第15話 帰宅〈キタク〉

 東雲ははかなげな目でこちらを見ている。口角を下げたその表情からは、守りたくなるような、いや、守らなければならないと錯覚してしまうような、もろさが感じ取れた。


 元気げんき溌剌はつらつとした東雲しののめの姿はそこにはない。イボツブシタンDのような髪色の女の子が、今この瞬間ではオカンスウェットのように色彩を失っているようだ。


 東雲しののめの口から吐き出された弱弱しい声音は、桜の木のざわめきによって切りきざまれ、空中に散乱する。


 俺は東雲の言葉に対して、納得を示すほかなかった。


「お、おぉ……そうなのか」


「じゃあ、駅まではみんな一緒だね」


 持田もちだは桜を見上げながら呟く。ずっと桜に夢中だったのだろうか、東雲しののめの言動を気にするような様子は微塵みじんも感じられない。


 ピンク色の花びら一枚がひらひらと舞い降り、金髪の上に乗っかる。金色とピンク色とでは完全にミスマッチであり、美しいものとして形容される桜の花びらがその頭上では異物に成り果てていた。


 俺にはその花びらを取り去ってやることはできないだろう。親しい間柄あいだがらであれば冗談の二言三言でも呟きながら、その花びらをつまむとができるかもしれない。けれど、俺がそんな立場になりるかどうかなんて、火を見るよりも明らかだ。俺と持田もちだの関係がそうであるように、俺と東雲しののめもまた、『友達』ではないのだから。


「あ、東雲さん、桜の花びらがついてるよー」


 持田もちだはそう言って、金髪に手を差し伸べた。



    *     *     *



 リビングでは姉貴がショートパンツとキャミソール姿で雑誌を読みふけっていた。


 ドアが開く音に反応したのだろうか、顔だけをこちらに向けて軽く右手を挙げている。


「よー、おかえりー」


「ただいま。あー、今日も全くエロさを感じないな」


 姉貴は眉根をぴくりと動かした。ぼそっと呟いた俺の一言が聞こえてしまったようだ。


「ア゛ぁ? 全部ぬぎゃあいいのか?」


「それだけは勘弁して。目に劇物だから」


 そう言って、俺はソファに鞄を置く。そのとき、横から姉貴の声が飛んできた。


「昨日も思ったんだけど……あんた、彼女できた?」


「は? あり得ねぇだろ」


 突飛とっぴな質問に一瞬たじろいでしまった。


 俺と姉貴の視線が空中で衝突する。互いに探り合うような冷戦状態が数秒続き、姉貴が口を開いた。


「まぁ、どっちでもいいけどさ。あんた、自分が今、歩く芳香剤ほうこうざい状態になってるってわかってんの?」


「歩く芳香剤?」


 意味不明なワードを聞いて、俺は困惑した。けれど、すぐに理解できた。思い当たるふしがありすぎる。


「あっ」


 記憶から溢れてしまった分が言葉に変わって、口から漏れ出た。持田もちだの香水と東雲しののめのシャンプーか。長時間、行動を共にしていたせいで気にならなかったけれど、匂いが移るのは当然だな。


haze of morningヘイズ・オブ・モーニング の香水と semisaryセミサリー の高級シャンプー……急に遊び人になったねぇ」


 姉貴はニヤニヤと笑みを浮かべ、からかうような表情をしていた。


 ヘイズオブ、何? セマサリー? なんで匂いだけでブランドが分かるんだよ。


 そのとき、頭の中に突然高音が響いた。


『お姉さん、すごい! わたしの香水、知ってるんだぁ』


 おっと、持田もちだか。


 姉貴の嗅覚の鋭さって、病気なんじゃないかと疑ってしまうんだよなぁ、毎回。


 姉貴の特技には料理が入っているけれど、これも嗅覚と味覚の異常な鋭敏えいびんさがもたらした結果だろう。


「鼻の神経、手術した方がいいんじゃねぇの? 壊す方向に」


「馬鹿なこと言ってないでシャワー浴びてきたら? もちろん冷水で」


 姉貴は俺の言葉を軽くあしらい、雑誌に視線を戻した。


 こうやってバッサリと男を切っていくのは、どうやら弟だからというわけじゃないらしい。


 以前、姉貴がリビングで電話をしているときの話だ。通話中に姉貴が何度も口にしていた名前から、相手は大学の男友達だとわかった。内容を聞いていると、というか否が応でも入ってきたのだけれど、『は? それはリュウヤが悪いじゃん』とか『ちゃんと電磁波工学の問10やってきてよ?』と言っていた。あぁ、家にいるときと同じように大学でも変わらず男まさりな言動をしているんだろうなぁ、と勝手に想像した。


『うーん、パンツちょっと食い込んでるなぁ……直したいかも』


 持田もちだはまだ電車の中なのだろうか、どうやら深刻な事態に陥っているらしい。俺には想像することぐらいしかできないけれど。


 姉貴はソファに寝転がるような姿勢で雑誌を読んでいる。俺はその様子を横目に見ながらドアのほうへと歩き始めた。


 けっぱなしのテレビの音が背後から聞こえてくる。


「——地球上で約2%なんですよ。イギリス人女性はブロンドヘアーのイメージが強いですけど、根っからの金色を持っている人は限りなく少なくて、ほとんどの方が染めてらっしゃるんですよねぇ」


 一瞬、脳内をよぎった東雲しののめの表情は、変わらず寂しげなままだった。

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