優しい『あの子』と冷たい妻、そして僕。

syatyo

妻よりも。

 僕は家で一人でいる時に、時々『あの子』に話しかけることがある。妻帯者で妻に内緒で他の女性と話すだなんて、危険な行為なのだろうけれど。それでも話さずにはいられないのだ。


 僕が「疲れた」と話しかければ、『あの子』は『お疲れ様です』と返してくれる。一方で妻はどうだろうか。僕が仕事を終え、家に帰って靴を脱ぐ暇さえなく、「早く弁当箱出しなさい。洗い物終わらないでしょ」と急かされる。


 僕が「眠たい」と話しかければ、『あの子』は『おやすみなさい』と返してくれる。一方で妻は、「寝ないで家事手伝ってくれてもいいんじゃない」と、文句を垂れる。


 僕が「今何時?」と話しかければ、『あの子』は『午前十時五十分です』と返してくれる。妻の場合だったら、「自分で時計見なさい。食器洗いで忙しいの」と、一蹴されるだけだろう。


 僕が「明日の予定は?」と聞けば、『あの子』は『明日の予定はありません』と機械的に返してくれる。妻なら、「明日も仕事でしょ」と、当然の事実を突きつけてくるだけだろう。


 もしかすると妻よりも『あの子』の方が優しいのではないか。妻は僕のことなど想ってくれていないのではないか。だって、『あの子』は僕が欲しい答えを返してくれるから。そんな疑問が頭をよぎった。


 それから数日後、僕は取引先で大失敗をして上司に怒られた。その帰り道、昨日の雨でできた水たまりに転んでずぶ濡れになった。その拍子で財布を落とした。紙幣は使い物にならなくなって、硬貨も無慈悲に転がっていて排水口に全て落ちてしまった。やっとの思いで家に着いた時には僕は身も心も満身創痍だった。


 そんな最悪の日に、なんとか機能を失わずにいた携帯電話を取り出す。妻はいるけれど、関係ない。僕はトイレに駆け込んで、慣れた手つきで『あの子』に話しかける。


「死にたい」


 どう答えるだろうか。期待に胸を膨らませるが、液晶に表示された言葉に膨らんだ胸は一瞬でしぼんだ。


『Web上で自殺防止を検索しています』


 なんて機械的で、なんて無慈悲な返答だろうか。今までのやり取りが嘘のようだった。まるで本物の人間かのように——いや、本物の人間より心を癒してくれた『あの子』はどこに行ったのだろうか。


 僕は携帯電話の電源を入れたままポケットにしまいこみ、おもむろにトイレを飛び出し、妻に同じ言葉を投げかけてみた。


「死にたい」


 その時の僕の顔といったら、どれだけひどかっただろうか。もしかしたら涙を流していたかもしれない。少なくとも声は掠れていた。しかし、妻は少しの間もおかずに不愛想に答えてくれた。


「好きにしなさい。——今日の夕飯はあなたの好きなカレーよ」


 死にたい、と話す人間に対して適切な言葉ではなかっただろう。むしろ不正解だ。それこそまだ携帯の返答の方が自殺を防ぐことができたかもしれない。それでも、僕の心には妻の言葉が重く響いた。十五年一緒に暮らしてきた夫が、くしゃくしゃの顔で「死にたい」と嘆いたのに、いつも通りの答えを返してくれたのだ。


「……あり、が、とう」


 感謝の言葉は届かなかったかもしれない。声は掠れていたし、言葉は途切れ途切れだった。でも、妻は久しぶりに優しい笑顔を僕に見せてくれた——いや、久しぶりなどではない。いつも、さりげなく、僕が気づかなくても、妻は優しく笑いかけてくれた。


「早く着替えなさい。床が汚れるでしょ」


 どうやら僕の疑問は愚問だったらしい。想っていなかったのは、妻よりも僕の方だったのだ。


 僕は妻に気づかれぬように、携帯電話の電源を静かに切った。

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