ねこぎらい
寝る犬
ねこぎらい
いつの頃からだろう?
とにかく私はアレが大嫌いだった。
丸く大きな、しかし残忍そうな瞳。
敵意と同じく巧妙に隠された爪。
ふとした瞬間に覗かせる鋭い牙。
そして何より、気配を消して我が物顔で、そこらじゅうを好き勝手に動き回るあの姿。
――猫。
そう、あの猫という生き物に対して、私は物心ついた頃には既に憎悪とも恐怖心とも呼べるような、深い嫌悪感を抱いていた。
今日も私は、いつものように近所の商店街へと足を向ける。
空は青く澄み渡り、千切れた綿菓子のように白い雲が所々に浮かんでいる。
早春の木々は淡くも鮮烈な緑で梢を飾り、そよぐ風は肌を心地よくなでた。
それでも私は曲がり角にたどり着く度に足を止め、周囲にアレが居ないことを確認する。
壁に身体を押し付け、そっと道の向こうを覗き見て、耳をそばだてる。
臭いも音も姿も無いことを確認すると、私はやっと次の曲がり角へと歩みをすすめるのだ。
はたから見れば挙動不審かもしれない。
説明をしても一笑に付されるだろう。
それでも私は次の曲がり角に着くと、やはり足を止め、周囲を見回すのだ。
――にゃあああおおおおおう……
まるで悪魔の発する呪詛に満ちた言葉のように、それは突然私の頭上に響く。
それを聞いた私は目を見開いて空を仰ぎ、塀の上から私を笑うアレの姿に身をすくませた。
呼吸が浅くなる。
体中から汗が吹き出す。
縦に窄められた金色の瞳が宙を舞うのと同時に、私は呪いを振り払い、転げるように走った。
今はもう隠すこともされていない鋭利な爪が、一瞬前まで私の立っていた地面をえぐり、小さな砂埃を舞い上げる。
――しいいっ!
苛立ちに満ちたアレの鳴き声を背に、私は脇目もふらず、夕暮れの商店街を駆け抜けた。
人混みの中を縫うように、全速力で走る私の周囲から、怒号と悲鳴が降り注いだが、そんなものにかまっている余裕はなかった。
こんなにも全力で駆けているにも関わらず、そんな私をあざ笑うように、アレの姿が視界の端をかすめる。
店の屋根に、路地のゴミ箱の影に、時には見知らぬ子供に抱かれて、アレは私に向かって口の端を吊り上げてみせる。
その姿を見るたびに、私は反対方向へと走り、もう自分の体が自分では制御できなくなってしまった頃、とうとう地面へと倒れ込んだ。
いつの間にか、空には金色の三日月が顔を出している。
真っ赤な鳥居、暗い森。
私は自分が町外れの神社まで駆けてきたことに気付いた。
喉がひりつき、目はくらみ、唯自分の心臓の音だけが辺りに響く。
倒れた身体の下のひんやりとした玉砂利に、少しずつ体の熱が冷まされてゆくのを感じ、私はやっと小さく息をつくことが出来た。
――にゃあああおおおおおう……
賽銭箱の影から、アレの真っ黒な姿がぬっと現れる。
逃げようとした私に向かって巨大な前脚が素早く突き出され、玉砂利をけろうとした足を押さえ込んだ。
私の身長の半分ほどもある巨大な肉球の先から、普段は隠されている乳白色の爪が顔を出す。
体に何箇所か傷をつけられ、私は無様に転がった。
痛み。恐怖。怒り。絶望。
様々な感情と感覚が私を満たす。
そして最後に残った感情は「諦念」。
身体から力を抜き、すぐにでも訪れるであろう「死」を私は待った。
ふいに身体を地面に押し付けていた巨大な前足の圧力が緩む。
浅ましいことに、その瞬間、私は血を滴らせながら森へと走っていた。
しかし、それはアレの罠だった。
私の気持ちまでも読み、逃げる私を弄ぶ。
命をかけて逃げようとする私の身体には次々と傷が増え、とうとう足を緩められても立ち上がることすらままならなくなってしまった。
本当に動くこともできなくなったのが分かったのだろう。
アレはまだ遊び足らぬとでも行ったふうに、小さく私の身体を転がす。
そして、仰向けに転がった私に向かって、私の身体より大きな口をぽっかりと開いた。
私の断末魔の叫びが境内に響く。
「ちゅう……」
しかし、肺に送る空気すら吸い込む力の無くなった私の声は小さく、森の梢のサワサワという音にかき消されて、満足げに私の首をかじる猫にしか聞こえなかった。
ねこぎらい 寝る犬 @neru-inu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます