想いの証は、傷跡に

御手紙 葉

想いの証は、傷跡に

「あんた、いい加減にしなさいよ!」

 彼女が髪を振り乱して、喉仏を覗かせるぐらいに大口を開け、絶叫をした。俺は危うく風圧で吹き飛ばされそうになる。

 彼女は目に涙を溜め、ゆっくりと近づいてくると、その途端――。

「これが私の受けた恥辱の重さだ!」

 彼女は眉を吊り上げ、拳を腰の前で構えると、それを一気に俺の顎へと突き出した。見事にそれは食い込み、俺の頭蓋骨を震動させ、空へと貫いた。俺は何とも言えぬ呻き声を上げながら宙を飛び、部屋の外へと転がり出た。

 背中を壁にしたたかに打ち付け、ゴフッと鈍く呻く。こいつ、本気で俺にアッパーを浴びせやがった。

「もうこれで何度目なの? 私といるのがそんなに嫌なら、もういいわよ! この部屋に二度と来るな!」

 彼女はそう絶叫すると、俺の腹に蹴りを一発入れ、最後に涙をポロポロ流しながら言った。

「男を信じた私が……あんたなら信じられると思った私が……馬鹿だったわよ」

 彼女はその言葉を最後に、ドアを静かに閉めてしまった。俺は廊下に大の字に伸び、白い天井を見つめながら、呆然としていた。涙さえも出てこない。それは全くの誤解で、俺は何にも悪いことはしていないんだと言っても、彼女には伝わらないだろう。

 それでも俺は恋人としての意地で何とか起き上がり、扉をドンドンと叩いて、彼女に呼びかける。

「違うんだって! それは誤解なんだよ! あの子と一緒に歩いていたのは、道を尋ねられて親切心きかせて案内していたからなんだよ! 嘘じゃない! 本当なんだって!」

 何度もそう声を張り上げるが、彼女から返答はなかった。俺は美由紀、とつぶやきながら廊下へと崩れ落ち、何だかもう疲れて声も出なかった。

 もうこれで終わりかもしれない、とぼんやり思った。何せこれで三度目だ、俺が浮気をしたと勘違いされるのは。

 違うと言っているのに、そんな時に限って俺の元に最悪の状況が舞い込んできて、美由紀に勘違いされてしまう。

 でも、これは俺が誤解を解こうと無我夢中でも彼女を説得しなかったことも原因なのだ。だから、今は必死に説得するしかない。

「美由紀! 違うんだよ! 違うって!」

 ドンドンと扉を叩くが、美由紀の反応はなかった。俺は愕然として、その幽閉されたドアを見つめてどうすることもできず、呆けるしかなかった。やがて床へと腰を下ろし、壁に寄りかかると、大きく溜息を吐く。

 仕方ない。彼女が出てくるまでずっと待っているしかない。

 そう思って目を閉じようしたが、考えてみれば俺は何も悪いことをしていないし、殴られる謂れはなかったのだ。勝手に誤解して、人のことを信じてくれない美由紀も悪い。

 そう思うと、何だかこうして待っていることが馬鹿らしくなってきた。俺は舌打ちをつき、立ち上がると、階段へと歩き出した。顎に残った痛みが、彼女の悲しみの大きさを示しているような気がして、彼女を悲しませることをした自分に腹が立ってくる。でも、俺は絶対に振り向くことはなかった。

 俺は悪くないという意地が頭の片隅に残っていたのかもしれない。でも、最後、段に足を掛ける時、扉の奥から彼女の泣き声が聞こえてきたのは気の所為だったのだろうか。男なんて、やっぱり信じられないのよ、と。


 *


 俺が美由紀と出会ったのは四年前、高校二年の時だった。その日のことはよく覚えてる。燦々と降り注ぐ陽射しが人を殺しそうなほどアスファルトへと照りつけ、俺はその灼熱の中で地べたに横になって干からびようとしていた。

 その不良たちの足音が遠ざかっていく中、俺は動けずに口の中の鉄の味をただ感じ、くそ、と何度もつぶやいていた。俺にはどうすることもできない。ただみっともない姿を晒して校舎裏で大の字になって伸びていることしかできないのだ。

「あんた、馬鹿じゃないの?」

 ふと声がして視線を横へと向けると、一人の女子生徒が犬走に腰を下ろし、ボロボロになった俺を見つめてけらけらと笑っていた。

「好きな女の子を取られて怒るのはわかるけどさ、わざわざ喧嘩が強い不良どもに立ち向かってボコボコにされる必要ないじゃん」

 彼女はキツネのような細い目をさらに細めて、あまり品の良くない笑い声を零す。彼女自身の髪も少し茶色に染められていて、不良のことをどうのこうの言える外見ではなかった。

「これは不可抗力なんだよ。俺はまだ彼女のことが好きだから、絶対にあきらめたくなかった」

「あほらしー」

 彼女はそう間延びした声を上げ、ふと制服のポケットに手を入れて何かを取り出した。そこから抜き取り、差し出してくる。

「ほい」

 それはウェットティッシュだった。俺は間の抜けた顔で彼女の顔をじっと見つめる。

「そのみすぼらしい顔を私にあまり見せないでくれる? 夢に出たら困るからさ」

「あのさ、一つ聞きたいんだけど」

 彼女はきょとんとした顔で、「何?」と首を傾げる。

「お前、誰?」

「やっぱりあんたにはあげない! そこで野垂れ死ね、ウスノロ」

「何怒ってるんだよ」

 俺が彼女の激昂した様子に戸惑いながら言うと、彼女は眉を吊り上げて声を張り上げた。

「あんた本当に覚えてないの? 同じクラスの林田だよ、林田美由紀」

「そんな奴がいたような、いなかったような……」

「最低!」

 彼女は立ち上がり、俺の脇腹を思いっきり蹴り飛ばすと、憤然と去っていった。俺は口をおの字にして悶えながら、最後ひらりとスカートが舞い、見えたものを思い返して涙を浮かべた。

 水玉模様の白だったな……。


 それから俺達はクラスで話すようになったのだった。

「その後はどうなったの?」

 放課後、彼女が真顔でそう聞いてきたので、俺は彼女をまじまじと見つめて言った。

「その後ってなんだよ」

「彼女がよりを戻さないかって言ってこなかった?」

「来なかった。それが何か?」

 彼女はぷっと噴き出し、やれやれと肩をすくめた。

「来る訳ないじゃん、そんなの。もしかして待ってたの?」

 うん、待ってた、と誰もいない教室に響き渡るような声ではっきりとそう言った。

「俺はまだ彼女のことが好きなんだ。今はもう、密かに幸せを願うしかないなって」

「願ったって、あんたの幸せにはならないでしょ」

「いいんだよ、そんな細かいこと気にしてられるか」

 俺が机に頬杖を突いて窓の外をぼんやり見つめてそう言うと、美由紀は顔をしかめて歪んだ笑顔を見せた。

「あんたって変わってるのね。私は一度裏切られたら、その人を想い続けることなんかできないわよ。もうそんな相手のことなんて思い出したくもなくなる」

 彼女は唇を引き結び、何故かそこで苦しそうな顔を見せた。俺はどうしたんだろうと思いながら、それより、とつぶやく。

「林野、お前、なんで他の子の前ではあんなにいい子ぶってるのに、俺の前ではそんなに適当なんだよ」

「だーかーら! 林田だってば! いいのよ、あんたごときの人間に気を遣う必要なんてないでしょ!」

「どういう意味だ、それ」

 俺が半眼で睨むと、彼女はふとくすりと微笑み、小さく何かをつぶやいた。

「でも、まあ、そういうことなのね」

「どういうことだよ」

 俺がそう追求すると、彼女は少しだけ視線を逸らし、彼女にしてはとても穏やかな笑顔で言った。

「まだ……空きがある訳だ」

 俺は何のことかわからず、彼女をぼんやり見つめるばかりだったが、彼女の顔が夕陽の日差しを浴びて薄らと赤く色づいているように見えた。


 俺達はどこでお互いに惹かれていったのか、それは俺自身にもわからないことだったが、気付けばいつも一緒にいるようになっていた。

 卒業式の後、俺が唐突に美由紀に「好きだ」と言ったら、彼女は泣き出し、本当に嬉しそうな顔を見せてくれた。その日から俺達は付き合うことになり、それから二年間、色々あったけど、何とかやってきたのだ。

 だけど、ここでもう終わりなんて。


 *


 俺が美由紀のアパートを後にして行った場所は、近くのゲームセンターだった。何か嫌なことがあったり、気分が乗らない時、よくここでぼんやりと過ごすことが多かった。

 コーラを飲みながら格闘ゲームの台をずっと見つめていたが、そんな中、美由紀の泣き顔が脳裏にちらついて、何度も舌打ちをついた。

 俺が一体何をしたって言うんだよ。そんなに俺のことを信じられないのか……なんであんなに疑うんだよ。

 そう心の中で問い掛けるが、彼女が目の前にいないのに何度つぶやきを零しても、いらだちは消える訳がなかった。

 そんな中、ふと台の側を大きな笑い声を上げて歩く男達の姿が目についた。三人とも図体がでがく、いかつい顔つきをしていた。見るからに柄の悪そうな服装をしていて、唾を吐き散らして馬鹿笑いを続けている。

 俺は顔をしかめながら、その男達をぼんやり眺めていたが、その中心を歩く男の顔を見て、危うく声を上げそうになった。

 それは高校時代、俺をボコボコにした不良のリーダーだった。髪の毛をいかつく立たせていて、金色に染めている。狡猾そうな笑みを浮かべ、鈍い光を放つ両目をぎらぎらさせていた。

 俺はそいつに殴られた時の痛みを思い出し、奥歯が軋むほどに噛み締めた。手の中で自然と空き缶がひしゃげるのがわかる。だが、その男の横で歩く一人の女性を見て、そんな怒りが消え失せた。

 一瞬、懐かしい面影が脳裏を過ったが、俺が好きだったあの彼女ではなかった。男と同じような色に染めた髪を揺らせて大口を開けて笑い、男といちゃついている。

 俺はそんな奴らの様子を見ながら、ふっと周囲の騒音が遠ざかるのがわかった。無音の静寂の中で、その静かな怒りだけが足元を流れる川のせせらぎのように響き渡る。

 ――あの子は一体どうした?

 ――あの子は今、どこにいる?

 ――あの子を、泣かせたのか?

 ――あの子を……捨てたのか?


 俺は一歩足を踏み出し、その男へとつかみかかろうとする衝動を感じたが、踏みとどまった。彼らはそのまま俺に気付かず、メダルコーナーへと消えていった。空き缶はへし折れて俺の掌の中で震えていた。

 結局、仕方がないことなのだ。自分の鬱憤を晴らす為に殴り合いをしたって何にもならない。俺はただ大人しく、昔の傷を癒す為に、静寂に紛れて嗚咽するしかない。

 盛大な溜息を吐いて、俺はゲームセンターを出た。少し冷えた夜風が俺の首元をすり抜け、怒りに茹っていた体を少し静めてくれた。俺は空を仰ぎ、星ひとつない夜空を見つめながら、酒でも飲まねえとやってられねえな、と独(ひと)り言(ご)ちる。

 近くにあった居酒屋へと足先を向けようとしたが、その前にコンビニがあったので、そちらに足先を変えた。結局そこでノンアルコールビールを大量買いして、自分のアパートへと戻った。

 テーブルに所狭しと並べられたビール缶を順番に開けて、喉に流し込んでいく。ちくしょう、と何度も毒づき、胃の中に苦味を溜めていく。

 本当はウイスキーでも煽って発散したかったが、明日も学校があるし、酒なんて飲んで寝過ごしたら、大変だった。

 そう思って、俺はふとそれに気づき、苦笑した。

“明日も学校があるし、ビールなんて飲んで寝過ごしたら、大変だわ”

 それは美由紀の言葉だった。

 フラれた女の言葉を心の中で復唱するとは、俺も本当にねちっこい奴だな、と笑ってしまう。

 いつも俺が好きな女の子は、俺の手の届かないところへと行ってしまう。俺の元に帰って来てくれる人など一人もいなかった。

 美由紀なら、俺を信じてくれる、と願っていたが、そんな甘ったれた幻想は彼女の悲痛な声の前では掻き消えて、捉えどころがなかった。

 俺がどんなに想っていても、それは意味のないことなのかもしれなかった。

 そう考えて、自分の膝を思い切り叩いた。それは違う。俺が彼女達を引き留めて、無理やりにでも自分の元へと連れて帰っていれば、結果は違っていたかもしれないのだ。

 全ては俺の思い切りの悪さ、勇気のなさが原因している。

 彼女に誤解されたのならば、何度だって弁明すればいい。そして、彼女を絶対に手放さないと誓えばいい。

 それなのに、そこまで思っているのに、俺にはどんな行動に出る勇気もなかったのだった。

 俺は机に突っ伏し、ちくしょう、と枯れた声で囁きながら、そっと眠りに就いた。


 *


 最初の大喧嘩は、俺が大学で知り合ったクラスメイトと自分のアパートで宴会をしていた時に起こった。そこには俺を含めた計八人の男女が集結し、わいわいがやがやと馬鹿騒ぎをしていた。

 床にはビールの空き缶が散乱し、調子のいい男どもが支離滅裂な雄叫びを発して踊り狂っていた。女子はそんな男どもを見てけらけら笑っていたが、一人だけ酒を一口も飲まない人がいた。佐木と言うが、彼女がその喧嘩の原因になった。

 その女子は将来女優を目指していて、大学では演劇サークルに所属している。容姿端麗で、性格が悪いのが玉に瑕だが、男子にもかなり人気があった。

 そうして盛り上がっていたところ、ふと男子の一人が立ち上がって、「用事を思い出したぞ!」と絶叫した。

 用事? と俺が赤ら顔で振り向くと、男子が次々と立ち上がり、用事だ、用事だ、と口々に言い出した。

「用事は用事だよ。近くの公園で、天国への階段を上らないか?」

「それはいい!」

 男子どもは訳の分からないことを叫びながら、一列になって踊り、玄関へと歩いていく。

「ちょっと待て。天国への階段を上ったら、大変だろ」

 俺が冷ややかな視線を送ると、男子の一人が人差し指をチッチッチと振った。

「大丈夫だ。天国への階段を上った後は、ヴィーナスが俺らをぎゅっと抱きしめてくれるんだ。真っ裸の巨乳のヴィーナスが」

 本当に訳の分からないことを言いながら、酔っ払い達は部屋を出て行ってしまった。女子達もげらげら笑いながら、「おもしろそー」とその後を追っていってしまった。

「知らんぞ、あいつら……」

 俺は立ち上がる気にもならず、大きく溜息を吐く。

 すると、佐木だけが俺の横に座ったまま、「二人っきりだね」と小さくつぶやいた。

 その部屋にはゴミが散乱し、俺達は足の踏み場もないそのテーブルの前で顔を見合わせた。

「そうだな。これじゃ宴会にもならないから、佐木、帰っていいよ」

 俺がそう言うと、彼女は俯き、黙っている。俺はどうしたんだろうと思った。

「ねえ、もう少し二人で飲んでいない?」

「え? あ、でも、さすがに……」

「平気よ」

 彼女はおもむろに手を伸ばし、ビールの缶を握ると、それをぐいっと飲み干した。彼女が酒を口にしたのはその時が最初だった。

 俺は酔いが回って首をふらふらさせながら、ああ、飲みすぎたな、とぼんやりとつぶやいた。

「ねえ、浩介君」

 ふと声が聞こえて振り向こうとして、心臓が止まりかけた。その端正な顔がすぐ間近まで迫っていたのだ。

「浩介君から見て、私はどう見える?」

「ど、どうって……明るくて演技がうまくて、頼りにしてる友達だけど、」

「それだけ?」

「えっと……なんでそんなこと、突然?」

 俺が言い終わる前に、佐木はずいっと身を乗り出し、床を這ってこちらに近づいてくる。俺はびっくりして後ずさりかけ、勢い余って背後へと倒れてしまった。

「私、浩介君のことが好きなの。浩介君はどう思ってる?」

「ちょ、ちょっと待って。どうって、大事な友達で、」

 俺は妖艶な空気を纏って迫ってくる佐木の顔に、目をぐるぐる回しながら、今更になって後悔していた。もっと早く友人達に美由紀と付き合っていることを打ち明けていれば良かった、と。

 なんとか断らないと、と起き上がって彼女にはっきりと言おうとするが、酔いが回って体に力が入らない。

「好きなの」

 佐木は顔を真っ赤にして、上気した頬を緩ませてそうつぶやく。彼女の手が俺の肩を這い、体が覆い被さってくる。

 彼女がさっきまでビールを飲んでいなかった理由が、少しわかったような気がした。いや、わかってしまったのだ。

「ちょ、佐木、やめ――」

 俺が悲鳴を上げて身を捩ろうとすると、そこで――。

 最悪の事態が起こった。

 すっと玄関のドアが開いたのが佐木の肩越しに見えた。俺の時間がぴたりと止まり、その光景がスローモーションで流れていく。

 美由紀が笑顔ですっと顔を覗かせ、扉を開き、入ってくる。その手にはコンビニ袋が握られていて、嬉しそうにそれを見せようとして――。

 淫らに絡み合う俺達を見て、彼女の手から袋がボタリと落ちた。

 そこから飛び出してきたのは美由紀の好きなバームクーヘンだった。特大サイズの、美由紀のお気に入りのお菓子だった。

 彼女の目が見開かれ、呆然とその顔が硬直し、やがてすっと身を翻した。彼女はぐっと唇を噛み、涙を溜めて音も立てずに部屋を出て行ってしまった。

 俺はショックのあまり、体中の力が抜け、このまま昇天しそうだった。彼女に「違うんだ!」と雄叫びを上げて誤解を解けばいいのに、あまりに色々な出来事が重なり過ぎて、脳内で処理できていなかった。

 佐木がそこでふと、ぴたりと体の動きを止めた。彼女は背後の美由紀には気付かなかったようで、そのままにっと笑った。

「なーんてね!」

 …………………………はい?

「あはははははッ! 何マジになってるのよ! おかしー! 私、今度演劇サークルで劇に出ることになっててさ、ちょっとラブシーンのイメージつかめなくて、セリフ試したかったんだ! もしかして、本気にした?」

 佐木の顔からは先ほどの妖艶な雰囲気は消え去り、いつもの飄々とした笑みが浮かんでいる。俺はその事実が呑み込めず、石像のように固まったまま、掠れた声でつぶやく。

「い……今のは?」

「間違っても私が浩介君に惚れる訳ないでしょ! 毛深いし、顔濃いし、無駄に元気だけあるし。それに私、彼氏いるしねっ!」

 にへら、と彼女は笑いながら、ビールをもう一口飲み、ウゲエ、と呻いた。やっぱり私、酒ダメ~~、まずくて飲めない~~などと零しながら馬鹿笑いを始める。

 俺はようやく頭から血の気が引き、我に返ると、立ち上がってふらつく足取りで玄関へと駆け寄った。

 扉を開いて、美由紀! と声を上げるが、そこにはもう彼女の姿はなかった。

 俺は世界の歩みが止まり、その場に崩れ落ちてしまいそうになる。

 美由紀、とすぐにスマートフォンを取り出して電話をかけようとするが、全くつながらなかった。そこで佐木が玄関に落ちていたそのコンビニ袋に気付き、「あれ」と声を上げながら中から特大バームクーヘンを取り出した。

「わー、おいしそーー! 私に一つちょうだい!」

 勝手に袋を開いて食べ始める佐木には全く気付かず、俺は靴を引っかけて外に出て、美由紀を追いかけようとした。だが、頭がくらくらして、手足に力が入らず、倒れてしまう。

 くそ、何でこんなことに……と思考がまとまらないまま、俺は額を抑えた。


 そうして俺達の間には溝が生まれ、喧嘩の日々が待っていた。何とか謝って弁解し、彼女と別れることは免れたが、俺は自分自身の不甲斐なさが許せなかった。

 そして、俺の話を信じてくれない美由紀にも。だが、あんな光景を見たら、信じようにも無理がある。だからそこで俺が美由紀に必死に弁解して、信じてもらうべきだったのだ。

 その努力を怠った俺に責任がある。

 二度目の喧嘩も同じような出来事で、彼女がこっそりと俺の携帯を覗き、そこに紛らわしいメールがあったことで泣き出してしまったのだった。

 結局その時も信じてもらえなくて俺は謂れのない罪を被せられ、次第に鬱憤が溜まっていった。溝が次第に深まっていき、とうとうこういう事態まで発展してしまった。

 俺自身もこういう出来事が続くことに、心底うんざりしていた。


 *


 次に目覚めた時、時刻は八時を回っていた。俺は一瞬、今がいつで、何をするべきなのか混乱する。そして、ようやくその回想が夢の中の出来事で、これから大学に行くべきだということを思い出した。

 慌ててシャワーを浴び、着替えてアパートを出る。徒歩で二十分の距離にある大学へと駆け込み、何とか講義室へと辿り着くと、後ろの方の席を友人達が陣取っているのが見えた。

「よう、浩介。今日はおせえじゃねえか」

 珍しいな、と友人達は笑いながら、俺の分の席を空けてくれる。

 俺は息を切らしながらそこに座り、机に突っ伏した。しばらく息が弾んで止まらなかった。

 周囲にいる友人達とはあの一件以来、アパートで飲むことはやめているし、佐木とは疎遠になった。こう見えて、美由紀に配慮して、女友達との付き合いも気遣っている努力もしていた。それなのに、こんなことになるなんて。

 思わず拳骨のように大きな溜息の塊が零れた。

「なんか元気ねえじゃねえか。どうしたんだ、一体」

「あ、わかった。彼女にフラれたな? 思い切りぶん殴られて、泣いて懇願して縋り付いたのに、部屋から追い出されたとか」

 友人が大して考えもせずに言った言葉が、ずしりと俺の背中に圧し掛かった。蛙の首を絞めたような声が喉から漏れる。

「なんだ、図星か」

「さてはお前、まだ彼女のこと、あきらめきれてないな」

 好きなんだろ、と友人の一人が珍しく真剣な顔でそう言った。

「俺は……」

 もううんざりしていて、こんなことは金輪際真っ平ごめんだ、と確かに思っている。だが、彼女のことを忘れようとしても、到底忘れられない。

「俺は……まだ彼女のことが好きなのかもな」

「なら、あきらめるなよ。浩介、男だったら、這ってでも女の足にしがみ付いて、離さんぞコラ、って叫んでみろよ」

「でも、その気持ちを信じてもらえないかもしれない」

「いいんだよ、そんなの。好きだから、何度だってアタックする。これが男ってもんよ」

 俺は押し黙って考え続けていたが、その想いが徐々に膨らんでいき、やがて胸を突き破らんと暴れ出す。

 気づけば、椅子から立ち上がっていた。

「……悪い。今度ノート写させてくれるか?」

「当たり前だろ。玉砕して帰ってこい!」

 彼らはそう叫んで俺の背中をかわりばんこに殴り付け、激を付けて、俺を送り出した。俺はおう! と返しながら教室を駆け出た。

 みっともないぐらいに手足をぶんぶん振りながら、俺は心の中でそう叫んでいた。

 ――信じてもらえるかどうかは大した問題じゃない。好きだから、一緒にいたい、と言う。ただそれだけのことだ。


 視界がぐらぐら揺れて呼吸も激しく、息切れしていたが、俺はそのまま倒れてもいいくらいに直進し続けた。彼女にすぐにでも自分の想いを伝えて、その勇気を見せてやりたかった。

 俺はとんでもない気弱で、男気のないヘタレかもしれないが、それでも自分の想っている人に対してぶち当たって砕ける覚悟はもうできていた。彼女に何を言われても、今の気持ちを伝えよう。そして、彼女に俺の本音を信じてもらおう。

 その古いアパートの褐色の壁が見えてくると、俺は何か低い声を上げながらそのまま階段へと飛んだ。一段抜かしで駆け上がり、彼女の部屋の前へと滑り込む。

 もう床の上で気を失いそうだったが、それでも俺は恥も何も気にせずに絶叫した。

「美由紀! 俺は、野田浩介は、お前のことが好きだアァ! 絶対にあきらめないぞ!」

 膝を立てて、汗を弾き散らしながら指を伸ばし、インターフォンを押した。それでも部屋の奥からは応答はなかった。

 ゼエゼエ、と虫の息になりながらも、俺はもう一度叫んだ。

「美由紀! 俺の気持ちには変わりはない! それだけ、わかってくれ!」

 そう言ってインターフォンが駄目だとわかると、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出して、美由紀の番号にかける。

 出ないことはわかっていた。でも、かろうじて留守番電話につながり、俺は飛びつくようにしてスマートフォンに絶叫した。

「俺はやっぱり美由紀が好きだ。他の子に乗り換えるなんて絶対にある訳がない。俺は美由紀が好きで、それ以外の子のことなんて考えられないんだ」

 そこまで言うと、俺は力尽き、床の上に倒れた。昨日見たばかりのあの白い天井が目の前に広がる。俺はぼんやりとそれを見つめながら、言ってやったぞ、と目を閉じた。

 だが、その時だった。スマートフォンから着信音が響き渡り、俺は体の疲労を瞬時に忘れて画面を凝視した。

 美由紀からのメールだった。そこにはただ一文、彼女の本音が綴られていた。


“私はね、もう男を信じることに疲れたのよ”

 俺は言葉を失ってそのメールをじっと見つめていたが、やがて扉へと視線を向けてふっと笑った。

“俺が美由紀を本当に好きだということは信じてくれ。何度だって言うぞ。それだけはあきらめないからな”

“あんた、ストーカーにでもなるつもり?”

“ストーカーにはならねえよ。ただ、美由紀のことだけを、別れてもずっと想ってる”

 その後にはしばらく何の返事もなかった。俺の息がようやく整い、ゆっくりと身を起して首を振る。このままここにいても、仕方がないし、とりあえず出よう。そう思って腰を上げた時、俺の背中に言葉を掛けるようにメールが届いた。

“男には本当に裏切られてばかりだった。もう疲れたの。私を解放して”

 俺はその文面を繰り返し読んで、今まで胸にくすぶっていた言葉にならない違和感がようやく浮き彫りになってくる。何で美由紀はあんなに俺を疑っていたのか。過去に男に裏切られて、大変な目に遭ったような口ぶりだった。

“美由紀、お前、昔男にひといことされたのか?”

“あんたもしてるでしょうが”

“俺のことは置いておいて。お前、捨てられたのか?”

“そいつ、他にもたくさん女引っ掛けて遊んでてさ。私、それでもあいつに会ってる時は、本当に優しくて、本性がわからなかったんだ。柄が悪いのは知ってたんだけどさ”

“何をされた?”

“他にいい女ができた。お前は用済みだって捨てられた。やっぱり私の体目当てだったんだってわかって、私、落ち込んでさ”

 そこでふと扉の奥で、ふっと誰かが笑う声が聞こえたような気がした。俺の錯覚だったかもしれないけれど。

“でも、あんたと出会って少し救われたんだ。ああ、こんなに女の子を一途に想い続ける奴もいるんだなって。でも、もうそれもお終いだね。


 ――バイバイ。


 もうメールを送っても、返ってくることはなかった。俺は歯を噛み締めて、そいつに対してぶん殴ってやりたいという衝動を抑えられなかった。だが、結局彼女からすれば俺もそいつも同じに見えているんだと思うと、気が沈んだ。

 ――どうすれば、美由紀を振り向かせられる?

 仕方なく俺はコンビニに行き、そこで彼女の好きなバームクーヘンをたんまり買った。いつか彼女が俺と一緒に食べようと馬鹿買いして、結局佐木に食べられてしまったことがあったな、と笑う。

 それを持って彼女のアパートへと戻り、扉の前に置いた。そこにそっとルーズリーフの切れ端に書き殴った手紙を添えておく。

 本当に好きだから、俺は何度だって言います。俺はあなたが、好きです。

 俺は踵を返し、少し強引にやり過ぎたな、と先ほどの蛮行を反省しながら彼女のアパートを後にした。


 結局俺が行った場所はゲームセンターだった。学校に戻ろうかと思ったが、もう今更授業を受ける気にはなれなかった。

 アーケードゲームを何とはなしに眺めていると、俺は美由紀の言っていた言葉を思い出して、口の中に苦々しい味が広がる。

 どうすれば美由紀をトラウマから救ってやれるのだろう。こんな毛深いだけの何も取り柄のない男じゃ、彼女に何をしてやれることもできないのだ。

 その時ふと、近くで女性が嫌がる声が聞こえた。俺はすぐに振り向き、眉をひそめてそちらを見遣る。

 一人の女の子が男に腕をつかまれて、強引に引き寄せられている。彼女は泣きながら無我夢中で腕を振り、その男の手を引き剥がそうとするが、その筋肉を纏った太い腕には何もすることもできないようだった。

「やめてよ! 離して!」

 彼女が金切り声を上げて逃れようとする。

「もうあんたとは関わりたくないの! 離してよ!」

「ああ? ベッドの中ではあんなに甘えてきた癖に、手の平返してどういうつもりだ? あ?」

 そう言って彼女の髪をつかもうとする男を見た瞬間、俺は身を乗り出して「やめろよ!」と叫んだ。

 周囲の男どもも振り向いて、一人が俺の腕をつかんで「あ?」と捻り上げていた。俺はその強面のメンツを見て、自分の愚かな行動に今となって後悔した。でも、もう遅い。

「なんだ、てめえ?」

 リーダーらしき男が俺を睨み付け、視線が繋がる。そして、お互いに目を瞠り、お前は、とつぶやいた。

 アワビのように盛り上がったその金髪、筋肉質のでかい体つき……俺を高校時代にボコボコにした、俺の好きだった女の子を取って当然のように捨てた、あの糞野郎だった。

「てめえ……あの時の、俺がボコボコにした豚か。誰かと思えば、こんなところで会うなんてな!」

 男が甲高い笑い声を上げると、周囲の男どもも馬鹿笑いをして肩を揺らせる。

「……その子の腕を離せよ」

「ああ、わかったよ」

 男は女の子の腕を離すと、そのまま――。

 思い切りゲーム台へと突き飛ばした。

 女の子は思い切り頭から台へと激突し、甲高い叫び声を上げた。俺の頭の中で、激情が沸点を超えた。

「お前ら……」

 思わず足を踏み出しかけたが、拳を握り締めたまま何とか堪えようとする。

「あ? やる気か?」

 男が唇の端を持ち上げて笑い、腕をまくり上げる。

「俺も今、気が立っているんだ。怒らせるのも、ここまでにしとけよ」

 俺は低くつぶやき、歯を噛み締める。

「んだと、てめえ」

 男のこめかみに血管が浮き上がる。しかし、すぐに口元に笑みを浮かべ、にへら、と唇を曲げた。そして、俺の世界を壊してしまう、その決定的な言葉を零した。


「お前、美由紀と付き合ってるだろ」


 …………………………あ。

 頭の中が真っ白なペンキで塗りたくられ、思考が掻き消える。なんでこいつが、美由紀の名前を知っている?

「付き合ってるんだろ? 前にてめえと美由紀が一緒に歩いているのを見かけたんだよ」

「何、言って……」

「あれ、俺の女だったから」

 ハ、

 男の言った言葉に、俺は口を少しだけ開いたまま、体のバランスを失いかける。美由紀が、こいつの、?

「すげえ巨乳だし、俺も重宝したんだがよ、あまりにうるさいから捨てたんだよ。一発ヤッた後にな!」

 男はその時のことを思い出して、堪え切れなくなったのか、唾を吐き散らして大声を上げて笑い始める。

「あいつ、泣いて縋り付いてきてよ、どうして裏切るの、なんて言ってさ。元々お前なんか好きじゃねえっつうの! 笑えるよな」

 もう俺の感情を抑えるものは何もなかった。拳をそいつの顔面へと向けて思いっきり突き出す。だが、そんな大振りなど当たるはずもなく、男が笑ったまま顔を反らして避けた。

 そして、それまでの笑顔が消え、ただ能面の無表情で奴は言った。

「表に出ろ」


 ――あんた、馬鹿じゃないの?

 ――わざわざ喧嘩が強い不良どもに立ち向かってボコボコにされる必要ないじゃん。

 ――男には本当に裏切られてばかりだった。もう疲れたの。

 ――ああ、こんなに女の子を一途に想い続ける奴もいるんだなって。


 ゲームセンターの外に出て路地裏に入り、喧騒から遠ざかった瞬間、俺はそいつへと殴り掛かった。

 闇雲に拳を突き出すが、全てかわされてしまう。俺は死に物狂いで男と対峙しながら、心の中で彼女へ向けて言葉を囁く。

 ――俺も、馬鹿なことしてると思ってるよ。

 一発、右頬を殴られる。

 ――確かにボコボコにされに行く必要はないよな。本当に馬鹿だなって自分でも思うよ。

 もう一発、思い切り鼻っ柱を殴られる。

「馬鹿かこいつ。前よりもっとボコボコにしてやろうぜ!」

 男がそう叫ぶと、周りの男達が俺に次々と蹴りや拳を入れて、なぶり者にする。

 ――男は裏切るばかりだってのはわかったよ。でも、俺はそう思われても、君の為に立ち向かうよ。何があっても。

 腹を蹴られ、髪を鷲掴みにされて俺は喘ぐ。

 俺はいつだって美由紀のことを見てる。だから、何があっても、男にボコボコにされても――。

「俺はァアアアアアアアアア!!!!」

 絶叫した。膝をつき、ゆっくりと立ち上がる。

 男達が一瞬動きを止め、呆気に取られたように俺を見つめる。

「こいつ、立ち上がりやがった」

「思いっきりぶっ潰してやろうか」

「俺はァアアアアアアアアア!!!!」

 俺は地面を蹴り、男達に殴られながらも、ただ――。

 突進した。

「俺は美由紀が好きなんじゃア――――――――!」

 男の顔面を思いっっきり拳で、


 殴った。


 男が背後へと倒れていくのがスローモーションで見える。

 俺も視界が真っ白に掻き消え、そのまま崩れ落ちていくのが自分でもわかった。

 アスファルトの上に転がり、空を見上げながら、ごぽ、と血の塊を零す。

「う、うわあ、大丈夫ですか、ゴロウさん!」

「うわ、鼻の骨いってる!」

「いたい、いたいッ! いたあああいッ!」

「ど、どうしよう、とりあえず連れてくぞ!」


 …

 ……

 ………


 その後のことはもう覚えていない。

 何度かボコボコにされた後、ひいひい言う男を抱えて男達は去って行った。

 路地裏に大の字に横になった俺は、ビルに囲まれ、四角く切り取られた空を眺める。

 ……美由紀、やったよ。あいつの顔面に一発、ほんの一発だけ、ぶちかましてやった。

 そうつぶやくと、幻聴か、信じられないことにすぐ傍から「馬鹿じゃないの」と声が聞こえた気がした。

「こんなに体じゅうボロボロになって、一発お見舞いする為に喧嘩するなんて、リスクと利益が釣り合わないわよ」

 俺はふっと血まじりの笑いを上げる。

「俺が美由紀を想う気持ちで釣り合ってるんだよ」

「本当に……本当に、バッカみたい」

 彼女の嗚咽する声が聞こえてくる。

「ああ、馬鹿だろ。自分でもそう思うよ」

「でもね――」

 彼女のふわりと浮かび上がるような、優しい声が聞こえた。

「浩介を信じてみたいって思えたのは、本当だよ。こんなにも……こんなにも、女の子を一途に想い続ける奴もいるんだなって」

 そうか、とつぶやき、瞬きをすると、もう真正面に美由紀の顔があった。

「今、本当に心から笑えたよ」

 美由紀の泣き笑いが、俺の白く霞んだ目に眩しく映る。ああ、だから俺は――。


 彼女を好きになったんだな、と思って、俺は彼女の頭にぽんと手を置いた。


 了




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想いの証は、傷跡に 御手紙 葉 @otegamiyo

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