「二日目」
目を覚ます。体を起こす。ぼんやりと動き出す。
いつも通りであることを願った、そんな朝がやってきた。
支度を済ませ、リビングのドアを開ける。
食卓に並んでいるのは、トースト、ハムエッグ、サラダにコーヒー。
昨日と同じような朝食を見て、ふっと肩の力が抜けた。良かった、今日もきっと
いつも通りだ、って。
「おはよ、お母さん。」
それなのに。
何気なく投げ掛けたその声に、返ってきたのはあの絶望だった。
「――、――――。」
『今日は曇り空の広がる一日となるでしょう。にわか雨にご注意ください。』
「―――――――、―。」
「―――。」
お父さんと弟が交わす会話もまた、耳に届かず消えていく。
残されたのは、虚しく響くテレビからの音声だけ。
閉ざされていく世界に抗うように、激しく渦巻く感情に呑み込まれないように、足に力を込め背筋を伸ばそうとしたけれど。
動揺した心は誤魔化せなくて、握りしめた拳が震える。
―家族の声も、聴こえなくなってしまったなんて。
朝食をとる間の空白の会話を笑ってやり過ごし、自室に戻った。壁にかけた時計を睨んで、詰めていた息を吐き出す。
言い表せない不安に染まりつつある感情。
気を抜いたら零れ落ちてしまいそうな涙。
それらを全部詰め込んだ、深い深いため息の後。
自分を奮い立たせるように頬を叩き、私は制服を手に取った。
本音を言えば、学校に行きたくないけれど。
だって、ほとんど声が聴こえない現状では授業を受けることも部活動に参加することも難しいし、現実を突きつけられて不安になるだけじゃないか。
しかし家族の声ですら届かなくなってしまった今、家に残るのは憚られて。
だから今日も、学校に行くことを選んだ。
心の何処かで信じていた、家族の声が聴こえなくなることなんてない、という根拠のない自信を無慈悲に打ち砕かれて、泣き出しそうな心が求めているから。
まだ可能性のある親友の声を。
何とかすると笑ってくれた好きな人の声を。
家を出て最寄りの駅に向かう途中、後ろから肩を叩かれ振り向く。そこにいたのは親友で、私はいつも通りに笑いかけた。
「おはよう、葉月。」
そう言ってしまってから思い出す、私の現状。
脳裏に浮かんだのは、今朝のあの絶望。
突然襲ってきた緊張で頬が引きつりそうになるけれど、それでも。
それでも、大丈夫だよね?
親友の声は、まだ聴こえるよね?
葉月の返事を待つ、ほんの一瞬の沈黙が酷く恐ろしく思えて。
必死に、必死に。
残された希望に縋ったけれど。
どうやら現実は、そう優しくないみたいで。
「――――、――。」
明るい表情で返された空白にまた、世界が凍りつく音がした。
もう、限界だった。
ぽろり。
涙が音もなく頬を滑り落ちた。
人ってこんなに静かに泣けるんだ、なんて他人事のように思ったのはほんの一瞬で。一度溢れたものを止める術などなく、私の涙腺はいとも簡単に決壊した。
悲鳴を上げる心を抱えて、葉月に背を向け走り出す。
「――、―――!」
呼び止めるような葉月の声はやっぱり聴こえなくて、取り残されたような孤独感が胸に押し寄せた。
何も考えず、ただ走る。
無心で駆けたどり着いたのは我が家。
共働きの両親と中学生の弟はもう出かけている時間なので、家には誰もいない。
自室に入ってリュックを降ろすなり、ドアにもたれたまましゃがみ込んだ。
こみ上げる嗚咽をかみ殺し、私はむせび泣く。
家族の声も、親友の声も、もう届かない。
声が消えていくこの不安は。
世界が閉ざされていくこの恐怖は。
どうすれば良いの?どうしようもないものなの?
―ああ、もういっそ、呑み込まれてしまおうか。
泣いて泣いて、知らないうちに時間が経っていた、なんて都合の良い物語の中だけの話で。かなりの間泣きじゃくったつもりでいた私だけれど、時計の針が示すのはあれから数十分進んだ、学校では一限が始まったばかり、という時刻。
手元にスマホを引き寄せて、電源を入れる。光とともにぱっと表示されたたくさんの通知は、全て同じ人物からの着信を知らせるものだった。
―山内陽輝。
私はもう、陽輝の声も聴こえないのかな。
そう思うと、胸がずきりと痛む。
好きな人の名前で埋め尽くされた画面をスクロールしていくと、一件だけ。
親友からのメッセージを見つけて、ぴたりと指が止まった。
『風花。
先生には体調不良で休みだって言っておいたからね。
何かあったなら、話してほしい。
風花の力になりたいよ。親友って、そういうものだから。』
頬を伝う雫よりも暖かい、その言葉が嬉しくて。
滲んだ視界の中で、私は葉月に向けてメッセージを送った。
『葉月、ありがとね。
話したいことがあります。今日、会える?』
―頼っても、良いですか?
不意にスマホが、音とともに震えた。
画面に映し出されたのはまた、好きな人の名前。
時計に目をやると、ちょうど一限が終わったくらいの時間で。
ああ、休み時間なのかと思いながら電話に出る。
『…もしもし、陽輝?』
『風花!何かあったのか?!』
食い気味に返ってきたその声に、思わず口元が緩む。
電話越しだろうと何だろうと、私は陽輝の声が好きなんだな、なんて。
『学校来てないから、心配で、』
『あのね、家族と葉月の声が聴こえなくなってて。』
『大野?…だからか。』
『何が?』
『いや、大野がさ、やべ、チャイム鳴った、ごめん、あとでな!』
焦ったような声の後ろで、二限の始まりを告げるチャイムの音が聞こえた。
葉月が、どうしたんだろう。
首をかしげつつも、さっきまでとは違い心が暖かな希望で満たされていくのを
感じていた。
『風花、今からうちに来れる?』
葉月からそんなメッセージが届いたのは、時計の長針が十二の文字を通過した
ばかり、学校では昼休みに突入した頃、という時刻。
今日は六限まで授業がある日なのに、今から?
その疑問符は、たった今かかってきた陽輝からの電話によって解消された。
『あー、大野、体調が悪くなりましたって早退してったよ。
朝から風花のこと気にしてたから、多分それだ。』
私が家を飛び出したのは、そのわずか十分後のことだった。
葉月の家までは、歩いて二十分。
いつもよりも早歩きで向かったそこでは葉月が待っていてくれた。
「葉月、ごめん。あの、」
私、葉月の声、聴こえないんだ。
そう告げる前に、手の中のスマホが音を立てた。
『山内から、教えてもらった。』
「え?」
出鼻を挫かれて混乱する私をよそに、画面には次々と文字が浮かぶ。
『不安だったよね。気づかなくてごめんね。』
『私も、協力するから、一緒になおす方法探そう。』
『大丈夫、だよ。』
―大丈夫。
その言葉にぱっと顔を上げた私に、葉月は優しく微笑んだ。
それは昨日の陽輝を彷彿とさせるような、柔らかな笑みだった。
葉月の家に泊めてもらうことにしたその夜。唐突にインターホンを鳴らしたのは、山内陽輝だった。
お邪魔しまーすと上がってきたその声は、電話越しのものよりも暖かく聴こえて。
それは、絶望ばかりの一日中ずっと望み続けたもので。
閉ざされかけた私の世界は、それだけでぱっと賑やかに色づく。
この声が、明日も聴こえますように。
親友と好きな人と三人で過ごす夜は、そんな願いとともに更けていった。
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