声の消えたこの世界で

藤璃

「一日目」

 もしも、大切な人の声が聴こえなくなってしまったら。

溢れるほどのこの想いを抱え続けることは、できるんだろうか。

手紙、メール、SNS、いくらでも話はできるのかもしれないけれど。

でも、やっぱり。

大好きなその声を、ずっと聴いていたくて。


 目を覚ます。体を起こす。ぼんやりと動き出す。

至って普通、何の変哲もない朝。

支度を済ませ、リビングのドアを開ける。

食卓に並んでいるのは、トースト、目玉焼き、サラダにヨーグルト。

「風花、おはよう。」

「ん、おはよ、お母さん。」

『今日の天気は、晴れ!暑い一日となるでしょう。』

交わされる会話も、テレビから流れる天気予報も、笑ってしまうほどいつも通り。

ああ、今日もまた、一日が始まる。


 「――、――――!」

登校し席に着くとクラスメートが話しかけてきた、はずなのに。

あれ、何も聴こえなかった、よね…?

「ごめん、もう一回言ってくれる?」

「――――、――、――!」

まただ。

何か喋っているのは分かるのに、突如消えてしまったかのように声は聴こえない。

曖昧に笑い返しながら、何かの病気だろうかなんて考えてみるけれど、

家族の声は聴こえていたのだから違うかと思い直す。

「風花、おはよう。」

今度は聴こえた。特別仲の良い、大野葉月の声だ。

「おはよー、葉月。」

良かった、葉月の声はちゃんと届くんだ。

もやもやと渦巻く底知れない不安の中で私、内藤風花はほっと安堵の息をついた。

 

 やっぱり私の耳は、どうかしてしまったみたいで。

聴こえない、届かない。

授業をする教師の声も、雑談をする友達の声も、部活中のチームメイトの声も。

その中でも、音は聞こえていた。

テレビの音声、鳥のさえずり、スマホの着信音。

だから難聴とかそういう類のものではないだろうけれど、それでも異常が起きて

いるのは間違いない。

原因は何だろう。どうすれば良いのだろう。ずっとこのままだったらどうしよう。

 

 「うわ、やば、門閉められるー!」

部活終わり、最終下校時刻間近。

一人で門を出た私の耳に、ふと飛び込んできたのは底抜けに明るい声。

「あれ、風花?」

暗がりにさす光のようにも思えた、声の主は山内陽輝。

走ってきたかと思うと突然足を止め、彼はくるりと振り向いた。

なんで、陽輝の声は聴こえるの…?

呆然としつつも心の何処かで、葉月の時以上にほっとしている自分がいた。

―だって、五年間ずっと、好きな人だから。

 

 「珍しいね、一人?」

くしゃりと笑んだ陽輝は、明朗快活の言葉が何よりもしっくりくる、そんな人間。

騒がしくて、真っ直ぐで、いつもみんなの中心で笑っている。

何処が好きなのか。

そう問われたら悩んでしまうくらいに、一緒にいる時間も、私の片想いも長い。

ただ元気なだけじゃない、さりげない優しさも、時折見せる真剣な瞳も、普段の

彼からは想像もつかない静かな表情も、知りすぎるほどよく知っている。

 「うん、陽輝も?」

とても笑えるような状況じゃないけれど、にこりと口角を上げた。

今の私の状態を、彼に気づかれるのが嫌で。

聴こえているのが、家族と、親友と。

陽輝の声だけ、なんて。

 突然聴こえなくなった理由は分からないままだけれど、声が聴こえている人たちについて考えやっと導き出した、ある仮説。

―特に大事だと思う人の声は、聴こえているんじゃないか。

もちろん他の人はどうでも良いとか、そういうわけではない。

それでも、どうしたって差は生まれるものだから。

その仮説が正しいとするなら、私にとって陽輝は、家族や親友と同じくらい大切な存在ということになる。

そんなの、陽輝のことが好きだと言っているようなものじゃないか。

五年間伝えずにいたこの恋心を、こんなところで露呈するなんて嫌だった。

悟られないように、勘付かれないように。

私、ちゃんと笑えてるよね?


 「風花さ、何かあったでしょ?」

無理やり笑って隠そうとしたそれを、単純だけれど鈍感ではない陽輝はあっさりと

見破った。そういえば、小学生の頃から他人の変化に一番に気づくのはいつも陽輝だったっけ。

「えー?そんなこと、」

ないよ、と言おうとして口をつぐむ。

言えなかった。何もないよ、なんて。

言いたかった。助けてほしい、と。

小さな不安はいつの間にか、誤魔化せないほどに膨らんでいて。

「風花?」

言葉を止めたまま黙る私の顔を、陽輝が覗き込む。

「何かあったなら、」

その腕をぎゅっと掴んだ。

独りで抱え込むことはもう、できそうになかった。

「陽輝、相談したいことがあるの。」


 「声が聴こえない。家族と大野と、俺以外の。」

並んで帰り道を歩きながら、陽輝が私の話を端的に繰り返した。

「そう、なの。」

告白同然の仮説だけは伏せたものの、私はほとんどすべてを話した。

耐え切れず助けを求めてしまったけれど、普通に考えれば受け入れがたい話だ。

勘違いだ、そんなことあるわけがない、ファンタジーの世界じゃないんだから。

そう言われてもおかしくないようなそれを、陽輝は信じてくれるだろうか。

言わなければ良かったかな。今更ながら、少し後悔。

「あの、陽輝…?」

考え込むように黙っている陽輝に、私は声をかける。

信じられない?ありえない?

何を言われても良いように身構えた。

「ん、ああ。そういうこともあるんだなあってちょっとびっくりした。」

「そ、そうだよね。突然、ごめんね。」

ああ、やっぱりと目を伏せるけれど、次に聴こえたのは。

「でも、大丈夫!俺が、何とかする!」

「、え?」

「あ、何か方法があるとかそういうわけじゃないんだけど、でも、」

何故か焦った顔で取り繕うように言うのがおかしくて、私はふっと笑った。

自分の異変に気づいてから今日一日、不安でいっぱいだった。

それでも陽輝の傍にいると、こんなにも自然に笑えるんだ。

 「でも、大丈夫。」

不意に降ってきたその声で、今度は顔中に熱が集まるのを感じた。

明るく騒がしいその性格をそのまま映したような声が、ふっと凪いで優しくなる

瞬間。まばゆく輝く太陽の光が、柔らかな月の光に移り変わるような刹那。

彼の本質が透けて見える、その一瞬が私は好きだった。

「…うん。」

だから、だろうか。

何の根拠もない言葉だと分かっていながら、それでも頷いてしまったのは。


 いつも通りに始まった一日を、いつもとは違う気持ちで終える。

明日はどうなっているのだろうとか、どうすれば良いのだろうとか、

幾つもの不安が脳裏を掠めるけれど、それでも願う。

家族の声が、親友の声が、そして陽輝の声が。

明日もまた、聴こえますように。






















 

















 





 



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