棄てられた人格

 ひとつ、大きな揺れがあって、不意に目を覚ました。目を覚ましたということは、眠っていたということだ。怠いような、具合が悪いような、薄い不快感に眉をしかめる。

 バスの窓から外を見た。太陽はすっかり落ちていて、あたりは暗くなっている。無意識のうちに携帯を手に持っていた。少しいじってみたが、酔いそうになったので鞄にしまった。

 と。

 バスがまだ動いているのに、誰かが立ち上がって移動していた。気配と、音がする。視界の端で紺色の影をとらえた。

 そいつは、僕の隣の席にすとんと腰掛けた。

「自分の名前を言えますか?」

 そいつは半分笑っているような声で、訊ねてくる。無視しようと思っていたのに、どうしてだか答えていた。

「言えるけど、言わない」

「どれが本当の名前だったか判るんです、そんなにたくさん持っていて?」

「そんなにたくさん持ってるわけじゃない」僕は言う。「どれが、何処のだかは、ちゃんと、覚えている」

「だめですよ、きちんと管理しなくては」

 そいつは堪えきれないみたいに、噴き出して、咳払いをした。声の震える感じが、喉が痒いのに無理に喋っているように聞こえた。

「自分が誰だかちゃんと判ってますか? あなたは本当にあなたですか?」そいつは早口で言った。「コアのないあやふやな、顔のない人格ではないですか? 自分の根をちゃんと掴んでいますか? 正しく、自分の名前を言えますか? それ、本当の名前ですか?」

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