4:愚鈍

そのとき、不意にノックの音が聞こえて注意が逸れた。奥の部屋から誰かがここへ入ってこようとしているようだ。


「失礼します」老婆のような声がした。

「誰ですか?」女性は言った。

「名前は言えませんが、私です」老婆は答えた。

「了解です、どうぞお入りください」


私は沈黙していた。さらなる困難が待ち受けているような気がした。救世主とはとてもじゃないが思えなかった。この偽りと悪意の世界に新たな敵が増えるのか。


「じゃあ、私はいったん引っ込みますね」女性は言った。

「はい、後は任せてください。うまくやってやりますよ」老婆は言った。


何をうまくやるつもりなんだ。いい加減にしてくれよ。この時点ですでに殺意が湧き始めていた。


老婆もあの女と同様に、歳の割には血色がよかった。栄養状態が良いのだろうか。どこか浮世離れしていて、ブルジョワの匂いがした。


「アサクラさんのことはよく聞いていますよ。調べさせてもらいました。それに基づいて対応させていただきます。あなたには、厳しいことも言わなければなりません。私としても、本意ではないんですけどね。本当はやりたくないけど、あなたには仕方がないんです。必要なんです。アサクラさんのためなんですね」張り付いたような笑顔を浮かべながら言った。

「……」私は嫌悪と疑念の眼差しを送っていた。


「……仕方ないから、言うね。受け入れがたいこともあるのかもしれませんが、身に着けていかないといけないのです。あなたは、もっと人と関わった方がいい。だからうまくいってないんですよ。でも私の言う通りにすれば大丈夫」

「……いい加減なこと、言ってくれますね」


「何がいい加減だって言うんです?」

「……その、押しつけがましい上から目線がとても気になりますね。そしてあなたはそのことに自覚的でない」


「そんな風に思っちゃうところを変えていかないといけないみたいですね。いったい、どこが上から目線なんです? ただの常識じゃないですか。あなたの感じ方、それでいいのかなぁ? 現実は本当にそうなのかなぁ?」張り付いたような笑顔を維持しながら老婆は言った。語尾を挑発的に上げていた。殺したいと思った。

「いい加減にしろ! お前らが悪いんだろうが! お前らみたいな奴がいるから、人は苦しむんだ!」


「勘違いしてますよ! いま世界は完全なる調和の中にある。私たちが調停しているからだ。私たちに知らないことなどない。いったい、何が悪いっていうんです? 具体的には?」

「それは……そうだね、お前が今この瞬間やっていることだよ。この場所は嘘と悪意に満ちている」


「どうしてそう思うの! はぁ…………せっかく言ってあげているのに! このままだとあなた、大変なことになりますよ!」老婆の顔色がみるみる紅潮していった。頭に血が上っているのがこんなにもわかりやすく見えることがあるのだろうか。ここが、この人の弱点なんだな。

「……」私は再び、返す言葉を考えることを止め始めていた。聞く耳を持たない者には、言葉を解する能力がない者にかける言葉は無い。



ふと、視線を外した。窓の外は相変わらずの暗い曇り空で、様子がよくわからなかった。雨足が強くなっていることだけがわかった。窓自体も汚れていた。今更、見るべきものもないが。



「……あなたには罰を与える必要がありますね」そう言いながら、老婆は後ろを振り返って、デスクの引き出しに手をかけた。


やられる、と直感した。

もしあそこに凶器が入っていたら。いくら老婆とはいえ、この広くはない一室で凶器を振り回されたら。

あるいは人を呼ばれたら。相手は2対1だ。2という数字は10にも20にもなる可能性があるが、1という数字が増えることは期待できない。


こちらから先に仕掛けないとやられる。状況の安定は死を意味する。私の意識は、この部屋に入ったときに見つけた金属製のバットに集中していった。

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