鬼の事情
小野 大介
本文
このところ、どうも調子が悪い。
仕事はうまくいかないし、隣人とも騒音の問題で揉めるし、スマホは水没するし、サイフは落とすし、さっきなんか犬のフンを踏むし、頼んだシェイクにストローがついていないし……。
どうしてこう嫌な目にばかり遭うんだろう。なにをしても裏目に出る。神様に嫌われるようなことでもしたんだろうか。
ああ、嫌だ嫌だ。うんざりだ。もうなにもしたくない。テレビもつけたくない。どうせまた音がうるさいって壁を叩かれるんだから。
まだ七時で夜になったばかりだけど、腹も膨れたし、このところ残業続きで寝不足だからもう寝てしまおう。
そう思い、布団を敷こうと身体を起こしたところだった。
『ピーンポーン♪』
と、無情にもインターホンが鳴った。
出ばなをくじくとはこのことだよ、まったく。
「チィッ……はいはーい」
嫌がらせでもされているんじゃないかと、そう思いたくなるようなタイミングだったので、つい舌打ちをしてしまう。
「またかなぁ」
隣人かもしれないと思うと途端に気分が滅入る。いっそ居留守を使いたかったけど、もう返事をしてしまったので出るしかない。
俺は小走りで玄関へ行き、恐々扉を開けた。すると、そこに人の姿は無く、代わりに赤い壁があった。
デコボコとした真っ赤な壁だ。
「ん? なんだこりゃ……?」
目がおかしくなったのかと思ってまばたきをしたところ、
「夜分に失礼します」
という声が頭上から聞こえてきた。
「え? ――うわあっ!」
それでふと見上げると、そこには大きくて真っ赤な顔があった。
その頭には二本の角が生えており、口には鋭い牙まである。
「おっ、鬼ぃっ!?」
そう、壁だと思われたものは筋骨隆々な大男、赤鬼の腹だったのだ。
「お兄ちゃん、ゴメンんやけど、ちょっくら邪魔させてもらうわなぁ」
赤鬼は巨体を器用にくねらせて、狭い玄関をくぐり抜けてきた。そして、茫然と立ち尽くしている俺を申し訳なさそうにそっと横に押しやると、奥の間へと進み、畳の上にどっかとあぐらをかいた。
「ハァ~、寒かったぁ……」
赤鬼は大きな溜め息をついたかと思えば、電気ストーブを近くに寄せてくつろぎ始めた。
「……」
現実離れをしたその光景に言葉を失った俺は、なにをどうすればいいのかわからなかったが、とりあえず寒いので玄関扉を閉めきり、鍵をかけた。
「えーっと、なんだこれ? あれ? 俺もう寝てる? 今は夢の中か……?」
ベタだけど頬をつねってみた、かなり強めに。
「うん、めっちゃ痛い」
どうやら夢じゃない。
「あ、幻覚とか……? そうだ、そうかもしれない。確認してみよう」
その可能性を信じ、期待し、恐る恐る奥の間へ近づくのだが、どうやら現実らしいと、途中で悟った。
赤鬼は勝手にテレビをつけて、どの番組を観ようかと選んでいたのだ。
そっと覗けば、大きな手と太い指で器用にリモコンを操作しているのが見えた。
「シュールな……」
シュールの意味はよくわからないけど、きっとこういうときに使う言葉だ。
「ん?」
そんな俺の声が聞こえたのか、赤鬼がこっちを見た。
「ひっ!」
やばい! 食われる! 殺される!
俺は激しく動揺した。恐怖で顔も身体も引き攣り、震えが止まらなくなって、走馬灯のようなものが見えた気がした。
だが、赤鬼は一向に襲ってはこず、それどころかニッコリと笑った。
「大丈夫やって、そんな怖がらんでええから」
「へっ?」
赤鬼がなんとも穏やかで優しい笑顔を浮かべるので、俺は思わずおかしな声を漏らしてしまった。
「ほんまスマンとは思うんやけど、今日一日だけのことやから辛抱してもらえへんやろか。朝になったらちゃんと出て行くから」
赤鬼は流暢な関西弁?を使う、なんだか気さくな人物?だった。
「は、はぁ……」
それで納得できるはずが無いのだが、見事に毒気を抜かれてしまって、またその、これぞ鬼という姿からひしひしと感じられる迫力に気圧されて、おかしなほど冷静にさせられてしまった。
なにかのっぴきならない事情があるのかもしれないなぁ……。
と、そんなことを思うほどに。
とはいえ部屋に入る勇気が持てなかった俺は、鬼とはいえ客人なのだからお茶の一つでも出さなければと思い立ち、玄関横のキッチンへ向かった。そして手早く用意を済ませ、あらためて奥の間に足を踏み入れた。
「あの、粗茶ですが……」
「ありゃ、これはどうもどうも」
赤鬼はあぐらを正座に変えて丁寧に出迎えてくれた。
「お兄ちゃん、若いのに気が利くんやなぁ。今時の子にしてはめずらしいわ。うん、ええこっちゃ」
機嫌を良くした赤鬼は、そのごつくて太い手を伸ばし、ちゃぶ台の上に置いた湯呑みを取った。
正確には湯呑みではなくて、陶器製のビアジョッキだ。きめ細やかな泡ができるという謳い文句で買ったものなのだが、けっこう重宝している。大きいから鬼の手にはちょうど良いと思った。
「ズズゥ~ッ、っはぁ~。ふぅ~、あったまるわ~。またほうじ茶とは嬉しいなぁ~」
赤鬼は満足そうにお茶を飲んでいる。
「あ、あのう、えーっと、鬼様、でいらっしゃいますでございますよね……?」
ずっと黙ったままというわけにもいかないので、ご機嫌な今のうちに話しかけてみようと思い、試してみたんだけど、まだちょっと動揺しているらしく、我ながらおかしな日本語を喋ってしまった。
「ガッハッハッ! 大丈夫大丈夫、そう怯えんでええから。取って喰おうなんて気はさらさら無いから」
赤鬼はまた笑った。今のがウケたようだ。
「ああ、あと、ここはお兄ちゃんの家なんやから、ワシに気兼ねする必要はぜんぜん無いで。ほら、座って座って」
「はぁ……」
うーん、やはり気さくな人物――もとい、鬼だなぁ。想像していたのとはまるで違う。あ、でも、昔話の《こぶとりじいさん》に出てきた鬼はこんな感じだった気がする。
「あのこれ、座布団」
「あー、ええ、ええ。それはお兄ちゃんが使い。ワシが座ったら潰れてまうから。ほら、重いから」
確かに、見るからに重そうだ。……畳、大丈夫かなぁ。
「ワシはな、このとおり赤鬼や。まっ、そのまんまやな。名前はちゃんとあるんやけど、人間には言ったらアカンって決まりがあるから言えんのよ、許してな」
どんな決まりだろう? 気になるなぁ。
「この度はほんま申し訳ない。このご時世やから大丈夫やろうと思ってすっかり油断しとってなぁ、そしたら急に親戚のワッパどもが来てもうて、まんまと追い出されてしもうた。そんで急遽隠れ家が必要になったはいいんやけど、どこもかしこももう一杯や。しゃーないから近所の公園で夜を明かそうとしたんやけど、そしたらこの大寒波や! もう寒うて寒うて我慢できひんかったんよ。そんでなぁ、失礼は重々承知の上、お兄ちゃんの家に避難させてもらったっちゅー話ですわ」
赤鬼は軽快な喋りに身振り手振りで説明をすると、姿勢を正して腰を深く曲げ、合掌までした。本当に申し訳ないと思っているようだ。
「はぁ……あ、まぁ、そういうことでしたらしょうがないですよね。確かに今日は寒いですし。天気予報では雪が降るって言ってましたし。だから、別にいいですよ、一晩ぐらい」
「ほんま? ありがとう!」
赤鬼は安心したようで、またパッと笑顔になった。さすがに見慣れたのか、怖いとは思えなくなった。
「いえ。あ、どうぞ、足をくずしてください。それとこれ、お茶菓子です」
「おお、これは重ね重ねすんません。いただきます」
赤鬼はすぐに足をくずしてまたあぐらをかくと、お茶菓子を一つ取り、ひょいと口の中に放り込んだ。
「ハァ~、美味しいなぁ。こんな親切にしてもらえたんは鬼に生まれて此の方初めてかもしれんわぁ。お兄ちゃんの家に来て良かったわぁ」
そう言ってもらえると悪い気はしないな。
「世知辛いと言われる世の中やけど、そんなことばかりやないんやなぁ。ちゃんと親切な人はいるもんや。悪人が目立つからって一緒にしたらアカンわなぁ。鬼のワシが言うのもなんやけど」
「フフッ、そうですね」
「このニュースもそうやなぁ。さっきから悪いことばっかりや。善いニュースもあるけど、そんなんはすぐに終わってスポーツに行ってまう。まぁスポーツも面白いけどなぁ」
「スポーツ観られるんですか?」
「観るよ、ようこっそり観てる。野球とかけっこう好きやで」
「もしかして阪神ファンですか?」
「そう思うやろ、でもちゃうねん、オリックス・バファローズやねん」
「あ、そっち」
「関西弁イコール阪神ファンと思ったらアカンで」
「あ、いえ、虎柄の腰巻を履かれているので」
「あ、そっち」
それから俺たちは野球談議に花を咲かせ、その後も色々な話をした。
「それにしても、最近は便利な世の中になったもんやなぁ。昔とは大違いやで」
「そうですねぇ。俺が子供の頃はこんなスマホとか無かったですもん」
「電話でも驚いたのに、ケータイとか、スマホとか、もうわけわからんわ。なんやねん、ラインって」
「フフッ、ラインは俺もわからないです」
「SNS、ソーシャル・ネットワーキング・サービスとか言うんやろ? 日本語喋れっちゅーねん」
「け、けっこう知ってるんですね……」
「ほんま、この国の人間はすごいわ。一度はなにもかもが燃えて焼け野原になったっちゅーのに、あっという間に復興させて、高々数十年そこらでこんなにまで急成長させてしまうんやから」
「焼け野原ですか?」
「そうや、焼け野原やったんや。あんときは悲惨やったなぁ。ワシら鬼ですら生きていくのが難しい時代やった……」
「そうなんですか……じゃあ、今の時代の俺たちは恵まれているんですね」
「そうやなぁ、飢えることがまず無いんやから、恵まれているとは思うわ。でもな、どの時代も大変やで。今の子は今の子で大変や。情報があり過ぎるのも考えもんやで。それに昔の人間はなんだかんだ逞しかった」
「確かにそうですね。親父とかお袋を見るとそう思います」
「でもな、それは逞しくないと生きていけんかったからで、今はそうとちゃう。多少弱くても生きていける時代や。戦争も久しくしとらんしなぁ。平和が続くんはええことやけど、そうしたらどうしたってひ弱になるし、脆くもなる……。まぁ、それはワシら鬼も同じなんやけどな」
「鬼もですか」
「ああ、そうや。昔なら今日ぐらいの寒さは屁でも無かったのに、今じゃアカンわ。ストーブとかエアコンが無いと生きてゆけんで」
「え、じゃあ昔は暖房が無くても平気だったんですか?」
「いや、焚き火しとったから。キャンプファイヤーみたいにでっかいの。今はそんなことしたらめっちゃ目立つし、すぐに火事やと通報されてまうからできひんねん」
「あー、ハハッ、なるほど」
鬼との話はまだまだ続いた……。
「……それでなぁ、来年はなぁ……」
「……なるほどぉ……」
「……それじゃあなぁ……」
「……はーい……」
「……」
「……」
………………あれ、声がしない?
それで気づいた、自分が目を閉じていることに。
「あっ!」
慌てて起きて部屋を見回すも、赤鬼の姿はどこにもなかった。
窓の外が明るい。時計を見れば朝の六時だった。
いつの間に眠ってしまったんだろう。そういえば、途中から意識が遠のいて、話半分に聞いていた気がする。これが夢なのか現実なのかの区別がつかなくなって、それで……。
「夢……だったのか?」
誰にでもなく問いかけてみたけど、返事は無かった。聞こえるのはスズメのさえずりとカラスの鳴き声だけだ。
「あれが夢だとしたら、かなり面白い夢だな。妙にリアルだったし……」
俺はあくびをしつつ起き上がり、布団の上にあぐらをかいた。
そういえば、いつの間に布団を敷いたんだろう。
「赤鬼が敷いてくれたとか? フフッ、そんなわけないか」
冗談っぽくつぶやいて、とりあえず一服しようと、ちゃぶ台の上に手を伸ばした。タバコとライターをまとめて掴もうとするのだが、手に触れたのは一枚の紙だった。
それはタバコとライターの上に置かれていた。まるで隠すように。
「なんだこれ……?」
手に取って見ると、それは置き手紙だった。
『この度は大変お世話になりました。約束どおり朝になったので失礼します。一宿と親切のお礼として、お兄ちゃんのところの邪気を持っていきます。ちゃんと豆まきをせんとアカンで。かなり溜まっていたで。危ないで。あと、タバコの吸い過ぎもアカンで。ほな。赤鬼より』
なかなか達筆な字だ。サインペンで書いたとは思えない。っていうか、あの大きな手でよくこんなきれいな字が書けたなぁ。
「驚いたなぁ、夢じゃなかったのか……あ、そっか、昨日は節分か」
手紙を読んで思い出し、カレンダーを確認して納得した。
「そうか、そういうことか」
あの赤鬼がどうしてうちに来たのか、これでわかった。
あの言い分だと、赤鬼がそれまで棲みついていたところも豆まきをしない家だったんだろうなぁ。
「鬼って、本当に豆が苦手なんだなぁ。あんなに大きな身体をしてるのに、フフフッ」
親戚の子たちに追い出される鬼の姿が目に浮かんで、つい笑ってしまった。
あれからというもの、なんだか家が住みやすくなった気がする。具体的にどうと言われると説明が難しいが、以前は空気がよどんでいた。それが今は澄んでいるんだ。
他にも変わったところは多々ある。まずは隣人とのトラブルが解消した。理由は俺から頭を下げたからだ。それまではムキになって争っていたけど、そもそもの原因は俺にあったので、ちゃんと謝罪したらわかってくれた。これからは気をつけよう。
それをきっかけにものの考え方や受け取り方も変わって、なんだか運も良くなった気がする。
おおげさかもしれないけど、毎日が楽しいと思えるんだ。
これってきっと、あの赤鬼が邪気を持っていってくれたからなんだろうな。まぁ、病は気からと言うし、もしかしたら気のせいなのかもしれないけど、あれがきっかけになったのは間違いないから、赤鬼のおかげには違いない。
どんな相手にも親切にするものだよなぁ。それがたとえ鬼であっても。
それはそうと、実はずっと気になっていることが一つある。
赤鬼に出したお茶菓子なんだけど、あれは近所にある和菓子屋で買った豆大福だった。
まだ一つ残っていたので確認したら、中に入っている豆はやっぱり“大豆”だった。
食べる分には問題無いんだなぁ。
【完】
鬼の事情 小野 大介 @rusyerufausuto1733
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