第40話 温故〈オンコ〉
真っすぐに伸びた白色の廊下を進んでいると、上浮穴は立ち止まる。何かあるのだろうか、と視線を移したけれど何の変哲もない普通の教室だった。上浮穴は室内を窓越しにただじっと眺めて、口を開く様子がない。
「この教室に何かあるの?」
「これといって語ることなんてないわ。三年生のときのクラスがこの教室だったのだけれど……あるのは嫌な思い出だけ」
東雲の問いに対して、視線を教室へ向けたまま上浮穴が答える。
持田も東雲も、もちろん俺も、黙することしかできないでいた。この瞬間の沈黙が絶対的な悪のように感じて口を開こうとしたちょうどそのとき、持田が室内の後方を指差す。
「あれって俳句かな?」
「おそらく、そうね。国語の授業で書いた記憶があるわ」
「へぇ、授業で俳句なんて書くんだー」
懐かしい、と呟く上浮穴。その横では東雲が呟きながら、ずらっと飾られている俳句たちをまじまじと眺めている。
「東雲、俳句知ってんのか?」
「なに、そのイラっとくる言い方! 知ってるよ、
お、おう。びっくりしたわ、勝ち誇ったように言うから知ってるのかと思ったわ。逆になんでマイナーな
「それは俳句じゃなくて
「え? そ、そう? そんなでもないし……」
上浮穴の言葉を聞いた東雲は、俯きながらきょろきょろと視線を泳がせていた。満足げというか嬉しそうなというか、そんな表情を見ているとどうしても伝えたくなってしまう。
「東雲、今のはたぶん褒められてねぇぞ?」
はっ! として顔を強張らせる東雲。そんな様子を気にも留めることなく上浮穴は
「行きましょう」
そう言って上浮穴は歩き始める。俺たちもその後ろをついていくように、足を踏み出した。
一つ、また一つと教室を横切るたびに上浮穴は過去の話を簡潔に語った。美術室では絵の具の減りが驚くほど早かったこと、理科室では二回ほど制服のスカートの
三階から二階、一階と一通り見て回り、校舎の外もぐるっと一周し終わったところで誰かが合図をしたわけでもなく自然と俺たち四人の歩みが止まった。
上浮穴は平然とした様子で立っているけれど、持田と東雲は心なしかどんよりとした表情を浮かべている。
「中学校に行こう、だなんて……ごめんなさい、配慮に欠けてた」
持田は言い終わるや否や視線を落とし、わずかに唇を噛んでいた。東雲は俯いていて表情が窺えず、言葉を発することもない。
上浮穴が語った昔話はどれもこれも不愉快なものだった。いじめ、嫌がらせ。そういった類の言葉は頭の中で反芻するだけでも嫌気が差す。心の底から言葉にならない息苦しさが湧いてきて、それなのに込み上げてきた怒りはどこにぶつけていいのか分からない。そのもどかしさを払いのけたくて、語調が少し強くなってしまう。
「持田が謝るのはなんか違うと思うぞ。過去に何があったかなんて当然知らなかったわけだし、上浮穴もここに来ることは承諾してる」
でも、と呟く持田を遮るように上浮穴は口を開いた。
「松前くんの言う通りよ、持田さん」
ちらっと上浮穴のほうを見遣ると、儚げで、けれどどこか温かみのある微笑を浮かべていた。
「……うん」
数秒の間はあったけれど、持田は顔を上げていつも通りの声音で納得したように呟いた。東雲は一度首を縦に振り、ただじっと上浮穴の顔を見つめている。
上浮穴は持田、そして東雲の顔を一瞥し、一呼吸置いて笑みを消した。
「帰る前に一つ、寄っていきましょうか。唯一好きだった場所があるのよ」
* * *
「おい上浮穴。優等生じゃなかったのかよ、お前」
「その呼び方は止めてくれるかしら? この世で一番嫌いな言葉だから」
三階から屋上へと伸びる階段は薄暗く足の踏み場もないほどに散らかっている。
「お、おう。悪かっ――」
謝罪の途中にも
音を発生させたのは東雲だろう。俺たちは一列になって階段を上っている。前から上浮穴、持田の順だ。後ろには東雲しかいない。
「おい、東雲! 大丈夫か?」
後ろを振り返っても姿は闇に紛れていて確認できない。
「なんとか大丈夫! 滑っただけ!」
東雲が叫んだのと同時に、列の前方からキーッと鉄の擦れる音が響いた。
薄暗がりの中に光が差し、この空間に明かりが戻る。見上げると上浮穴のうしろ姿がオレンジ色に縁どられていた。
足元に転がっているゴミの残骸を気にしつつ慎重に上り、屋上へ出ると思わず感嘆の吐息が漏れる。
「すげぇ景色だな」
屋上に出ると、半分沈んだ太陽が白い雲をオレンジ色に染めていた。柵やフェンスは設けられておらず周辺の街並みを一望できる。
「中学生のとき、ここに来てたの?」
「ええ、頻繁に出入りしていたわ」
持田の問いに上浮穴は平然と答える。
「きっもちいいー!」
後ろを振り向くと、付いた
「この夕焼けはよく見ていた……好きだったの」
一歩先で空を見上げている上浮穴。ここからではうしろ姿しか確認できず表情は窺えない。東雲はただただ黙し、静かに耳を傾けているようだ。
「上浮穴さん」
ただ名前を呼んだだけ、それなのにそこには心なしか上浮穴へ寄り添うような温かみが感じられる。声の主をちらっと見遣ると、持田が風でなびく髪を軽く押さえながら真剣な眼差しを向けていた。
「わたし達と一緒に……部活しない?」
「部活?」
振り向いて、唐突な誘いに要領を得ないというような表情を浮かべる上浮穴。それは東雲も同様だったらしく、口をぽかんっと開いて驚いている。
「三人で広報部を復活させようって話してたんだけどね、四人目がまだ見つからなくて。上浮穴さんと仲良くなりたいし……」
どうかな? と瞳を輝かせながら持田は上浮穴の顔をじっと見つめている。対して上浮穴は、ふうっと軽く一呼吸置いた。
「持田さんの気持ち……とても嬉しいわ」
上浮穴の表情からは校内を見て回っていたときの冷然としたものは感じられない。柔和な微笑みは聖母のような寛大さを備え、優しく語りかけるような趣がある。
肯定的で前向きな言葉。だからこそ、根本的な問いに答えを示していないのが気になった。
持田も東雲も口を閉ざして上浮穴のほうをじっと見つめ、回答を待っているようだ。
「中学生のときにはそういう風に想ってくれた同級生がいなかった。自分を偽るのが嫌で言いたいことを言ったりキツイ言葉を発してきたから、そうなるのも必然だと思っていたの」
「必然……そんなことないよ」
静かに首を振る持田。ひらひらと二度、
清らかな水に木漏れ日が差すかのごとく、持田の澄んだ瞳が太陽の光を反射させている。冷静に、けれど青い炎を宿したような持田の声音は東雲にも伝染したようだ。
「たしかに言葉がキツイっていうのは全くもって賛成だけど、だからって大切に想われないのが当たり前みたいに考えることないじゃん。やだな、そういうの」
持田だけでなく東雲もまたその声には嘘が含まれていないように感じた。持田の言葉、東雲の言葉、そこには個性があって、声のトーンも声の張りも言葉の長さも全てが異なっている。けれど、そこに含まれる想いは同じベクトルを向いていて、矢印の先には上浮穴の心があるような、そんな気がした。
ちらっと上浮穴を見遣ると、ふふっと口元が綻んでいる。
「過去にされたことはそういう私の言動の結果、そのものだから」
上浮穴は一度言葉を区切り一呼吸置いた。だから、と小さく、けれど力強く呟き俺たちのほうへ澄んだ瞳を向ける。
「もう何も気にしていないし、自分の中では過去の話として持ち出せる。あなたたちが気に病むようなことはないわ」
綺麗な笑顔。その背後で沈みかけの太陽が
太陽のような温かみのある上浮穴の微笑みは、俺の心のどこかに影を形作った。
偽るのが嫌いだと、彼女はそう言った。その言葉が本心なのかどうかは分からない。けれど、この先分かるときが来るならば、今はとりあえず信じてみようと、ふと思った。
「広報部……だったかしら? アルバイトが休みの日じゃないと参加できないけれどそれでも構わないのなら、その……やりたいというか……」
顔の横に垂れた黒髪を耳にかけながら上浮穴は呟くが、その声量は尻すぼみになっていく。視線はぷいっと横に逸らされていて、太陽に照らされた頬はほんのりと赤色に色づいていた。
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