第43話 共鳴〈キョウメイ〉

    *     *     *



 一寸先は闇。三階の廊下は不気味な妖気を漂わせ、二人分の靴音だけがいやに反響していた。時折差してくる月の光が廊下に不気味な模様の影を形作り、怖さをより引き立たせている。


 黒髪美少女は相変わらずパーソナルスペースなんてお構いなしと言わんばかりに俺の後ろに引っ付いていた。人間の発する熱みたいなものが常に背中を撫でているような感覚がする。振り返ると頭がぶつかりそうな距離に上浮穴がいる、そんな普通では起こり得ない状況に無言でいるのはまずいと、適当な言葉を口走った。


「理数科でアルバイトしてるのってかなり稀だと思うんだけど、クラスの他の人も結構やってんの?」


「聞いたことはないから分からないわね。勝手な想像にはなるけれど勉強に集中している人が多いから、おそらくいないんじゃないかしら。私はしないと生きていけないから」


 背後にいる上浮穴の表情はうかがい知れない。小さくぼそっと呟かれた言葉にはどんな思いが含まれているのか、俺の背中で受け止めきれるほどのものなのか、それすらもはかりかねた。


『わぁ、あの人、かっこいいなぁ。お洒落だし俳優さんみたい……』


 んー、なんだこの面白くない感じ。まぁいいや、と持田の言葉を気にすることなく平然とした態度を装って俺は口を開く。


「生活費か……」


「ええ。どうしても関東に出たかったのよ。だからお金に関する条件が厳しくなっても特に気にしなかったし、後悔も全くしていない」


 ほーんっと相槌を打つ。口先だけでは納得を示したもののどこかで疑問がもやに形を変えて頭の中を覆った。


「関東よりも愛媛のほうが住みやすいと思うけどな」


「それは否定できないわね。住みやすさで考えるとこの街は素晴らしいと思う。それに、関東に住みたいというだけなら大学選びのときに考慮すればいい話で」


 だけどと、か細い声が耳を撫でた。俺は沈黙によって言葉の続きを促す。


「高校進学のタイミングで引っ越したのは単に……嫌な思い出から自分を遠ざけたかっただけなのかもしれない」


 その言葉を聞いた瞬間、俺は思わず後ろを振り向きたくなった。首を少し捻ったところで思いとどまらせる。


 上浮穴は逃げずに立ち向かうタイプの人間だと勝手に思っていた。冷酷で無感情、その中に絶対的な正しさが含まれる上浮穴の言動からは、逃げの姿勢を感じた瞬間なんて微塵もなかった。そんなものとは対極に位置する存在だとさえ思っていたのだから。


 俺は外見や纏う雰囲気だけで上浮穴の人間像を勝手に造り上げていたのだ。振り向いて彼女の顔を見るということは、そんな身勝手なイメージを本人に押し付ける行為そのものじゃないのだろうか。そう考えると首を捻る動きもぴしゃりと止まる。


 俺は顔を前方に戻し、視線を落とした。


「引っ越したのはそれが理由なのか」


「ええ。両親にはいろんなものをこの目で見たいとかなんとか、それらしい理由をつけて一人暮らしの打診をした。過去の自分を否定するわけでもなく未来の自分のために逃げ道を作るわけでもないと、心の中で繰り返し唱えたりもした。それらすべてが結局、建前でしかなかったのよ」


 聞き終えると同時に、夕方の屋上で耳にした上浮穴の言葉が脳内を過った。過去のことは何も気にしていない、あの言葉すらも建前であって本音ではないのか。


 嫌な思い出から逃げるために関東の高校に進学した。上浮穴の言葉からはそれがいけないことのように聞こえてくる。


 あれこれ考えても、俺がかけられる言葉は一つしか思い浮かばない。


「嫌なことから逃げようとするのは悪いことじゃないだろ」


「そうね、悪いことだとは思わない。けれど良いことだとも思わない」


 上浮穴の言葉は槍にも似た鋭さがあり、俺の抱える持論の盾を突き破って心臓に到達する。後ろ身頃みごろを掴む上浮穴の手にぎゅっと力が込められたのを微かに感じた。


「逃げていたら……それを許容したら……現状は何も変わらず前に進めないじゃない」


 突き立てられた槍先が俺の心臓を貫き、えぐった。


 それから俺たちは一切の言葉を交わすことなく、目的の階段までたどり着く。


 瀬奈せなさんと初めて出会い、カフェで話したあの日。会話の中で上浮穴が大事にしているものという曖昧な存在が出てきた。あのとき俺は全く意味が分からず、かといって本気で知ろうとも思っていなかった。けれど、こうして上浮穴と話してみると少なからず分かることもある。


 友達が欲しい。それが上浮穴の願いだということはおそらく間違ってないのだろう。


 上浮穴が持田や東雲と会話を交わす様子は至極自然な女子高生の日常という感じで、上浮穴がその時間をひどく嫌っている風にも見えない。


 けれど。だからこそ。友達が欲しいというその部分に重点を置いてはいけないという瀬奈さんの言葉の意味も今になってなんとなく感じ取れた。上浮穴の欲するものは核心を突くような会話を交わせる友達であって、上辺だけの馴れ合いで成立させる友達ではないだろう。


 中学時代にはその信条が無残にも粉々に砕かれた。上浮穴が発する言葉はあまりにも鋭くて冷たくて、それなのに正しくて眩しい。それは周囲の人間からすれば決して許容できるものではないのだろう。


 日頃から積極的に逃げの姿勢を取っている俺。苦しみ悩んだ結果、逃げの選択をした上浮穴。


 俺たちが持つ本質は全くの別物だ。


 それなのに上浮穴の心の揺らぎは俺の心をも揺らすような気がしてくる。それはまるで二つの音叉が共鳴するかのようだ。


 共鳴。


 英単語では何だったかなと考えながら真っ暗な階段を見上げると、少ししてふっとアルファベットの羅列が降ってきた。


 あぁ、たしか……シンパシーだ。

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