第45話 暇乞〈イトマゴイ〉

 リビングに入るや否や、女性陣がわいわいがやがやと楽しそうに談笑している光景が目に飛び込んでくる。部屋の中心に設置された木目調のテーブルの上には豪勢な食事が用意されていた。やがて、いただきますの声が室内に響く。


 和菓子屋の女将おかみさんはやはり料理にも精通しているのだろう。すべての料理が洗練されていて、それなのに家庭の温もりを感じるような味付けが成されていた。思わずかき込んでしまって気づけばあっという間に食事の時間は終わる。


 お風呂イベント? 現実世界にそんなものは存在しない、と一切の期待を捨てて広々とした浴槽に浸からせてもらった。案の定、一糸いっしまとわぬ姿の二次元ヒロインなんて突入してくることもなく風呂場を後にする。『松前くん、お湯加減はいかがですか~』などという持田のふざけた声音が聞こえてくるのも最早慣れたものだ。二週間ほど前から割と頻繁に俺の入浴のタイミングを狙って持田はこんなことを言ってくる。……ちょっとした遊び心なのだろうか、温泉でもないのにのぼせかねないからこちらとしては是非とも止めていただきたい。


 日中の疲労と湯上りの気持ちよさに身を任せながら客間のふすまをスライドすると、先に入浴を済ませたパジャマ姿の女子三人が頬を微かに赤くして座り込んでいた。


 もこもことしたパステルカラーの持田。おそらくパジャマ界で有名な凍ったピケのやつだろう。東雲は袖口あたりがふわっとした純白の装いだ。なぜか所々ところどころ透けていて素肌がうっすらと見てとれる。上浮穴は綺麗めなワンピースに薄手のカーディガンを羽織っていた。


 同い年の女性のパジャマ姿は姉貴のそれとは訳が違う。見てはいけないものを見た気がして不意に視線を逸らすと、真っ先に東雲が茶化してきた。


「あれーさくやん、今、見惚れてた?」


 聞き捨てならない言葉に体が反応して東雲のほうを見遣る。にやりと不敵な笑み、というかムカつく笑顔を浮かべていた。


「あーはいはい見惚れてた見惚れてた。で、俺の寝る場所ってどこなの?」


「廊下でも店舗でも好きな場所を使ってもらって構わないわよ? 布団は松前くんの分も用意してあるから」


 いや、心配しないでちょうだいみたいな優し気な微笑みとか別に求めてないから。なに、なんでそんな酷いことを平然と言ってのけるんだ、こいつ。


「同じ部屋はちょっと……」


 持田はボソッと呟いて微かに俯いた。湯上りで体が火照っているのだろうか、頬がほんのりと赤く色づいている。


「廊下とか店舗は冗談として、お兄ちゃんの部屋を使ってくれるかしら」


 平然とした上浮穴の言葉を聞いて、おうと軽く相槌を打つ。


 瀬奈せなさんの部屋まで案内され、電気をつけると殺風景な内装が視界に飛び込んできた。おそらく部屋の中身はほぼ関東に移したのだろう。広々とした空間に用意してもらった布団をそそくさと敷き、溜まっていた疲労を一気に開放するかのごとく寝ころんだ。


 天井の木目を眺めていると過去を思い返してしまう。同級生と旅行なんて修学旅行以外でしたことがなかった。高校に入学してからもエネルギーを消費しない行動を心掛けていたけれど、たまには今日のような過ごし方もいいかもしれない。そんな気恥ずかしくなるようなことを考えていると脳内がぼーっとしてきて、やがて闇に吸い込まれていった。



    *     *     *



「あっという間だったわねぇ。おばさん、寂しくなっちゃう」


 和菓子屋のカウンターに立つ上浮穴のお母さんが温かみのあるゆっくりとした口調で言った。


 五月五日。愛媛は生憎あいにくの雨模様だ。この場にいる全員の寂しさがしずくとなって空から降り、松山の地を濡らしているかのように感じた。


「とても良くしていただいて本当にお世話になりました。このお饅頭、親も姉も喜ぶこと間違いなしです」


 そう言って右手に持った紙袋を少し上にあげた。上浮穴のお母さんは、あらまぁと微笑んでいる。


「ほんとに楽しかったです、大富豪のリベンジをしに必ずまた来ます」


「そーだよー、このままじゃ終われないから!」


 持田は静かに闘志を燃やし、東雲は闘争心むき出しの声音で言った。二人の言葉を受けた上浮穴のお母さんはふふふーっと得意そうな笑みを浮かべている。


「時間、かなり迫っているからそろそろ行きましょう」


 別れの挨拶を見届けていた上浮穴がスマートフォンに視線を向けたまま呟いた。


 最後にもう一度、感謝の念を込めて会釈し俺たち四人は上浮穴の家を出る。片側二車線の国道の中央に設けられた路面電車の停留所でしばらく待っていると、オレンジ色の車体がけたたましい騒音を響かせながら目の前に停車した。


 上浮穴の言葉通り、岡山へ向かう電車の発車時刻が迫っている。え、これ間に合うの? と微かに思ってみたものの、発車時刻が遅れたり路面電車のスピードが上がることはあり得ないのでどうしようもない。無駄な心配は心の奥にしまって、俺は昨日の松山観光を思い返した。


 午前中に歩き回った道後地区。石畳の道と両脇に佇む古民家は趣のある街並みを感じさせつつ、その中にも中層マンションや綺麗めなアパートが点々としていて不思議な空間だった。みかんやタオルの品々が並び、愛媛に来たことを強く実感させる道後商店街。その奥へ進んでいくと、古きやかたが視界に飛び込んできた。日本最古の温泉と呼ばれ、聖徳太子や昭和天皇など崇拝レベルの著名人も来湯されたらしい道後温泉本館は、壮大さと神秘さを兼ね備えた佇まいだった。


 お昼時には松山の隠れたグルメで有名らしい鍋焼きうどんをしょくす。腹を満たしたところで上浮穴のお母さんの運転の元、四国カルストへと向かった。


 細い山道をひたすら進み、山頂に到達すると広大な草原が広がっていた。その中でぽつりぽつりと白い岩石が地表から顔を出し周辺の山々を一望できたのが印象に強く残っている。大地の凄みみたいなものが溢れ出ていてこれまでに味わったことのない非日常感が堪能できた。空の青と雲の白、高原の緑が共存する開放的な空間では身も心も軽くなったような気がして、この先あの感覚を忘れることはないだろう。


 市内へ帰って来た時にはすでに陽が傾いていた。松山の郷土料理である鯛めしを食べ、その足で松山城へ上る。蛇口からみかんのジュースが出るとかなんとか、そういう話は都市伝説だと思っていたけれど松山城目前もくぜんの売店にしれっと存在していて、なぜか笑いが込み上げてきた。


 この地で見たもの、触れたもの。観光地や食に関することだけではなく、上浮穴のこと。それらすべてが新鮮で、俺の知識に少なからずの深みを与えてくれただろう。


 雨のしずくが路面電車の窓にまとわりついていて外の景色はぼやけて見える。そこにどんな建物があったのかは覚えていない。その事実が俺たちの滞在時間の短さを思い知らしめた。

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