16 夢

「まさか、お兄さんからそんなことを言ってもらえるなんて思いませんでした」


 僕たちは公園を離れて車道沿いを歩き、ダムの中央に架かる大きな橋の上を歩いていた。橋の下は一面に広がるダムの湖面がある。高さもかなりある。ここから落ちたらまず助からないだろう。道路にも、こんな深夜に走る車などいない。


「結局、どれだけ強がっても僕はこんな人間なんだ」

 雪奈の隣を歩きながら、僕は夜空に吐き捨てるように言った。

「思い出したよ。僕自身の絶望を。そして、それをここで終わらせるべきだとも思った。君が望んだように、最期まで一緒にいるから」

 そして、雪奈の白い手を取った。今の特殊な心理状態のおかげで、それを迷いや照れのない動作で行うことができた。

 雪奈はくすぐったそうに笑うと、その手を強く握り返してきた。ああ、やはり僕たちは愛し合えている。心中するに相応しい。


 ちょうど橋の真ん中くらいまで歩いて来た所で立ち止まり、欄干らんかんにもたれかかった。

「この辺かな。ここで一緒に飛び降りれば仲良く水死体だ。ブクブクに膨れ上がった、ね」

「ロマンのないこと言わないで下さいよう。……まあ醜いのは今も変わりませんし」

 雪奈は綺麗だよ、と言ってあげようかと思ったが止めた。外見のことを言っているのではないことぐらい分かっている。もっとも、内面だって僕から見たら眩しいくらいに美しいけれど。

「……それじゃあ」

 僕は欄干に手をかけてそれにまたがり、そして橋の外へ足を放り出して座った。このまま前に体重を倒せばダム湖へと落ちていく。眼下はまるで奈落だ。見つめ続けていたらその闇の底へ吸い込まれてしまいそうだった。夏なのにうすら寒くさえあった。


「おいで」

「……はい」

 雪奈は一瞬ためらったが、すぐに僕と同じように欄干に座った。そして僕らはまた手を繋いだ。死んでも決して離れないように。

「夜風が気持ちいいね」

「ええ。何だか開放的で、もう既に死後の世界に来てしまったみたいです」

 言い得て妙だ。確かに夜の黒い湖面の上空に座り、わずかな灯りが添えられたこの見渡す景色は幻想的で、広大無辺だ。天国か地獄かはさて置いて、死後の世界、神の国と言ってもおかしくはない。

 ひょっとして、僕たちはもう死んでいるのではないか? なんて。


「君の合図で、飛び降りるから」

「……えっ?」

 雪奈が虚を衝かれたように振り向いた。

「私が、合図するんですか?」

「そうだよ。君が思う時に、好きな合図で飛び降りよう。今すぐじゃなくてもいいし、嫌になったら止めてもいい。――全て君次第だ」

 これこそが、僕が雪奈にここで伝えたかったことだ。


 雪奈の願いを聞き届け、彼女の絶望に正面から向き合う。そうして自分の絶望もここで終わらせる。そのためにここで命尽きようとも構わない。生き延びるとしても構わない。

 丸投げ、無責任と言われてしまえば返す言葉もない。それでも、彼女には誰かから答えを与えようとしたって無駄だと考えたのだ。これは、僕が背中を押して、雪奈自身が答えを出すべきことなのだ。僕は出された答えに全ての責任を負う。それが野上雪奈という少女を愛した自分の答えだった。


 ――沈黙が流れた。長い長い沈黙が。

 雪奈は迷っているのか、それとも今一度飛び降りる覚悟を固めているところなのか。それは分からない。もしかしたらロマンのある合図を考えているだけなのかも知れない。それも分からなかった。

 ただ沈黙が流れた。この深い闇夜の中にいて、僕に分かったのはそれだけだった。

 

 そして遂に、雪奈が言葉を発した。

「……私、今少しビビってます」

「……」

 僕は沈黙をもって応えた。

「何ででしょうね、ずっと望んでいた理想的なシチュエーションだったのに。あと一歩で、あの牢獄みたいな家からも、先の見えない将来からも解放されるのに。一緒に死んでくれる優しい人が隣にいてくれるのに。私はどうして……」

 少し間が空いて、雪奈は続けた。

「どうして、こんなことになったんでしょう……?」

「出会ってまだ二週間なのにね、随分遠くまで来た気がする」

「ええ。でも、お兄さんと過ごした時間は、とても幸せでした。……そうだ! それですよ」

「ん?」

「今私が飛び降りるのをためらっているのは、心残りができてしまったせいですよ!」

「心残り?」

 雪奈は湖面から、開け放たれた夜空から吹く向かい風に髪をたなびかせて、久しく見なかった無垢むくな少女の顔をしていた。


「お兄さんとの時間があまりに幸せだったから、まだもう少し一緒にいたいって、お兄さんがいてくれればもう少しやれそうだって、思ってしまっているんです。それが心残りなんです。お兄さんのせいですよー」

 そう言って手を繋いだままの左腕で僕を小突いた。

「ちょっ、落ちる!」

 落ちる、か。自分から死のうとしておいて、下手な邪魔をされたら「死んだらどうする!」と怒るような間抜けなセリフだ。いや全く、僕らはピエロだ。

「僕がいるから死のうと思ったのに、僕がいるから死ねないって言うの?」

 呆れてため息を吐くが、その口元が案外笑っていたことに自分でも気付いた。

「私、馬鹿みたいですよね」

「じゃあ、君と同じことを思っていた僕も馬鹿だね」

「え?」


「大体一年半前、それまでの全部を無駄にした時、僕は唯一味方をしてくれた姉さんの存在にすがった。……前はあんなことになっちゃったけど、いい人だよ。雪奈のこともきっと受け入れてくれる。でもまだ自分に生きる理由が見つからなくて、そんな時に君と出会った。その時になって初めて誰かの存在を理由に生きたいと思えるようになった。君がいてくれる内は、死ぬにはもったいないって、僕も思うんだ」

「お兄さん……」

 僕らはしばらく情熱的に見つめ合った。


 やがて雪奈は無言で欄干をまたいで橋の歩道に戻った。それが彼女の答えだった。僕もそれに続いた。

「……そんな理由でもいいんでしょうか?」

 雪奈は僕に背を向けたまま小さく呟いて、振り返った。

「あなたと居られるからって理由で生きててもいいんでしょうか?」

 涙を浮かべ、抑えの効かない感情に彩られた未熟な笑みを浮かべる様は、羽化したばかりで羽の乾き切らない蝶のようであった。

「善いとか悪いとかじゃないよ、きっと。生きることに元々理由なんて無いのかも知れない。ただ自分が生きたいように生きればいいんだと思う」

 そう言って雪奈を抱きしめた。強く、でも壊れないように抱擁した。


「僕は取りあえずまだ生きてみるよ。雪奈の存在を拠り所にして。生きるだけ生きてみようと思う。それでも万策尽きて、君を失って、家族も生活の糧も失って、橋の下で野垂れ死ぬまでは、僕は生きるよ」

「お兄さんは強いです。私は、それでも怖い」

「僕だって怖いさ。でも、僕が君を支える。だから……」

 その時、「ふふっ」と雪奈の不敵な微笑が聞こえた。

「分かっていますよ。だって私はあなたを見舞うためにいるんですから」

 そして雪奈も僕の背中に手を回して、ぎゅっと抱擁した。

「雪奈……」

「私も、お兄さんのことを支えます。だから、これからも一緒にいてください」

「っ……ありがとう」

 最後の声はかすれ、情けなく上ずってしまった。


 僕ら二人とも、ふたを開ければこんなものか。生きるのにも、死ぬのにも臆病。

 でも今はそれでいい。お互いがいれば、こんな不条理で生きるには割に合わないような世界でも、幸せを見つけられる。いつか本当の意味でそれぞれの業苦ごうくを乗り越えられるまで、僕は雪奈の存在を、雪奈は僕の存在を理由に生きていくのだ。

 それは同情でも正義感でもない。まして道徳心でもない。同じ痛みを共有し、互いを愛するからこそだ。

 僕はこの時、今まで生きてきた全てが、無意味だとか失敗だったとか思ったことも含めて報われたような心地がした。そして、良い悪いとか関係なく、この世界に無駄な出来事など一つもないのかも知れないとさえ思えた。


 ああ、僕はこんなに幸せでいいのかな。




 車の中。二人は寄り添っていた。

 後部座席に、少女が左側に座り、青年は右側に座ったまま少女の膝に頭を預けていた。暗く狭い軽自動車の中、二人は温め合うように寄り添っていた。その空間は、二人を取り巻く世界をどことなく暗示しているようでもあった。


「またこうして膝枕してもらえるなんて夢みたいだよ」

 青年が語りかける。

「夢……本当、そうですね。今この時が全て夢の中にいるみたいです」

 少女が答えた。

 月のない夜、人気ひとけのない山の中のダム湖のそば。ふわふわと漂う闇の中に、二人を邪魔するものなど何一つなかった。

「人生分からないものだね」

 青年がポツリと言った。

「私たち、幸せになれるでしょうか?」

「さあね。この世界に確かなことなんて多くはないから。今この夜の湖を、いやもっと広い海を漕ぎ出すくらいに途方もない未来が、広がっている」

「それも、嵐の海。ですか」

「ああ、ほんとにね。でもさ……」

 青年は少女の愛しい香りを一杯に吸い込んでから言った。

「少なくとも今この時は最高に幸せだ。過去も未来もどうでもよくなるくらいにね」

 それを聞いた少女は小さく息を飲んだ。

「それは……ふふ、そうですね」

 そして嬉しそうに笑った。

「……エッチしますか?」

 唐突な誘いに、青年はびくりと体を硬直させた。

「こ、ここでするの?」

「お望みとあらば」

「それはそれで乙かも知れないけどね……」

 青年は苦笑しながらも、少女のいつものコケティッシュさが戻ったことに安堵あんどもした。

「僕は童貞だからね。いきなりこのシチュエーションはきついや」

「じゃあ、またの機会にですね」


 そのまま二人は本当に何の行為にも及ぶことなく、やがてどちらからともなく眠りに落ちた。


 疲れ切った二人は深く水底へと沈み、透き通る安らぎに包まれて幸せな夢を見た。


 しかし、その眠りもまたいずれ覚める。


 太陽はそれでも昇り、その日差しが二人を照らすからだ。












 fin.

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はぐれ羊の無能と、お見舞い少女の幻想に捧ぐ 西田井よしな @yoshina-nishitai

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