微かな風に乗るツバメ

鷹宮 センジ

微かな風に乗るツバメ

そして私は、空を飛んだ。

どこまでもどこまでも続いていく青い空。本当は酷く寒い筈の強風も、体がすべて受け流し、後ろへ去っていく。


このまま飛んで世界を見たい。もっともっも世界を見たい。私はきっと、今この時だけは自由だ。そう思った瞬間に風がピタリと止んで、太陽から受け取った光を映して静かに揺れていたいた海がどこまでも続く壁となって押し寄せてきた。


「っ、うあっ!!」


汗。汗が垂れてくる。最近切ってない前髪からポタリポタリと、一滴ずつ流れてくる。窓から吹き込んでくる風は夏の生温い微風だと言うのに、汗をかいたせいなのか寒く感じる。窓の外には薄っぺらな画用紙に黒い絵の具をベタ塗りしてしまったかの様な平たい夜空が広がっていた。海は見えない。太陽も見えない。あの世界は既に夢でしか無くて、自分は夢から醒めたばかりなのだと気づいてまたベッドに寝転がった。














私の1日。それは母親の声から始まる。母親の声はとても心地が良くて、私はその声以外の声は正直好きになれない。でもそれは好きじゃないと言うだけで、嫌いな訳でもない。沢山の花の咲く花壇の中に埋もれた小さなシロツメクサ。母の声はそんなイメージ。


「夏菜子。朝になったよ。起きよーねー」

「んーー……」


私は自分の返事にちょっと文句を付けたくなった。だって表情だけでも取り繕うとしているのに、完全に声は寝ぼけているもの。誤魔化そうにも誤魔化しきれていない。これでは全然ダメだ。


「夏菜子。まずは着替えてみようか」

「ん」


着替えは私の苦手な事の一つ。着替えは面倒。腕を通す時は肘の限界を試されている気分になるし、足を折り畳んでスカートに突っ込む時は不安定な体のバランスにヒヤヒヤする。だから嫌い。


「夏菜子、朝ごはんどーぞ」

「んーー!!」


これは素晴らしい。エクセレント。流石はうちの母親だけあって朝ごはんには目を見張るものがある。献立は完璧だし、お医者さんにも言われた栄養管理とやらも(私の限られた知識での判断だけど)完璧だ。卵焼き。ハムエッグ。サラダ。どれを取っても超凄い。あ、「超凄い」って語彙がない人の物言いに聞こえる。今度から辞めておこう。


きっと普通の高校生より豪華な朝ごはん。誰よりも優れていると断言出来る母親。私の周囲はちょっと見ただけでこれ程までに恵まれている。ように、見える。


でも、私は自分自身が嫌い。嫌い。大嫌い。私の嫌いなものの一つは間違いなく…と言うよりも間違えようもなく私。


「夏菜子?どうしたのよ。夜は急に叫んで驚いたけど、今朝は機嫌が良かったのに」

「あーー……」


私は恵まれている。とても恵まれている。世の中には私のような子供を産まれる前に捨ててしまうような人がいるのに、私は産まれている。ここまで大切にされている。


でも……私はいつも母親に迷惑をかけてばかり。そして私の父親は……理由なんて一度も聞いたことないけど、多分私のせいで居なくなった。


「あーー…うーー…」


私は普通じゃなくて、普通じゃなかった。みんなと同じように勉強して、友達を作って、部活にも参加したかったけど、それは無理。母親が世話してくれているから私は生きているけど、その負担はずっと母親に付きまとう。


でも、母親は私が好きで、私も母親が好き。だから諦めない。自分がいつか母親に恩返し出来る日を待ち望むことを。私が立って歩いて何でも喋れるように、できるようになる日を。


「夏菜子、準備はいい?」


考え事をしている内に、どうやら車椅子に載せられていたらしい。少しキツいベルトを締められて、後ろのハンドルを掴んだ母親がゆっくり優しく前に押してくれる。開いた玄関扉から外の世界へと運ばれて行く。


そこから上を見ると、そこには白い壁に張り付いたボロボロの泥と藁の塊がある。それはツバメの巣。結構最近まで子供も親もいたのだけど、今はもう旅立っている。親の期待を一身に背負って羽ばたく練習をしていた雛たちの観察は楽しくて、誰もいなくなった巣を初めて見た時は少し取り乱して母親に酷く心配されてしまった。


「んあーー…あ!!」

「ふふ……楽しそうね?夏菜子。そう言えばツバメを毎日眺めていたわねぇ。好きだったのかな?ツバメ」


返答はちゃんと出来ないけど、心の中で頷く。私は鳥が好き。中でもツバメが好き。親が子を甲斐甲斐しく育てて、子供が一人前になったら一緒に旅するツバメが好き。私が生まれ変わったならツバメになりたいし、その時の親は母親の生まれ変わりがいい。


私が自分で歩いて喋れるようになるのは、きっと普通の人にとっては突然空を飛べるようになる感じ。そんな事は有り得ない。人が自分の力だけで飛べるはずはない。そう否定する人もいるだろうけど、できないことなんてきっと無い。


いつかみんなと肩を並べるその日を、母親と笑って青空の下を散歩する日を、私は諦めない。だからこそ私は病院に今日も通い、お医者さんとの訓練も自分が嫌がったりなんてしない。


「あ、夏菜子。ほらアレ、あなたの好きなツバメよ」

「あーー」


母親に促されてふと空を見上げれば、旅立つのが遅れたのか一羽の飛び方の拙いツバメが微かな風に乗って飛んでいった。

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微かな風に乗るツバメ 鷹宮 センジ @Three_thousand_world

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