ウミウシ

不適合作家エコー

ウミウシ

とある年の海の日、待ち合わせ場所に彼女の姿はなく、一通のメールが届いた。


【別れたい】


予定していた水族館を一人歩いた。


ペンギン、イルカ、熱帯魚。

ウミウシ、シャチ、サメ、アンモナイト。

マンボウ、ウミウシ、サメ、イルカ。


目的だったものはなくなり、目的もなく歩くそこは水に囲まれている以上に青ざめて、冷えこんで感じられた。


何周目か分からない、水槽を眺め歩く中、一人の女性が気にかかる。


なんども通りかかった水槽の一つ、ウミウシの水槽を眺め続ける女性だった。


かれこれ2時間強、水族館をぶらつく中で場所を移ることもなく、一つの水槽を眺め続ける彼女に、気がつけば水族館のどの生き物よりも興味を持っていた。


水辺に立てば透けてしまいそうな白い肌と、原色に近い青のロングヘアーが印象的な女性だった。


「なにか?」


「い、いや、ちょっと気になって」


突然、振り返る彼女に戸惑い、正直な感想が口をついた。慌てて目をそらそうとして気付く。


(あぁ、水槽に僕の姿が映っていたのか......ってこれじゃまるで変質者じゃないか)


改めて自分の行いに気付き顔が蒸気するのを感じるが、そんな事は構うそぶりもなく、彼女は僕を見つめて言った。


「気になったのはウミウシ?」


からかう様子もなく、ただ疑問のままに尋ねる彼女に、尚、言い澱んでしまう。


「ご......ごめん。ずっとここにいたから気になっちゃっただけなんだ。最近、彼女に振られてさ......今日はなんとなくずっとここを歩いていたから......」


正直に答える僕を相変わらずじっと見つめる彼女。


「ずいぶん節操がないのね」


「え!?」


そう言った彼女の手がふと僕の目元に触れ、僕を驚かせた。


「目......赤い。それ、今日の事でしょ?」


「あ......うん」


クスリと笑う彼女に思わず見とれてしまった僕は、その瞬間から自分の節操のなさを否定出来なくなった。


「もうすこし、君のことを知りたい......って言ったらダメかな?」


「海」


「え?」


「私の名前。あなたは?」


「信二......仲谷信二だよ」


携帯のアドレスを交換して帰ったその日だけで、僕は随分と彼女のことを知れた。


メールのやり取りから分かった事ばかりだけど、彼女が大学の院生である事、その研究のテーマがウミウシで、ウミウシの事を研究したくて院生になったというちょっと変わった女性である事も分かった。


でも、メールの中に脈絡も見つからずに記された


【私とウミウシは似てるの】


という一文だけは理解する事が出来ず、僕はあえてそこに深く踏み込むことはしなかった。


本当に僕は節操のないものだ。

次の仕事の休みから僕の時間は全て彼女と共有された。


どこに行きたいかと聞くと必ず水族館と答える彼女を無理やり色々な場所へと連れまわす日々が続いた。


遊園地、喫茶店、カラオケ、ダーツバー、カラオケ、遊園地、そして、あの水族館で僕は彼女に改めて交際を申し込んだ。


「......私、気まぐれだけどいいの?」


そんな事はもう充分に知っていた。

実際、彼女はその独特の感性で何かに執着すると何時間も動かなくなるのを何度も見ている。


僕は内心、今更そんなことを気にする彼女を可笑しく、そして可愛いと思うと同時に、その言葉に含まれた肯定のニュアンスを聞き分け、天にも昇る心地でいた。


その日から、僕と彼女のやり取りはメールから電話に変わった。


なんの予定もなく沢山の電話をした。


電話越しに彼女は大学院の資料を作ったり、料理をして、僕もまた、部屋の片付けや資格の勉強なんかをしていた。


そして、海はやはり不思議な人でよく鼻歌が混じる通話を聞いているとなんだか僕まで嬉しくなり、いつの間にか彼女の口ずさむメロディーを一緒に歌えるようになった時からは、より、彼女との距離が近づいて感じた。


何度目かのデート、何度目になるか分からない水族館に行った時、また、彼女があの水槽の前で立ち止まる。


昔は一人黙々と水槽を見ていた彼女だが、今は僕にウミウシの事を聞かせてくれる事が増えた。


「ウミウシの色って鮮やかでしょ」


「うん、鮮やかな海に住むから、あれが保護色になるんだよね」


「えぇ、私がウミウシを好きな理由。もし、みんながウミウシみたいに派手に......個性的に生きたら、それが鼻に付くような事もなくなる気がして」


「うん。そんな世界も面白いかもね」


海は不思議な人でもあり、そんな優しい人でもあった。


僕は彼女のことと一緒にいつの間にか、ウミウシに詳しくなっていったが、それでも......


【私とウミウシは似てるの】


その意味だけは分かることがなかった。


「海外って好き?」


ある日の夕暮れ、デートを終えて僕の家に遊びに来た海が聞いた。


僕はお世辞にも金持ちとは言えない。

介護士の薄給生活であり、今勉強しているのはその給与を少しマシに出来る介護福祉士の勉強だ。


だから、海外が好きか、というか彼女と行きたいかと聞かれれば楽しみもあるが不定休の弱みや金銭の悩みからなかなか良い返事が出てこない。


結局僕はお茶を濁す様に


「日本語しか話せないからなぁ。国内にも面白いところはまだまだありそうだしね」


などと答えた。


「そぅ……」


その時、僕は顔を曇らせた彼女の意図をもっと話し合うべきだったのかもしれない。


帰り道、入場券を買って海を駅のホームまで見送るのはいつもの習慣だ。


手袋を忘れたという彼女は僕の羽織っているコートのポケットに手を入れて電車を待つ。


心も体もぐっと近づいたその距離が嬉しくもあり、くすぐったくもあった。


「もうすぐお別れだね」


珍しく海がそんなことを言う。

悲しげな表情にドキリとしながら、僕は彼女に微笑みかけた。


「またすぐ会えるよ」


「ぅん......」


待っていた電車が駅を通り過ぎる。

が、彼女はまだ僕の腕の中にいた。


「海?次はどこに行こうか?」


照れ臭くなり、そう答えた僕に、彼女は笑って答えた。


「私たちの出会った場所」


「それ、いつもの水族館じゃん」


僕たちは笑い合い、そして、2台目の迎えの電車が到着した。


「さよなら信二さん」


「うん、また今度」


そうして、


彼女との連絡は途絶えてしまった。


数日経って返事のない電話とメールに違和感を感じた。


さらに数日経って彼女のアパートが空き家になっているのを確認して、初めて僕は自分と彼女を繋ぐものが全てなくなってしまった事を知った。


とても悲しかった。


突然いなくなった彼女に怒りは......なかったといえば嘘になるが、それ以上に、もう一度会いたいという気持ちが強かった。


翌日、会社を休んで彼女の大学へ行く。

彼女はいなかった。


「ぅーん、個人情報だからねぇ......」


大学の講師は言葉を濁す。

冷静に考えれば当然の反応だろう。


そもそも、個人情報でなくても、縁を切られて乗り込んで来た男性にまともに取り合う人間なんているはずがない。


これ以上は粘っても無駄かと内心諦めかけた時だった。


「もしかして、君は信二君かな?」


「えっ......あっ、はい」


面識のない初老の男性だった。


「ふむ、海さんから話は聞いているよ。あぁ、私は彼女のゼミの教諭をしていてね」


「!!それでしたら、彼女が今どうしているかっ!」


チャンスとばかりに前のめる僕に男性は首を振る。


「それでも立場上、個人情報は教えられないよ」


「そぅ......ですよね」


「それにしても、よくここまで来たものです。なかなかそこまで行動出来るものじゃない」


そう言って男性は職員テーブルに置かれた海空女子大学というパンフレットに目をやった。


それを見て、僕も思わず苦笑する。

確かに、女子大に乗り込んでまでどうにかしたいなんて、今までの人生でここまで何かのために行動した事はあまり思い出せない。


なんだか、それを思うと急に肩の力が抜ける気分だった。


「彼女にも言われましたが、僕はどうも節操がないらしいんです」


「節操!?くっ......ふふふ......いやいや、すまないね。彼女らしいというか、なんというか......君も大概だね」


微妙なニュアンスの言葉だが、年の功なのか、嫌味な印象は受けなかった。


「あー、残念です。僕が学生、そうですねぇ、同じゼミの水野さんだったりすれば、君に彼女の話もできるかもしれないのになぁ」


そう言った初老の男性が僕に軽くウィンクをした瞬間、僕は遅れてその意味を受け取り慌てて職員室を飛び出した。


「あ......あ、ありがとうございます!!」




「......大丈夫なんです?教諭、あれも個人情報では?」


「ふふ......まずい独り言を聞かれてしまいましたかね。しかし、若さと言うのは良いものだ。私もあれくらい妻を大切にしておけば、こんなに後悔はしなかったのかもしれないね......」


「教諭......」




本当に僕という人間は大概で、しかも節操がないのだろう。


ただでさえ人目に着く女子大の中を走り抜け、何人もの生徒に聞いて、とうとう水野という女性を見つけた。


「その様子だと、まだ手紙は読んでないんですね......彼女と別れた日のコートの中、探してみてください」


「なっ!ちょっと待ってくれもう少し詳しく......」


僕が要件だけを口にして去ろうとする水野さんを呼び止めようとすると、彼女は剣幕な表情でそれを拒んだ。


「寄らないでください!!貴方が海の事、もっと早く気にかけてれば......っ!!」


今度は......立ち去る彼女を呼び止めてはいけない様に思えた。


「僕がもっと早く気にかけてれば?」


「ずいぶん節操がないのね」

「海外って好き?」

「私とウミウシは似ているの」

「もうすぐお別れだね」

「さよなら信二さん」


帰りの電車、僕の頭の中を彼女の言葉が巡っていた。


「海......僕はどこで間違ったんだ?」


家に早足で帰り、あの日のコートを引きずり出す。くまなく探すと、確かに、ポケットから入れた覚えのない紙切れが出てきた。


(......あの時か.....)


それは彼女が手を入れていたあのポケットから見つかった。


信二さんへ

お元気ですか?

多分、信二さんがこの手紙を見る頃、私はそこにいないと思います。


そして、この事は、信二さんと出会う前から決めていた事でもありました。


私はある研究団体からスカウトを受けていました。その環境は私にとって理想的でしたが、10年、海外を転々とするという条件は、院生の女性にとって婚期を捨てる事と言っても言い過ぎではない事です。


信二さんと過ごした数ヶ月は、私にとって最初で最後の恋の季節でしたが、私はそこから旅立つことを決めてしまいました。


今まで本当にありがとう。


そして、ごめんなさい。


私にとって貴方は


これからもずっとずっと、


一番大好きな人です。



文章自体は淡々としたものだった。


でも、震える文字に大小様々の水玉、その紙には彼女の心が嫌というほど現れていた。


「こんなの......ずるいじゃないか......僕だって、君がいつまでも一番......好きだよ」



しばらくして、何気なく見た生物図鑑でウミウシの区分を知った。


【ウミウシは生物学的な分類群と一対一に対応したものではなく、分類そのものが未だ流動的である。】


どうやら海が言っていたのはこの事だったのだと今は思う。

いるけどいない。いないけどいる。


まるで雲をつかむ様な彼女の雰囲気は、いくらか、彼女自身のそういった消えていく今を可視したもの言いから来ていたのかもしれない。


とはいえ、今の僕にはもうどうする事も出来ない事だった。




数年後......


「えぇーまた水族館!?」


僕にはまた新しい彼女が出来た。

職場の後輩で、告白は彼女からだった。


僕が好んでデートコースにあの水族館を取り入れる事を彼女はよく思ってはいない。


「付き合うとき一緒にいられればいいって言ってなかった?」


「うーん、言ったけどさぁ」


あからさまに不満気な表情でそう言う彼女は引き目にも可愛いらしい女性ではある。


「貴方の一番になるっ......とも言ってたよね?」


「だって、信二さん頑ななんだもん」


少し落ち込んだ様に言う彼女を見て、意地が悪かったと反省する。


「ごめんごめん。確かに僕にとって一番好きな人は今も君じゃないよ。けど、僕は例え君と別れても、君を二番目に好きな人のままでいれると思うよ」


「ぅうーん、考えようの問題なのかしら?」


「さぁ、僕にも分からないけど」


「なんですかそれぇ」


あきれ顔の彼女に苦笑しながら、僕は続ける。


「僕は海と出会えた事も、君と今付き合ってることも全部大事にしたいと思うんだ……もし、また海に会えたなら君も仲良くなれると思うよ」


「恋敵でも?」


「恋敵でも」


僕は今も海が好きだ。

今、彼女がどこにいるかなんて分からないけど、それでも構わない。


たとえ一生会えなくても......僕は彼女と出会えたことを、一番大好きな彼女と出会えたことを絶対になかったことにだけはしないと、そう強く決めていた。








更に数年後......



私は久しぶりに帰国した。


やっぱり未練なのかもしれない。


すぐに足が向いたのは家族の待つ家じゃなくてあの水族館でした。


そして、あの水槽の前まで来て、私は思わず声をあげた。


「嘘!?なんで......?」


私の声に驚いた彼が振り返り、すぐにニコリと微笑んだ。


そして、まるでずっと練習していたお芝居のセリフの様に言うのだ。


「Hello, I was waiting. I do not let go this time. I run after it in what country. Because you like it」


《やあ、待っていたよ。今度は放さない。どこの国にまでも追いかけるよ。君が好きだから》


気付けば、まだ少しぎこちない英語で話す彼を抱きしめていた。

彼はそれを優しく抱きとめてくれた。


涙でいっぱいになり、言いたい事は沢山あるのに、口から出たのはただの一言だけ


「私もっ!!」


「どこまでも、二人で行こう!」



【あの日の事を偶然と語るのはあまりにも容易い。でも、僕の努力と彼女の未練、あるいは、僕の未練と彼女の思い、そういうものが一つになって起こした、必然だったんだと僕は思うんだ】


「ね......ねぇ信二!恥ずかしいからあまりみんなに話さないで!!」


「え?うーん、そうは言ってもなぁ」


僕たちは今、とある南国の島にいる。


目的は当然、ウミウシの研究で、僕は今、その助手を務めている。


現地の人々は皆優しいけど、若い研究員の二人組だ。

どうしても馴れ初めを聞かれてしまう。


だから僕はこの話を英語で話すのが一番得意になってしまったりしたんだけど、海は今もこの話を聞くと耳まで赤く染めて恥ずかしがる。


海と再会する少し前まで付き合っていた元カノとは今も仲良く文通をしているのだけど、今は海の方が彼女と手紙のやり取りの回数が増えているのだから不思議なものだ。


僕の元カノと仲のいい彼女というのも不思議な話だけど、どの国でも好かれる彼女を見ているとそれも彼女の心音の美しさからくるものなんだと信じて疑わなくなった。


僕たちは今日も手を取り合い海を越えていく。


どの海も二人なら越えていける。


僕たちはそう信じている。

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