

「葉月、おはよう。朝ご飯、ありがとね。」

『どういたしまして。今日は特に用事もないし、うちにいるといいよ。』

彼女の両親は旅行に行っていて、帰ってくるのは今日の夜だという。

しっかり者の親友が一緒にいてくれることはこの上なく心強かった。

「ありがと、そうさせてもらうね。あ、片付けは私がやるよ。」

そう笑いながらも、脳裏ではひっきりなしに思考が渦巻く。

―ああ、どうしようか。

自分の身に起きていることの原因も分からなければ、これといった解決策がある

わけでもない。ついに誰の声も聴こえなくなってしまった孤独と闘うには、私の

心はあまりに弱すぎるんだ。


 三十分後私はスマホで、葉月はパソコンで、それぞれインターネットを読み

漁っていた。私に起きている異変について、何か手がかりはないか、調べているのだ。陽輝も部活を休んで手伝うと言ってくれたけれど、それはさすがに

申し訳なくて葉月と二人、必死に説得した。

―サッカーを頑張る陽輝が、私は好きなんだよ。

そんな恥ずかしいことは言えないながらも何とか陽輝を送り出し、親友と二人きりになった部屋で、ふっと息をつく。

葉月はもともと口数の少ない方なので、沈黙が流れることは普段でも珍しくない。

それは苦ではなくて、むしろ心地良いものなのだけれど。

でも今この部屋を満たす静けさは、ささくれ立った感情を逆撫でする類のものだ。

世界にたった独りで立っているかのような、孤独な沈黙。

無機質な音しか流れないこの空間は、ただ不安を煽るだけだった。

そんな空白の中に一つ、通知音が投げられる。葉月からのメッセージだった。

『風花、昨日までは山内の声、聴こえてたんだよね?』

話しても頷いても良いのだけれど、何となくメッセージを返す。

『うん。』

『風花のそれ、解決できるの、山内なんじゃないかなって思う。』

肯定されることを見透かしていたように、間髪入れず返信されたそれに思わず葉月の顔を見る。

『風花は、山内のこと好きでしょ。最後まで声が聴こえてたのは、それだけ特別な

存在だったから、じゃない?』

『そう、なのかな。』

画面上で会話しながらも、まるで実際に声を交わしているみたいに。

『だから、思うんだけど。』

葉月の目が、真っ直ぐに光った。

『何とかして山内の声さえ聴ければ、なおるんじゃないかって。』


 それから、私たちは陽輝の声を聴く手段を探して検索を続けた。

午後二時過ぎに部活を終えて帰ってきた陽輝も手伝ってくれたけれど、有力な情報は得られないまま時間だけが過ぎて行った。

途方に暮れていた私の耳が微かな電子音を拾ったのは、部屋に西日が射し始めた頃のことだった。どうやら陽輝の携帯の着信を知らせる音だったらしい。

廊下で電話に応じ戻ってきた彼が何気なく言葉を落とす。

「―――――――、――――――――――。」

『そういえば風花、着信音聴こえるんだな。』

聴こえず顔をこわばらせた私にメッセージで伝えてくれた葉月が、何かを思いついたようにぱちりと目を瞬かせた。

「――――、――――――――――――?」

『ああ何で、気がつかなかったんだろう?』

「――、―――――――。」

『山内、風花に電話して。』

 

 葉月は言った。

電話で聞こえるのは肉声ではない。

あくまでもそっくりに造られた機械音なのだと。

そして風花が聴こえないのは「声」。着信音などの「音」は聞こえている。

だから。

電話でなら、会話ができるんじゃないかって。


 葉月とともにリビングにいる陽輝からの着信に、肩がびくりと跳ね上がった。

―どうしよう、恐い。

もしも、電話でも会話ができなかったら?

話せたとして、じゃあその先は?

みんなの声が、ずっと聴こえないままだったら?

後ろ向きな考えばかりが脳裏を掠めて、指先が震えるけれど、それでも。

―信じるしか、ないよね。

四コール目で覚悟を決め、電話に出る。

『はい。』

『もしもし、風花?』

聞こえたのは、陽輝の声だった。

合成音だろうと何だろうと、聴こえたのは間違いなく好きな人の声だった。

『…聴こえる?』

『う、ん、聴こえるよ、陽輝の声、』

輝く粒子に満たされたように、世界の色が変わった。

閉塞感と孤独で覆われていた景色に、光が射しこんだような感覚さえ覚えた。

『絶対タイミング違うし場違いだと思うんだけど、今言わなきゃいけない気がすること、言ってもいいか?』

『うん。何?』

『俺、風花が好き。』


 そう、まるで。

深い暗闇で、一筋の光を探すように。

砂漠の真ん中で、喉を潤す水に手を伸ばすように。

水中でもがきながら、酸素を求めるように。

無機質な音だけが残されたこの世界で、私の心が望んだのは。

―貴方の声と、その言葉だったんだ。


 その言葉を聴いた途端、私の耳に暖かい「声」が流れ込んできた。

ドアの陰には、涙を拭う葉月がいて。

親友が零した、良かったという呟きに頬を暖かな雫が伝う。

顔を上げればいつの間にか、陽輝が目の前にいて。

「風花が好きだ。」

今度は肉声で告げられたその言葉に、私は不器用な泣き笑いで返す。

「私も、陽輝が好き。」


 あの三日間は、何だったのだろうか。

あとから思い返せば、ほんの偶然だったのかもしれない。

もしかしたら、本当に病気だったのかもだったのかもしれない。

或いは私たちの背中を押すための、神様の悪戯だったのかもしれない。

何も、分からないままだけれど。

―それでも、良いよね。


 もしも、大切な人の声が聴こえなくなってしまったら。

溢れるほどのこの想いを抱え続けることは、私にはできなくて。

手紙、メール、SNS、いくらでも話はできるのかもしれないけれど。

でも、やっぱり。

大好きなその声で好きって言ってもらえることが、何よりも幸せだから。








 

 

 

 

 




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声の消えたこの世界で 藤璃 @sui-touri

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