第1話 

 日が沈みかける頃、彼女がその地区に入って十分は経っただろうか。

 歩くだけで物乞いに声を掛けられ、目の前をドブネズミが横切る。時折、動物の死骸も目に入る。

 腐臭とも呼ぶべき悪臭が体全体にまとわりつき、胃の中を逆流させる。なれるまでには、相応の時間が必要だろう。

「ここ、ね」

 嫋々とし、大量の湿気を帯びた風が肌を撫ぜる。

 彼女――レイン・ウィルコックスの視線の先にあるのは、酷く傷んだ木造の家屋だった。何年も放置され、廃屋と称されてもおかしくない外観。人など住んでいるはずもない。

 しかし、この地区においてそんな常識が適用されない事をレインは知っているし、躊躇している暇もない。戸惑うことなくその家へと歩みを進める。そして、ドアをノックした。

 すると中から、

「入れ」

 男の声が聞こえた。

(いるんだ……)

 分かっていながらも、人の存在に驚き、思わず唾を飲み込む。中の人物はレインの目的の人物だろうか。レイン自身、その人物とこうも簡単に接触できるとは夢にも思わなかった。何度も足を運んだ結果、会えるのだろうと勝手に思っていた。だから、今日はこの地区の様子を見るついでに訪ねただけだった。

 せっかくなら、と恐る恐るドアを開き、中へと足を踏み入れる。

 中は仄暗かった。窓から微量の日の明かりが差し込むものの、部屋全体を明るくするまでには至らない。目がこの暗さに順応するのを待っていると、

「用件は何だ?」

 急かすように家主らしき人物は尋ねてきた。

 五秒ほど黙殺した後、目が暗さに慣れ始め、浮かび上がってきたその人物の輪郭を見つめながらレインは言った。

「――人を殺してほしいんです」



     ●



 神聖エブルハイム帝国――王都・カルサス。

 そこは北に山、南には海といった自然豊かな地であり、林業に漁業、街では製造業が盛んに行われており、商人にも人気の土地だった。

 そのカルサス一の大きさを誇るロイト市場近くの路地に、一人の異様な男が立っていた。

 この国には珍しい黒髪の男だ。服装はそこらの露店商などと変わらない質素な装いだが、手には長い太刀がある。

 視線の先には、三人の男の姿があった。それぞれが剣などの武器を持ち、こちらを睨んでいる。

「店の利権をさっさと渡すなら、痛い目は合わずに済むぜ」

 三人の内、一番恰幅の良い男が黒髪の男に言った。

「俺ら三人はな、裏の世界じゃちょいと有名でよ。『カラマーゾフの三兄弟』。知ってるだろ? 今日の俺は機嫌がいい。一分だけ待ってやる」

 ほくそ笑みながら、言い放つが、

「その必要はない」

 黒髪の男はため息をつき、

「俺も雑魚に構っている暇はないんだ。さっさとかかって来いよ」

 これから嫌々子供の遊戯にでも付き合うかのように、冷めた表情を向けた。

「てっめぇ! ぶっ殺してやる!」

 憤慨した三人は黒髪の男に襲い掛かる。

「動きが素人だ」

 そう呟いた黒髪の男は、太刀も抜かず、ただ身を動かし三人の攻撃を避けていく。

「三人がかりだぞ……? な、何で当たらねぇんだよ……?」

 恰幅の良い男が、驚きと焦りを混ぜたような顔をする。

「これがお前たちと俺との差だ。それが分かったらさっさとこの件から手をひけ。もし、どうしてもあの店の利権が欲しいって言うのなら、俺もそれ相応に相手をしなくちゃならんがな」

「避けているだけのくせに偉そうに……」

「なら、試してみるか?」

 そう言い、黒髪の男は太刀の鯉口を切る。

「く、くそ!」

 自分たちでも力量差を感じていたのだろう。三人はすぐさま身を翻し、去って行った。

「逃げることはいっちょ前か……もう出てきてもいいぞ」

 肩口から後方へ声を掛けると、頬のこけた男が建物の影から姿を現した。依頼人の商人である。軽く一揖した後、おもむろにポケットから革袋を取り出し、黒髪の男に差し出した。

「これ、護衛のお金です」

 ぎこちなく微笑む商人の男が言うと、黒髪の男は受け取った革袋から金貨を取り出した。

「金貨十枚。確かに受け取った」

 しっかりと一枚ずつ数え、金貨を革袋に戻す。そして、ゆっくりと口を開いた。

「一ついいか?」

「はい?」

「誰でもいい。〈大罪人〉の行方を知らないか?」

「大罪人、ですか? 三年前のヴェルスとの戦争の時の……? さぁ、私には……」

 少し考え込んだ後、商人はそう答えた。

「そうか。また何かあったら依頼してくれ」

 踵を返し、市場の雑踏に消えるかのように歩き出した。

「フェリックス……。必ずお前を探し出してやる」


 男が向かったのは、街の東部に位置するある地区だった。先ほどまでいたロイト市場とは真逆と言っていい場所である。

 その周辺に活気は無く、通りに人も少ない。そして、その元凶こそ男が目指している地区の存在なのだ。そこを囲うように、十メートルほどの高さの塀が延々と続いている。まるで中の猛獣を外に出さないようにしているよう。そして、その塀には一か所だけ中へと入ることの出来る門が備え付けられていた。両脇には二人の門番。装いはプレートメイル。国直属の騎士である。この地区――〈瘋癲街(ふうてんがい)〉は国の許可なく外部から入る事ができない。もちろん、中から外に出ることも同様である。何故なら、この地区に住む人間には共通点がある。それは、社会に適合していないということだ。

 犯罪を犯した者、ギャンブルに溺れ、全てを失った者、人格が破綻した者――。

 様々な社会継適合者がこの鳥籠のなかで生活をしているのだ。

 その門番に気付かれぬよう、男は近くの空き家に入る。埃が舞い、壊れた家具が散在している。その空き家のトイレに男は向かう。トイレのドアを開くと、そこに便器は無く、大きな穴が開いていた。

 戸惑うことなく、その穴に身を投げる。高さはそれほど高くない。難なく着地すると、視線の先には、人一人が通れるほどの穴が続いていた。闇に包まれたその穴を進んでいく。

 二分ほど歩くと、明かりが見えてくる。そして、その明かりが身を包むと、そこは先ほどの空き家よりも状態が酷い小屋の中だった。

 小屋を出ると、男にとって見慣れた光景が目に映る。瘋癲街の通りだ。

「あらぁ、お兄さん。今ならたくさんサービスしちゃうけど、どう?」

 通りで客引きを行っている娼婦が声を掛けてきた。まるで今から余興でも行うかのような厚化粧の顔に、布切れ一枚で作ったような簡素かつ肌の露出が多い装い。

「間に合っている」

 適当にあしらい、歩を進める。

 しばらく歩くと、男は己の足が何かを蹴飛ばしたことに気が付いた。

「猫、か」

 それは猫の死骸だった。横っ腹から肋骨が見えており、腸がはみ出ている。死んで幾日かは経っているのだろう。ハエもたかり、見ただけで腐臭を脳が覚える。

 そんなものを見ても、男は表情一つ変えなかった。それには理由がある。

 瘋癲街(ここ)では、動物の死骸を見ることなど日常茶飯事なのだ。時折、人さえ死んでいる。そんな環境で生活をしている男からすれば、猫一匹の死などに感慨など湧くはずもない。

 猫の死骸を避け、男は歩き続けると一軒の家屋に辿り着いた。

 荒れ果てた外観。入り口の木製の扉は表面の木が剥がれており、一目で相応の経年を感じる。その扉を開き、中へと入る。この建物こそ、男が住居としている場所なのだ。

 中は昼にも関わらず暗い。この地区自体が多少翳っていることもあり、もし誰かがこの部屋に来たら、昼でも一瞬しののめ時ではないかと迷うだろう。

 部屋の中は中央に食卓があり、椅子は二つ。そして右奥に細身のベッドが二つ。それに対になるように左奥には台所がある。それだけである。

「おい、チル」

 同居人の名を呼んだが、返事はない。特に用事はないので、一々探しはしない。

 今日はもう仕事もないので、男は床上で胡坐をかき、瞑想を始めた。

 男の仕事柄、誰かと物理的に対峙することが多い。その際大切なのは、その状況を幾度も思い描くことである。敵がどのような動きをしてきても対応できるよう、何度も何度も消しては描く。それを怠れば、自身の首を敵に差し出すことになるのだ。

 一時間ほど瞑想を続けていると、外から気配を感じた。耳を澄ませると、小さい足音が次第に大きくなってくる。

(ここに向かって来るか……)

 ここにくる者は二種類いる。


 一、男に仕事の邪魔をされた者。

 二、男に仕事を頼みたい者。


 前者なら報復だ。数人で押しかけ、男に襲い掛かる。しかし、足音は一つ。相応の手練れという可能性もあるが、そんな者から恨みを買った覚えはない。ゆえに、前者である可能性は低かった。

 その時、ドアがノックされた。一応、太刀は男の目の前に置かれており、いつでも手に取ることができる。

「入れ」

 促すと、ドアが開いた。人が一人入ってくる。それは女だった。全身をベージュのローブで覆っているものの、身長、肩幅、そしてかろうじて見える顎のラインからそう推察する。

(女が来るとは珍しいな)

 瘋癲街の治安は最悪である。女が身一つで立ち入れば、たちまち男たちに捕まり、強姦される。そして飽きるまで輪され、最後には金品を全て盗られる。それでも生きていれば、それこそ不幸中の幸いだろう。

 そんな瘋癲街に入り、ここまでたどり着いたということは相当な幸運の持ち主か、何かしらの武術の覚えがあるということだ。

 女は入ってきても口を開かなかった。言葉を選んでいるのか、それとも逆にこちらの出方を窺っているのか。

「用件は何だ?」

待つのも面倒なので、こちらから問う。すると、女はようやくその口を開いた。

「あなたが、何でも屋のラース・ウェルズさんですか?」

「ああ」

「――人を、殺してほしいんです」

「理由を話せ。受けるか受けないかはそれから決める」

 女の言葉を聞いて、ラースはため息をついた。近頃、しょうもない理由から人殺しを依頼してくる若者が増えている。女に振られただの、同僚の昇進が妬ましいだの。この女もその類という可能性もある。ゆえに、理由を聞き、くだらなければ断る。それだけだ。

「養父が殺されたんです」

「殺されただと? 犯人は分かっているのか?」

「依頼を受けて頂けるなら、お話します」

 平坦な声色で彼女は言う。しかし、人に頼みごとをする態度ではない。だが、何でも屋のラースの元にはこのような態度の客は幾度も来たことがある。ゆえに、一度でキレたりするほど沸点は低くない。

「俺は依頼を受けるにあたって、ターゲットも判断材料の一つとする。知らないなら知らないで言い。だが、知っているのに話さないというのは、こちらとしても断る可能性が高くなる。依頼者を信用できないからな。……もう一度聞く、犯人の目星はついているのか?」

「先ほども申した通り、受けて頂ければお話します」

 そっけない返事。この女は依頼を受けてもらう気があるのか?

「あんた、依頼する気が――」

 ラースが立ち上がると、

「主、そう眉を逆立てなくてもいいいではないか」

 ラースの言葉に取って代わったのは、幼さの残る少女の声だった。

「チル……」

 いつのまにかラースの傍には、同居人の姿があった。齢十三の少女だ。

「お前、どこに行っていた?」

「三軒隣のおばさんの手伝いをしていたのだ。だが、帰ってみれば、主がおなご相手に捲し立てようとしているではないか」

「それはお前の邪推だ。俺は必要なことを聞いていただけだ」

「どのような類の依頼であっても、客を無下に扱ってはいけないぞ主。風聞は広がる火の如し。全ての客を平等に扱わなければ、いずれそれが己に返ってくるのだ」

「……誰の受け売りだ?」

「む! 違うぞ! 今のはチルの言葉だ」

 頬を膨らませたチルは、女に視線を向け、

「主がいささか慮外な態度を取ったと思うが、このチルに免じて許してやってくれ。で、何の依頼なのだ? 主に代わってこのチルが話を聞いてやる」

一連の会話を聞いていないためか、改めて女に話を振るチル。ラースは大きく嘆息し、言った。

「あんたがどんな奴の首を狙っているのかは知らないが、その態度じゃどの殺し屋(ぎょうしゃ)に依頼しても同じことだ。殺し屋ってのは案外神経質でな、ハイリターンよりもノーリスクを好むんだ。相手の腕、周辺、そして現在の自分の状態。全てを鑑みてミッションを判断する。何でもかんでも依頼を受ける奴がいたら、そいつは素人だ」

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かつて英雄とよばれた者たちへ 屋富祖 鐘 @danjyo2799

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