2(雨女)
ある日のこと、ぼくはきいちゃんといっしょに下校していた。都合があって少し遅い時刻だったので、ほかにランドセルを背負った子供はいない。そうして歩いていると、二人だけで知らない惑星にでもやって来たみたいで、標識や信号機が不思議に見覚えのないものに思えた。
歩きながら、きいちゃんは例によって「赤い部屋」という怖い話をした。ぼくはやっぱりその話が怖くてたまらずに、きいちゃんの手を握ってすがりつきたい気持ちだった。自分のすぐ後ろに、とても怖いものが立っている気配を感じた。
きいちゃんの家との別れ道まで来ると、ぼくはほっとした。少なくともこれで、もう怖い話は聞かされずにすむわけだ。
でも手を振って一人で歩きはじめると、その辺の物陰や見えない場所から今にも何かが現れそうな気がして落ち着かなかった。ぼくは絶えずあたりを警戒しながら、最後には走って家まで帰った。
家の中は一応安全圏なのだけど、油断はできない。ぼくは自分の部屋に一人でいるのは避けて、台所に向かい、さりげなくお母さんの見える位置に座ってマンガを読んだり、宿題を片づけたりした。
けれどしばらくして、あることに気づく。縦笛を学校に忘れてきてしまったのだ。何度も確認したけど、どこにも見つからない。
明日の音楽の授業で笛の試験があるから、どうしてもそれが必要だった。音楽の先生はヒステリックで厳しい人なので、練習なしで本番に臨むなんてできない。
とすると、方法は一つ。学校まで取りに戻るしかない。
ぼくはお母さんにそのことを告げて、家を出かけた。お母さんは夕飯の仕度をしていた。肉じゃがかカレーのどちらかを作っているみたいだったけど、どっちなのかはわからない。できればカレーのほうがよかった。
外はまだ明るかったけど、時間的にはもう夕方になる頃だった。太陽はきいちゃんが言うように、血で染まったみたいに真っ赤になっていた。やがて暗闇がやって来る。暗闇には、よくないものが潜んでいる。
ぼくはできるだけ急いで、学校に向かった。心臓が変にどきどきして、いつもの通学路が見覚えのないものに感じられた。何度も帰ろうかと思ったけど、明日の試験には代えられない。
やがて、ぼくは学校に到着した。
校庭には誰もいなくて、広い海みたいにがらんとしていた。いつも来ている場所のはずなのに、放課後の学校は何だか変にのっぺりして、不気味に感じられた。白いコンクリートが今にも溶けてぐちゃぐちゃになってしまうんじゃないかという気がする。
玄関に鍵はかかっていなくて、ぼくは下駄箱で靴を内履きに替えた。廊下がやけに長く感じられる。五年の教室に行くには、三階まで上がらないといけない。
学校にはもう誰もいないみたいで、しんとしていた。でもその「しん」は何もない静かさじゃなくて、普通より密度が高い気がした。何かがそっと、聞き耳を立てている。何かがこっそりと様子をうかがい、見つめている。
ぼくはできるだけ目立たないように、足音を立てないように教室に急いだ。
クラスメートのいない教室はやっぱりいつもの教室には見えなくて、プレゼントのなくなった空っぽの箱みたいに寂しかった。空間がすかすかで、まるで月の裏側にでも来たみたいだった。本当に空気があるのかどうかも疑わしい。
ぼくは恐るおそる中に入って、自分の机のところに行った。縦笛はやっぱり引き出しの中にあって、さすがにほっとする。これで本当は家にあったりしたら、何だかすごくまぬけだ。
縦笛をつかんで、ぼくは教室をあとにした。用事が無事に終わったせいか、誰もいない学校は前ほど怖くは感じられない。
そう思ったときのことだった。
階段を下まで降りて、玄関に向かっているぼくの耳に、
こつん、こつん……
という音が聞こえた。
何かの聞き間違いかと思って足をとめると、音はしない。今の時間、学校には誰もいないのだ。物音がするはずがない。
でもぼくは急に、きいちゃんの怖い話をいくつか思い出してしまっていた。すると、さっきまで消えていた怖さがよみがえってくる。そういう怖いものは、ぼくが気づいていることに気づくと、たちまち襲いかかってくる。
ぼくは痛いくらいに心臓の鼓動を感じながら、再び歩きはじめた。
するとやっぱり、
こつん、こつん……
という音が聞こえる。
ぼくはもう一度、足をとめた。
するとやっぱり、音も止まる。
瞬間、ぞっとした。何かが、ぼくのことを狙っている。それは間違いなく、ぼくのところに向かっている。ぼくは正しい行動をとらなくちゃいけない。でないと、きっと――
「こつん、こつん、こつん、こつん」
物音はもう、ぼくを待ったりなんかはしなかった。その音は明らかにこっちに近づいてきている。
「!」
ぼくは急いで走りだした。廊下を走ってはいけません、なんてことは知らない。お化けに襲われそうになっているのだから、それくらいのことは許してもらえるはずだ。
「こつん、こつん――」
音はもうすぐそこまで迫っていた。ぼくは思わず後ろを振り返ってしまう。そんなことはすべきじゃないとわかってはいたのだけど。
廊下の先、そこには何かが立っていた。
透明なビニールのレインコートを着て、雨も降っていないのに傘を差している。そこだけ浮かびあがっているような真っ赤なエナメルの靴をはいていた。顔は真っ白で、目のところは髪に隠れている。
雨女だ。
と、ぼくは思った。
それは、きいちゃんの話してくれたことだった。雨女は、恋人を待ち続けて、結局肺炎をこじらせて死んでしまった女の子の話だ。待ちぼうけをくらったのは、彼女が約束の日を間違えていたせい。でもそれ以来、彼女は雨の降る日には一人、来るはずのない恋人を待ち続けている。
今はもちろん、雨なんて降っていない。雨どころか、ここは学校の中だ。
でも幽霊にはそんな理屈を言ったって通用しない。何しろもう死んでいるんだから、多少のシチュエーションの違いなんて気にならない。
不意に、やけに大きな声が聞こえるな、と思ったら、それはぼくが大声で叫んでいるのだった。
雨女がこつこつと靴音を立てながら、こっちにやって来る。
逃げなくちゃ、と思うのだけど、ぼくは逆に腰から力が抜けて座りこんでしまっていた。もうまともにものが考えられなくて、がたがた震えながら頭を抱えて小さくなるしかない。そんなことをしたって、身を守れるはずはなかったのだけど。
足音は確実に近づいていた。
殺されるんだ。きっと取り憑かれて、あの世に連れられていってしまうんだ。
そう思ったぼくの耳に聞こえてきたのは、激しい笑い声だった。
「……?」
恐るおそる顔を上げてそっちのほうをうかがうと、雨女がお腹を抱えて身をよじっていた。何かよくないものでも食べて、食あたりでも起こしたのだろうか。
そう思っていたら、どうもその声には聞き覚えがあるような気がした。
「よりくん、いくらなんでもそれは怖がりすぎだよ」
「……きいちゃん?」
ぼくが訊くと、レインコートの相手は笑いながらフードをとって、その顔がよく見えるようにした。
全体が白く塗りたくられてはいたけれど、それはどう見てもきいちゃんだった。長い髪、冷静になって観察してみればぼくとそう変わらない背丈。
「どうして……?」
ぼくは訳がわからなくて訊いた。どうしてきいちゃんがレインコートを着て、どうしてきいちゃんがここにいるのだろう。
「あのね、よりくん」
と、きいちゃんはまだくすくす笑いながら言った。
「わたし、実はよりくんがリコーダーを忘れたのに気づいてたの。だからきっと、学校に取りに戻るだろうと思ってた」
「それで?」
「うん、それで」
きいちゃんはこくりとうなずいた。とても無邪気に。
「わたし、よりくんを怖がらせたくて」
「…………」
そうなのだ。きいちゃんはぼくを怖がらせるためだけに、こんなことをしたのだ。わざわざこんな格好をして、顔をポスターカラーで真っ白に塗りたくったりなんかして。
ぼくはいっぺんに力が抜けて、安心していいのか呆れていいのか、自分でもよくわからなかった。
帰り道、ぼくはきいちゃんといっしょに並んで歩いた。とてつもなくおかしな格好をしたきいちゃんのことを見て、まわりの人がどう思ったのかは知らない。
ただ、きいちゃんはずっと笑っていたけれど。
次の日、ぼくは音楽の試験にめでたく合格した。同じ授業で縦笛を吹くきいちゃんの顔には、絵の具の汚れが落ちにくかったのか、白い跡が少し残っていた。
どうしてそんなふうに怖い話ばかりするのかと、ぼくはきいちゃんに聞いてみたことがある。
「聞きたい?」
と、きいちゃんはブランコを揺らしながらぼくのほうを見た。
大きめの通りに面した公園には、ぼくたちのほかには誰もいなかった。時折、車が前の道を通るほかは物音一つしない。公園にはミニサッカーくらいできる広場があったけど、今はそこも空っぽだった。
ぼくときいちゃんはブランコに座って、時々それを揺らしたり、簡単な言葉遊びなんかをしたりしていたけど、その合間あいまにきいちゃんはやっぱり怖い話をした。
夜中に徘徊する殺人鬼だとか、昔のトンネルに埋められた人柱だとか、壁男の話だとか。そうして怖くなって深夜にトイレに行けなくなったり、誰もいないのに背後に何かの気配を感じたりするとわかっているのに、ぼくはそれをおしまいまで聞いてしまう。
そんなふうにぼくときいちゃんは相変わらずで、時刻はいつのまにか夕暮れ時になっていた。
「黄昏時っていうのはね」
と、色の変わりはじめた公園を見ながら、きいちゃんは言った。
「
その時、ぼくは訊いたのだ。「きいちゃんはどうして怖い話ばかりするの?」って。
「聞きたい?」
と、こちらをのぞきこんでくるきいちゃんに向かって、ぼくはうなずいた。
「それはね、わたしがそういうものを怖いと思っていないから」
きいちゃんはそう言った。
「お化けとか、幽霊とか、そういうものを、わたしは少しも信じていないの。ううん、違うかな。わたしは信じられないの。時々、がんばって怖がってみようと思うんだけど、どうしても怖くならない」
ぼくからしてみれば、とても信じられない話だった。
「――うん、そうだよね」
と、きいちゃんは頬を緩ませた。例の、雰囲気だけを変化させるみたいな笑顔だった。ぼくとしては、笑うどころの話ではなかったのだけれど。
ぼくの考えていることに気づいたのか、きいちゃんは笑顔のままで言った。
「それはね、よりくんに想像力があるから」
「想像力……?」
「そう、よりくんはね、繊細なんだよ。ちょっとした物事でも、そこからいろんな想像をふくらませられる。暗がりの向こうには何かいるかもしれないし、水の底には何かが潜んでいるかもしれない。そこにはどんなものだって存在する可能性がある」
誉められたのかどうか、ぼくにはあんまり自信がなかった。
「でも怖がりでいると、男らしくないってバカにされるよ」
「あら、そんなのどうだっていいじゃない」
きいちゃんは埃をつまみとるみたいに簡単に言った。
「わたしはね、そういうよりくんが好き。どうしてもそれを信じずにいられないよりくんが。わたしが怖がることができないかわりに、よりくんが怖がってくれる。だからわたし、よりくんにいっぱい怖い話をしてあげたくなるの」
喜んでいいのか悲しんでいいのか、ちょっと困る話だった。
「でもきいちゃん、そんなに怖い話ばかりしてるのはよくないよ」
ぼくは怖い話をされるのはやっぱり嫌なので、そう言った。
「きっと悪いことが起きるよ。怖い話につられて、本当に怖いことが起きちゃうんだ」
それはぼくが怖い話をされるたびに思うことだった。お化けや幽霊というのは、こっちが気づかないでいるあいだは安全なのだ。けどぼくたちがその存在に気づいて、向こうもそのことに気づいたら、途端にぼくたちに襲いかかってくる。
「ううん、そんなの平気よ」
けれどきいちゃんはやっぱり、こともなげに言った。
「――もっと怖いことなんて、いくらでもあるんだから」
平然とそう言ってのけるきいちゃんに対して、ぼくは何の言葉も返すことができなかった。
夕陽の赤色はますます濃く、明るくなって、そのまま何もかも溶かしてしまいそうだった。
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