〈沙翁古譚翻聞〉ヴェローナ・ラヴァーズ

赤座 林

プロローグ #1

 夏がすぐそこまで来ている。いつだって、そいつは予告なく傍に立っている。

 文句のひとつふたつも垂れたくなるが、それを言ったらこの国では喉が渇くだけだ。春にも秋にも、冬にだって言いたい文句はあるんだから。


               ***


 ブラインドカーテンの隙間から、地上に顔を出した陽の光が部屋に差し込んで、天井のサーキュレータの羽根にちりちりと当たっている。

 左腕がかすかに震えた。起床を促すバイブがPW(パーソナルウォッチ)から発せられたが、僕はとっくに目覚めていた。夏のせいだ。

 ギリギリまで会議と資料整理をし、自宅に立ち寄らずオフィスから深夜のコミュータで〈ヴェローナ〉のシティ・エントランス前になんとか到着したものの入城受付イミグレーションは適わず、食事は町場のダイナーで軽く済ませて、エントランス付近の適当に見つけたビジネスホテルに宿泊し、今に至る。

 そして、本日はヴェローナでの特別プロジェクト工程進捗会議に出席予定。


 テーブルのミネラルウォーターを、ぐいと二口流し込んだ。

 安いホテルではあったが、エアシャワー設備があるのは嬉しかった。流水には敵わないがないよりはましだ。身体をミストを含んだ空気で皮膚洗浄し、気に入った香りをつけてくれる。今日一日なら、我慢できるだろう。

 市庁舎には30分ほど早めに出かけていって、関連資料をもう一度目を通しておこうと思う。

 とにかく、こじれているプロジェクトではあることは確かだった。プロジェクト規模としてはさほど大きくはないのだが、関係者同士の利害関係が収まっておらずプロジェクト自体は進捗していないに等しい。

 推進する方とすれば「様子見」というのが落とし処だが、やることはやらなくてはならない。進捗しなくとも会議は行わなければならないのだ。


 シャワーの後で部屋から出た。ミネラルウォーターを求めに廊下に出ると、後から声をかけられた。

「おはよう、火室ひむろくん」

 振り向くと、企画調整室の霧旗きりはた塔子とうこが立っていた。

「あれ、同じだったんですか」と僕はちょっと驚いて言った。

「そんなに驚くこと?」と彼女は僕の顔を見て言った。

 僕からすれば、まさか彼女と同じホテルに宿泊していようとは、という驚きと、まさか彼女がこんな安いところに宿泊するとは、という思いが僕の表情にこもっていたはずだ。

「入城できなかったのよ。で、仕方なく」と先読みして、霧旗塔子は言った。

「もう出かけるんですか」てっきり同じ会議に出席するのかと思った。

「次長と待ち合わせしているの」

軽部かるべさん?」

「そうなの。朝一番のコミュータで来るって、会社に無理言ってわざわざ一便運行させたらしいわ」霧旗は首を少しだけ横に振った。

 企画調整室の次長までが出席するのか。

「おあいにく様、きみのプロジェクトにじゃないわよ。彼もわたしも別件」

 そう言うと、霧旗塔子はエレベータへと向かった。僕の横を通り過ぎる瞬間にとても爽やかな香りがした。この香水がエアシャワーにあったら良いなと、僕は思った。



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