in Cd

 誰も目を疑うことをしなかった。

 早瀬進はやせすすむという、まだ二十代そこそこの教師は、二階から飛び降りることも茶飯事であって、決して蛮勇ばんゆうなどではない。


 焦げ茶の髪を雄々しく逆立て、細くった眉と鼻下の髭が特徴的な男。

 直角に曲げた腕を、あたかも太鼓でも叩くようにして激しく振り、中庭を横断してくる。

 そして駆けながら叫ぶ。


 進*

 「特進科一年!伊藤椿!」


 椿*

 「…………。」


 進*

 「特進科の落第生、伊藤椿!……いとうつばき!つばきっ!!バキッ!メキッ!グシャ!ぎょええ!」


 進が椿の眼前で小躍りするようにしてふざける。


 椿*

 「ひとりで騒ぐなすすむ。聞こえてる。」


 進は精悍な顔つきのまま騒ぐ。

 椿は耳を指でふさぎ、しっしと手で追い払う素振り。


 進*

 「そして同じく特進科二年!きざはしメリア!」


 メリア*

 「うん。春眠暁を覚えずとはまさにこのいい、孟浩然に倣って私は授業をサボタージュした。罰則は甘んじて受けよう。」


 メリアは素直に頭を下げ、その垂れた金髪の隙間から椿に向けてちろりと舌を出す。

 進は痙攣したように首を縦に激しく振り、それからメリアの肩を息を荒げてばしと叩いた。


 進*

 「えらいぞ!よく自分から謝罪した。今日は授業もなかったしまあいいだろう。今後気をつけるように。」


 メリア*

 「寛大な。どうもありがとうございます、先生。それでは私、今日は掃除係がありませんので、これで失礼いたします。………………君、あとで、いいな。」


 慇懃に再度頭を下げ、その場を去ろうとするメリア。

 それを見、椿は何食わぬ顔で足を差し出し、引っ掛け、メリアを転倒させようとするが、なぜかかえって椿の体の方が宙に浮いていた。


 そして背中から地に落ちる。


 椿*

 「…………っ!」


 片足で不安定になったところを、椿はどうやら掬われたらしい。

 犯人は初代であった。

 まだ四つん這いになって嘘泣きを続ける彼女が、どうやら椿の足を払ったらしい。


 進*

 「お前はスポーツ科一年にして俺がクラスの学級委員!佐倉初代。どうやら椿に処女を奪われてしまっとみえる!ああ、なんと可哀想に。……青姦アオカンなんてアカン、アカンぞ、椿、バキィ、メキィ、グシャア!」


 椿*

 「痛ぇ、痛ぇよ!てめえ離せ!」


 進の取るに足らない冗句に椿が閉口しかけたとき、擬音語に合わせて腕やら脚やらの関節技を見事な体さばきで決められていた。


 初代*

 「………は、早瀬先生………そうなんです。この素人しろうと童貞、ついにかしこくも私の様な天然素材美少女に涎を垂らして……助けてくださいっ!」


 初代はしなを作っておよよといった様子。


 椿*

 「おい、素人って言うな。せめて玄人経験者と呼べ。」


 初代*

 「それ同じ意味です。」


 初代の発言に、久方振りの静寂が訪れ、葉擦れの音が耳に鮮明となる。

 そして、


 進&椿*

 『『……お前は馬鹿かっっっっ!』』


 まさかの同調シンクロではない。

 何を隠そう、椿に大人の遊園地ゆうえんちを勧め、のみならず連れて行ったのは現代における聖職者、スポーツ科の教師である早瀬進である。


 初代*

 「あれ?なんで私が攻められてるんですか?こんなに美少女なのに。」


 進*

 「お前は何にも分かってなぁい!素人童貞とは!つまりだ!一般人とは未経験、プロフェッショナルとは経験ありという双方の意味を内包している!それに比べっ!玄人経験者なる呼称は!素人との性交の有無をそこに明示していなぁい!つまりっ!なんだっ!先生は何を言っているんだっ!?」


 初代*

 「いや知りませんけど。今の一部始終録音しておいたので、後で自治会に提出してきます。」


 初代はおもむろにすっと立ち上がり、興味無げにスカートを払う。

 その目はもう演技に用いる筋肉を緩め、素の、美しい赤銅色に沈んでいる。

 

 進*

 「ちょっと待て待て待てマテ摩天楼っ、あっそれ黄鶴楼、ずっばーん!」


 進が素早く初代の前に仁王立ちとなり、俊敏な踊りを魅せたあと、天に向かって蹴伸びする。

 耳の後ろに腕を持って来た、綺麗な蹴伸びである。

 何故か足は交差しており、銅像にしたらさぞや美しい直線の美となろう。


 進*

 「……風がヒュゴー、鳥が屋根の棟からばさー、長江がこう地平線まですーっと、そしてなんだ、夕陽がびっしゃー。船が一隻すうー。これぞまさしく、黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る、そう!つまりは!孟浩然もうこうねん、もうここに帰ってこうねん――By李白。」


 進のそんな奇行も戯言も椿には見慣れているが、初代は初見である。

 茫然として、その股間をかかとで前蹴りしても致しかたない。


 初代*

 「…………ふんっ!」

 

 と、込められた力の大きさを物語る声。

 スポーツ科に所属する初代の蹴りは、的確に進の急所を潰した。

 椿は自ずから拍手をする。

 

 椿*

 「…………素晴らしい蹴りだ。これで李白の冤罪えんざいも水に流されたに違いない。」


 進*

 「李白は潔白、パンツは純白……どがっしゃー!」


 初代、必死の右ストレートに、進は校舎の壁に埋没して虫の息。

 さすがスポーツ科の初代である、膂力りょりょくが尋常ではない。


 初代*

 「…………ふう。で、もうこうねんとかりはくって何です?先生、終始何言ってたんですか?」


 椿*

 「…………うん、まあ、致し方ないよね。お前、スポーツ科だもんね。」


 哀れな進。

 渾身のギャグも理解されず、ただ不快ゆえに吹き飛ばされた。


 初代*

 「とにかく、私が入学したからには、もう椿先輩にはサボらせませんからね、覚悟してください。」


 黒髪をなびかせて、進を肩に担ぐ初代。

 最後だけ学級院長らしい生真面目な台詞を残して去って行く。


 初代*

 「ああ、重い、重いですぅ、初代、こんな重いモノ持ったら腕太くなっちゃいますぅ。」


 群れる男共と、神輿のごとく彼らに担ぎ上げられた進を見、椿は心に一匙の哀愁を感じたのだった。



 …………。


 雲の底が紫に染まり、何か魚の腹のような、生々しい光沢を地に晒している放課後。


 学園の校門には季節・日夜を問わず国旗が掲揚されており、それが鳥の羽ばたきにも似た音を奏で風に煽られている。


 なんということはない日の丸。


 だが、そこには墨で描かれたような、抽象的な「矢印」が落書きとして数本刺さっている。

 おそらく日の丸を的に見立てたのだろう。


 つまびらかに見れば、中心にあたっている矢はなく、赤地の周辺、それと白地の部分にも矢が跳んでいる。それは万遍なくというよりも、むしろ偏りがあり、一部に矢が密集して描かれている。

 

 守衛の無骨な男が、その国旗を見上げながら、「掃除係でないなら早く寮に戻りなさい」と、椿たちに声をかけ守衛室に戻って行く。


 まだ学期もはじまったばかり。

 椿は溜息を殺して、校門の壁に背を寄せる。

 いつもより早く下校できるはずが、メリアとの約束、部活勧誘のビラを撒き、はや三時間。

 時刻は十七時をゆうに超えている。


 メリアは総仕上げとして、残党狩り、校舎にまだ残っている生徒を虱潰しらみしに訪ねて行った。


 そもそも寮で配れば良かったのだが、何故か校門での配布にこだわったメリア。


 部長の彼女が譲れぬのならば、平部員は黙して従わざるを得ない。

 

 校門でメリアを待つのは椿と梢。

 二つの影が校庭に延び、それは並行して交ることがない。


 守衛室からはラジオの音声がひび割れ、漏れ聞こえてくる。

 守衛の男がチャンネルを合わせる。

 椿は無聊を慰めるため、その声に耳を澄ました。


 夕陽は己の熱に溶け、そのかたちを崩し始めた。

 

 ラジオパーソナリティー女*

 「…………よっしゃ、ええと、JOHK、JOHK。本日は晴天なり、晴天なり。国家放送局、御霊屋橋おたまやばし基地局から、皆さまの耳元へあくせく飛んで参りました。どうも、恋は三十路の出会い頭、里田千枝子さとだちえこ、里田千枝子です!どうぞよろしく!」


 まさに欣喜雀躍きんきじゃくやくといった声の弾み様で、雑音が酷く、マイクに体がぶつかったような耳障りな音も混じる。

 

 RP千枝子*

 「さあ、今日も放課後に始まりました、同名同い年というだけで抜擢、企画されたこの『ちえチエラジオ』、通称ちぇチェラジオ。えっと、見えね、ああ、第………千二百、三十六回、目!……そう!目下若者どもに絶大な影響力を持つこの番組の~~~~私のお相手はこの方だっ!」


 RP女②*

 「なに、その恋はなんちゃらってやつ。あと通称とか、評判とか、自分で言うなよ、恥ずかしいだろ。………あ、忘れてた。どうも、園田千重子そのだちえこです。」


 RP千枝子*

 「ええ、いいじゃん、こう恋ってさ、突然に訪れるわけじゃん?じゅーが旦那さんと会ったのだって、あれだって田んぼの……ほがっふがががが!」


 RP千重子じゅー

 「おいえだ!なにのっけから暴露しようとしてんだ、殺すぞ。」


 RP千枝子えだ

 「公共の電波で殺すとか言っちゃやぁよ。だって披露宴の後の二次会でさ、こっちから聞かないうちに自分で語ってたじゃん。よし、今日はその模様を一部始終リスナーの方にお伝えしよう。そうしよう。」


 RPじゅー*

 「いいよ、どうせはったりでしょ。覚えてないくせに。あんたも相当酔ってたじゃんか。」


 RPえだ*

 「ふっふっふっ。舐めてもらっては困るぜぃ。何を隠そう、私は全ての会話をマル秘日記帳、題して『結婚に備え日々を綴った千枝子の記録』、通称『備結録びけつろく』に残しているのだ。なんかちょびっとエロいでしょ。美ケツ。」


 RPじゅー*

 「いや知らないし尻を叩かないでよ、これはラジオ。そしてなんだその備忘録的な略し方は。元題が長すぎる。」


 RPえだ*

 「いいねえ、全部拾ってくれるねえ。まあ、今日は残念ながら持って来てないんで公表できないんですけど。」


 RPじゅー*

 「今後一切するな。そして燃やせ。」

 

 RPえだ*

 「なんですって……それじゃあ、私の結婚はいったいいつになると言うの?」


 RPじゅー*

 「知らないよ……じゃあ、そうだ。あんたの理想の男像言ってみなよ。そしてこの番組で相手を募ろう。」


 RPえだ*

 「お、グッドアイディアだぁ~ね~。……一年前にも似たような企画した気がするけど。いやいや、まあいいでしょう。……そうだなあ。えっとぉ、第一学園大の特進科をエスカレーターで卒業して、そのままキャリア軍人、みたいな。まあ高身長・イケメンは前提として。やっぱ軍人でしょ、ロマンがあるよね。」


 RPじゅー*

 「ロマンって、あんたそれ国民の何パーセントだと思ってんの?」


 RPえだ*

 「だからさ!!!!今からこうしてラジオでアッピールしてれば、マイクの向こうで未来の旦那さんが聞いてるかも知れないじゃない違いないったら間違いない!ねえ、ダーリン♡」


 RPじゅー*

 「絶対マイナスだよ、あんた。男を青田買いしようとして、かえって自分の可能性を青田刈りしてるよ。……ああ、すいません。ということで本日もこの調子で長ったらしく三時間、夜の八時半までどうぞお付き合いのほどよろしく…………。」


 洒脱で軽快な音楽が流れ出し、緑の多い、田園的な学園の周辺がさらにうれいを深くして、ラジオの薄紙一枚間に挟んだような不鮮明な声が、物悲しくも心に温かい。


 夜の近づく気配が高まり、少し肌寒くなる。


 椿*

 「会長はまあしょうがないとして、メリアはおっせえな。どこで道草食ってんだ。」


 椿はポケットから煙草を取り出す。

 銘柄は『childish an hour』、自作の巻き煙草、非売品で、土よりも土っぽい味が堪らなく絶妙だ。


 立ち昇る紫煙に、苦言を呈すのは梢である。

 梢は、不安定に顔やら目やらを揺らしながら、一時もそこに静止していられない。

 ぶら下げられた両の腕も子供のように振りながら、ぐでとしている。

 

 彼女はポニーテールを顔の前に持って来て、口でんだり、それで鼻をくすぐったりして時間を潰している。


 梢*

 「茶髪……ピアス……それから煙草……………全部そろって、見事にださい……ねェ。」


 椿*

 「おい、涎だらけの髪で俺の頬をつつくな。汚ねえ。」


 梢*

 「アナ二―………してる人に……言われたくは、ない。」


 そう言ってカンチョ―する隙を粛々と窺う梢。

 椿の背後に回り込もうと、さっきからふらふらと彼の周りをまわっている。


 セーラー服は二年に進級してもぶかついて、掌はほとんどすそに隠れてしまっている。

 スカートだけは自分で切ったのか、腰で相当巻いているのか、膝よりもかなり高い位置にあって、彼女がふらふらとよろめく度、下着が見えそうになる。


 そもそも浮世離れして、地に足のついてない梢である。

 いつ性犯罪に巻き込まれてもおかしくない。

 と、椿は常日頃から注意しているが、梢はどこ吹く風、聞いた試しがない。


 それに、椿には他にも心配事があった。


 椿*

 「お前、生理来たのか。今回はちょっと遅れたな。」


 野良の犬のように覚束ない足取りで、悪辣な銃と化した指を構える梢。

 彼女は桃色の舌をちろりと出し、下唇をすっと舐める。


 梢*

 「それは、とても、セクハラな発言。」


 椿*

 「お前のは本当に重いな。顔に死相が出てるぞ。」


 椿は何も入ってない黒革の学生鞄から、無色の箱を取り出し、梢に差し出す。


 梢*

 「…………男の子が、生理痛の薬持ってるって、気持ち悪い。」


 椿*

 「いいから飲め、どうせ今回もちゃんと飲んでないんだろ。」


 梢は月に一度は死にかけたようになり、学校を休むこともままある。

 今も目の下が黒ずみ、顔面は蒼白である。

 にも関わらず、薬を飲まない。

 椿が差し出した薬も、下の歯茎を相手に見せるように、唇を指で引き下げる、彼女特有の「あっかんべえ」で以って断られた。

 

 椿*

 「おい、なら鞄よこせ。もうメリアに義理は果たしただろ。さっさと帰ろう。」


 梢*

 「……でも、後でぐちぐち……言われる、よ?…………主に椿が。」


 椿*

 「んなことはどうでもいい。ほら、手、握れよ。」


 梢*

 「…………うん、……こうすると、ね……少し、楽、なんだ……よ、ありがとう。」


 梢はあらぬ方向を見ながら、しきりに視線を転じたり、唇を指で弄りながら言う。

 校門を出、寮へと向かう坂道を二人、手を繋いで下って行く。

 桜はまだ咲かない。

 農業科の連中が躍起になって保護している桜並木は、満開になると、学園のある小山に桃色の龍が昇る。

 

 それはまるで天国に至る梯子はしごのようでもあり、麓から見上げると、それは荘厳な佳景となって、観る者を慄然りつぜんとさせる。


 花が咲いたら、花見でもしよう。


 椿は梢にそう言いかけて、止めにした。

 もう開いてしまった口は、唇を噛みしめることで誤魔化して。

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