第11話 導引〈ドウイン〉

「ちょ、待って待って。逃がさないよ、松前まさきくん」


 うしろを振り返ると、いつもと変わらない表情で持田もちだが俺を凝視している。


 一切揺れることなくただ一点を見つめるその眼球からは、控えめな迫力が感じられた。


「案内なら持田もちだだけでも大丈夫じゃないか?」


 率直に思っていたことを尋ねると、持田もちだは何も答えず顔を近づけてきた。ゆっくりと俺の耳元まで近づき、連動するように体まで接近してくる。パーソナルスペースなんて気にする様子もない。


 甘い香水の匂いがふわりと漂ってきた。シャンプーの香りも混じっているのだろうか。この世のものとは思えないほどに絶妙な芳香ほうこうが俺の嗅覚を刺激する。……は、破壊力が底知れねえ。


 顔をるかどうか迷っていると、持田もちだかすかな吐息が俺の耳に降りかかった。


「ねぇ……できるだけ一緒にいようよ」


「はぁ!?」


 俺の馬鹿ばかでかい声が職員室内を支配する。


 周りを見渡すと、数人の教師たちがこちらに視線を飛ばしていた。恥ずかしさでじわっと体が熱くなる。


 斎院さや先生もこちらを睨んでいた。先生と俺の瞳が見えない糸でつながると、もちろん恋なんて始まることもなく、先生は『さっさと出ていけ』という風に手を振った。


「と、とりあえず出るか」


「そ、そうだね」


 俺と持田もちだは出口のほうへと進み始める。


 ちらっとうしろを確認すると、東雲しののめも無言のままついてきていた。なんとなくいぶかしむような表情で、何度も俺と持田もちだを交互に見ている。……忙しい奴だなぁ。


 出口のドアを開けると、運動部らしき集団の声がかすかに両耳へ吸い込まれてきた。この棟にはクラスの教室が存在しないということもあって、リア充集団の喧噪けんそうはない。のどかな放課後とはまさにこういう環境のことをいうのだろう。


 持田もちだの顔を一瞥いちべつし、先ほどの言葉を冷静に考え直した。


 突然の発言で動揺してしまったけれど、何の事は無い。


 あの不可思議な現象が発動する時間を一秒でも減らしたい、ただそれだけのことだろう。


 持田もちだは昨日、『俺の考えをのぞき見するのは飽きない』と言っていたけれど、『わたしの考えをのぞき見されるのは構わない』とは言っていない。


 プライバシーが関わってくる以上、持田もちだの本意じゃない行為はつつしむべきだ。


「……この学校、無駄に広いしな。さっさとめぐろうぜ」


 ぼそっと呟いた俺の言葉に、持田がうつむきがちで答える。


「なんだか……ごめんね?」


 どことなくはかなげな表情と言葉の力があいって、しょんぼりとした雰囲気が感じられた。


 わずかな上目遣いによってこれまでの持田もちだとは少し違う一面が形成されている。


「いや、まぁ大丈夫だ。一人よりは二人のほうが何かと便利だろ」


 何が便利なのか自分でもさっぱりわからないけれど、とにかく俺も案内に加わる姿勢を示した。


 現象が発動しないギリギリの距離からストーカーまがいなことをするという手も思いついたものの、悪い予感しかしない。ここはおとなしく同行するのが得策だろう。


 話の区切りを待っていたかのように東雲しののめが口を開く。


「二人って仲良しなんだね!」


「そんなんじゃねえよ」


「そんなんじゃないよ?」


 真実が二倍に増幅されて、東雲しののめのほうへ飛んでいった。


「ハモってるじゃん、仲良し仲良しー」


 東雲しののめはニヤリとした顔でこちらを見つめている。ハモるっていう言葉を聞くとウナギを思い浮かべちゃうんだよなぁ。興奮のあまり、え、ハモ好きなの? とか聞いちゃうと後悔しそうだから注意が必要だ。


「そんなことより、そろそろ行こうよ」


 心なしか持田もちだの声には鋭さが含まれているような気がした。言い終わるやいなや、すたすたと歩き始める。俺と東雲しののめも遅れをとらないように歩き出し、持田もちだの両サイドに並んだ。


 薄灰色うすはいいろの廊下が真っすぐに伸びている。左の窓から差し込む光が床に反射し、光と影によって無秩序な模様が浮かび上がっていた。


 タッタッタと三者さんしゃ三様さんような靴音が壁に反響する。


「ねぇねぇ、東雲しののめさんってどこから転校してきたの?」


 興味津々な様子で持田もちだが尋ねると、東雲しののめは顔色ひとつ変えず答えた。


「イギリスだよ! ロンドン!」


「は!?」


「えぇ!?」


 俺と持田もちだの声が重なった。あまりにもスケールの大きな回答にたじろいでしまう。


 それは持田もちだも同様のようだ。普段から表情の変化が小さいことで定評のある持田もちだでさえ、口をぽかーんっと開けたまま硬直している。


 まじまじと東雲しののめを眺めていると、持田もちだが何かを思い出したかのように叫んだ。


「あぁ! も、もしかして、東雲しののめさんのお母さんって東雲しののめ瀬麗乃せれのさんなんじゃ……」


「あれ、はるるん、ママのこと知ってるの?」


「知ってるよ、大女優だもん! す、すごいなぁ……」


 はぁああ、と声にならない感嘆が持田もちだの口から漏れ出ている。東雲しののめの圧倒的な大物感には度肝を抜かれたけれど、持田もちだの興奮している様子にも少し驚いた。

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