4. キライ・イライ

第25話 隠伏〈インプク〉

 暗がりから牛、ということわざがある。暗いところに黒い牛がいてもはっきりわからないという様子から、物の区別がつかないたとえとして用いられることわざだ。


 リア充のイチャコラ言動が夜になるにつれて活発化するという光景はこれの良い例だろう。明るいうちは恥ずかしさが邪魔をするアクションも、暗闇の中では思い切って踏み切ることができる。暗がりによって恥ずかしさの区別が曖昧あいまいになるのは明らかだ。


 今この瞬間、真っ暗な物置の中にいる俺もそれは例外ではなく、今の状況が善なのか悪なのか判断に困っていた。


「ねぇ、妙な吐息が漏れているようだけれど、私の胸に触れることで興奮しているのかしら? ひどく不愉快だわ」


「興奮? そんな二文字では形容できないぐらいに高揚こうようしているぞ」


「はぁ……そこまで開き直って言われると、いっそ清々しいわね」


 体育館裏にポツリとたたずむ物置の中で、俺は柔らかな肉塊にくかいを背中に押し付けられていた。勿論もちろん制服越しではあるけれど、上浮穴かみうけなの胸のふくらみは背中に伝わる感触からでも十分に認識できる。生暖かさがほんのりと伝わってくるのに加えて、かび臭さの中でも異様に主張してくるバニラエッセンスの香りが鼻を刺激し、俺の理性を崩壊へと導いていた。


 背中に同い年の女の子の体が密着している、そんなイレギュラーな状況が心臓の鼓動をより早く、より強くする。


 下半身がかなり危険の状態に陥っていて、俺は苦し紛れに口を開いた。


「お、おい。もう少し後ろに下がれねぇのか?」


「無理よ。何に使うかもわからない装置が場所を取っていて下がれないわ。あなたこそ、前に移動できないの? 故意に移動しない態度を取っているとしか思えないのだけれど」


 お、おう。上浮穴かみうけなが発する一つ一つの言葉には侮蔑ぶべつの念が感じられる。


 両肘を少し動かすだけでもコンッと何かしらにぶつかってしまうぐらい狭い空間で、移動できるスペースなんてあるはずもなく、俺は口を開いた。


「マジで動けねぇよ。なんでこんなに物がつまってんだ? うちの体育教師はもったいない病にでもかかってんのか?」


「独り言は好きなだけ言ってもらって構わないけれど、少しボリュームを落としたほうがいいわよ? 気づかれたくないのでしょう?」


 上浮穴かみうけなささやきが俺の鼓膜を揺らした。全く気持ちがこもっていないような冷たい声音を聞いて、冷凍マグロさながらに身が引き締まる。


 上浮穴かみうけなの言う通りだ。外の人間にバレるのはまずい。


 この物置の外では今まさに、持田が真剣な話をしている最中だろう。扉を開けるわけにはいかないので様子はうかがえないけれど、話し相手が誰なのかは容易に想像がつく。おそらく持田のことを好いている男子だ。持田が受け取ったラブレターの結末が、この扉の先で審議されているに違いない。


「ああ、状況が異常すぎて声量の調整に支障をきたしてるな」


「支障をきたしてるのは喉とか腹筋だけではなくて、脳内もじゃないからしら? たった一人の女性がやって来ただけでこんなところに隠れるなんて、その発想がわたしには理解不能ね」


 上浮穴かみうけなの声が俺の耳を容赦なく突き刺す。うしろから吹き矢で狙われている気分だ。


「しゃーねぇだろ、咄嗟とっさの判断だったんだよ。あのまま持田とはち合わせしてたら俺たちが場所を移さないといけなかっただろうし、校内でトップクラスの人気者と移動なんてしたくないからな」


「別々に行動して他の場所に集合すればいいだけじゃない。まぁ、何を言っても後の祭りだからこれ以上は責め立てないけれど」


 言葉を言い終わるや否や上浮穴かみうけなは、はぁっとため息をついた。その吐息は俺の背後に重くのしかかってくる。


 じめっとした空気中に沈黙が流れた。


 俺と上浮穴かみうけなはどちらも口を閉ざしたけれど、静寂が訪れるということはない。具体的な内容を聞き取ることはできないけれど、扉の向こう側からは男女の話し声が微かに聞こえてくる。


「とりあえず頃合いを見計らって出るしかないな。待つのも面倒だからここで本題に入ってもいいか?」


「ええ。むしろそうしてくれるかしら? やることが山ほどあって暇というわけではないから」


 上浮穴かみうけなの返答を受けて、俺は鼻で軽く空気を吸い込む。埃っぽさが鼻の奥に残って、息苦しさを感じた。


「春休みの最終日、17時半ぐらいに渋谷駅になかったか?」


「春休み最後の日? 渋谷駅……。ええ、居たけれど……なぜそれを? 私のことを見張ってたの? それならそうと、あの場で言ってくれればよかったじゃない。こころよく通報してあげたのに」


 上浮穴は冷然とした声音でまくし立ててくる。


「通報してくださいって声を掛ける不審者はまずいないと思うけどな。この際、俺が不審者かどうかなんてどっちだっていい。電車待ちしている間になんか変なこととか起きなかったか?」


「ひどく抽象的な物言ものいいね。変なこと……電車が遅延してたとか、男性同士で言い争いをしていたとか、その程度だったと思うけれど」


 あの日のあのホームで見た景色が脳内に浮かび上がってくる。持田と何者かが衝突した瞬間に、俺が目視していたのは持田の白いニットであって、ぶつかった被疑者の顔を確認していたわけではない。けれど、男二人の言い争いが原因であるのは一つの可能性として考えられるだろう。


「他に何か――うっおわ!」


 なかったか? と言おうとしたところで、カサカサカサと不気味な音が耳に入ってきた。俺は反射的に且つ静かに声を荒げる。


「おいおいおい、なんか今、やばい音がしたぞ、Gじゃねぇか?」


「は? G? 重力加速度?」


「いや、9.8メートル毎秒毎秒の話なんかしてねぇよ。ゴキブリだ、ゴキブリ」


「ゴキブリ!?」


 アルファベット一文字では反応せず具体的な名称で反応したのは、Gがゴキブリを差すものであると知らなかったからだろう。何はともあれ、上浮穴の悲鳴にも似た叫び声を聞いて、俺は一瞬で確信した。


「……おい、今の声、たぶん外に漏れたぞ」

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