指輪の感触

常夜

第1話


 三ヶ月前に結婚届を出した。

 相手はミカという名前で、学生の頃から付き合っている。ふたつ年上の先輩で、みぃちゃんとか、みぃ先輩などと周りからは呼ばれていた。それに倣って僕もみぃ先輩と呼んでいたが、もちろん今はちゃんとミカと呼んでいる。

 式は挙げておらず、新婚旅行にも行っていない。妻の両親に挨拶もしたが、テレビドラマのように反対されることもなく、僕たちの結婚をすんなりと認めてくれた。

 二年程同棲していたせいか、結婚したからと言って大きく生活が変化することはなかった。違いと言えば、左手の薬指にある指輪の感触くらいだ。

 仕事が終わり自宅の最寄り駅に着いたころには、時刻は夜の十一時を過ぎていた。

 駅前の人通りの少なくなった繁華街を抜けて十五分ほど歩けば、独身の頃から住んでいる1DKの賃貸マンションが見えてくる。


 部屋の前で鍵を取り出そうと鞄の中を探っているうちに、ガチャリと音がしてドアが開いた。

「おかえり、今日は私の勝ち」と、少し意地悪な笑みを浮かべて、ミカは僕の顔を見上げた。僕が自分で鍵を開けるのが早いか、ミカが音や気配に気付いてドアを開けるのが早いか、というゲームらしくて、ここ一週間ほど一方的に勝負を挑まれている。

「ただいま」

 滑り込むようにして玄関に入ると、ミカの小さな右肩に自分の額をくっつけた。

「疲れた。土日出勤は回避したけど、来週もこんな感じが続くかも」

「そうなんだ、大変ね。外寒かったでしょ」

 ミカの額が、僕の右肩にくっつく。身体が密着し、暖かな体温が伝わってくる。

「ご飯ちゃんと食べれたの?」

「もうちょっとこのままが良い」

 ミカが離れようとしたので、鞄を持っていない右腕で、彼女の腰に手を回す。

 夕飯は要らないと六時ごろに伝えていた。途中で抜け出し、コンビニでパンでも買おうかと思っていたのだが、忙しくて結局食べないままになっていたことを思い出す。

「食べてないけど、適当に何か食べるから」

 ミカも仕事をしているし、明日もあるし、なにより一人分を作るというのは案外面倒なものだ。

 帰ってきて即座に玄関でくっついてくる旦那の相手をするのも、面倒なものかもしれない……などという思考を脇に追いやって、彼女を抱き寄せる右腕に力を込める。

「お風呂入ってきたら? 何か作るから」

「もうちょっとこのままが良い」

「アキオくんの言うこと聞いてたらこのまま朝になるよ」

「このまま時間が止まってしまえば良いのに」

 くっつけていた額を離して、ミカの顔を見つめる。付き合って、同棲して、結婚した。何も変わらない。ミカはあたたかくて、可愛い。

「ミカ、可愛い」

「わ、わかったから何か食べたいものリクエストで」

「うーん、じゃあ、作るの一番簡単なので」

「はいはい」

 笑みを浮かべながら、すり抜けるようにミカが腕から離れた。

 

 上着を脱いでソファーに座る。

 しんと静まり返った中、簡単にとリクエストしたはずなのに、ミカが鍋やらまな板やら包丁を持ち出している。ミカは別に料理が下手というわけではないが、手際が悪く作るのに時間がかかることが多い。だから僕は、料理している彼女の後姿を、こうやってゆっくりと眺めることができる。

 さらりとした長い黒髪を後ろに束ねて、少し憂いを帯びたような横顔がちらりと視界に入る。落ち着いたゆっくりとした動きに従って、長いスカートが少し揺れる。厚手のクリーム色をしたハイネックのセーターが、彼女から伝わってくる暖かさみたいなものを象徴しているようで、それは良く似合っていると思った。

 堅くなっていた身体が、ゆっくりと溶けていくような錯覚を覚える。手伝おうかなとも思ったが、身体にあまり力が入らない。

「ん? にやにやしてる?」

 視線に気付いたのか、こっちを見てミカが言った。自分の頬に手を当てる。

「ミカさんの手料理が食べられるからにやけてしまう病にかかってしまいました」

「なにそれ」

 笑いながら、ぷいっとこちらに背を向けるミカ。

「というか、簡単で良いよ? 何作ってるの?」

「永谷園じゃないお茶漬けを作ってみようと思って」

 そんなの食べたことない。


 お盆にお椀を乗せて、ミカがテーブルの上に運んできて、向かいに座った。

 どんなものかと覗き込む。梅と、刻んだ海苔、ネギ、鮭フレークと、小皿には漬物が乗っていた。

「ありがと。ほんとに永谷園じゃないお茶漬けだ。なんか草が乗ってるけど」

「水菜だよ」

「野菜なの? 変な名前」

「たぶん野菜……あれ、草なのかな」

 首をかしげてそう言ったミカを視界から外して、お茶漬けに視線を落とす。

「いただきます」

 箸を取って、一口かき込む。

「うまい」

「そう、良かった」

 するすると胃に収まっていく。あっさりとしていて食べやすいし、永谷園みたいに塩っ辛くもない。

「ねぇ、無理してない?」

 ミカが言った。

「え、うまいけど?」

「そうじゃなくって、なんか、仕事で嫌なことあったでしょ?」

「大丈夫だよ」

 お茶漬けをかき込んで、ミカを見る。元気がなさそうに見えた。

「そっちじゃなくて、こっちきて」

 ぽんぽんと左手でソファーを叩く。ミカが隣に座った。そのまま彼女に向かって倒れるように肩に額をくっつける。

「アキオくんがべたべたするときって、なんかしょんぼりしてる確率高いなって思うのは気のせい?」

「うん、気のせい。今は額くっつけたい病だから」

 頭を撫でられて、顔を上げる。ミカの顔が目の前にあって、頭の中がじんじんと熱くなる。ミカの頬に手を当てて、唇を重ねた。

「愛してる」

「私も」

 互いの手を絡ませる。身体を密着させて、ぬくもりを感じる。でないと、男と女の繋がりなどちっぽけで、すぐほどけてしまう。付き合って、同棲して、結婚した。確かなものなど、左手の薬指にある指輪の感触くらいなのだ。

「アキオくん、やっぱりしょんぼりしてるでしょ?」

 ミカの言葉を無視して、僕は彼女を抱きしめた。

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